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最高の食事と寝床を用意されて、なんだかよくわからないうちに一晩が過ぎた。
客室になるのかな。広い部屋を用意されて、全てその中で完結出来てしまったので、このお城の中がどうなっているのかわからない。
でも、それで良かったと思う。だって、何かを尋ねられてしまったら、神殿から逃げてきた事を言わなくてはいけなくなってしまうかもしれない。晩餐の食事の作法なんて知らないもの。
浅い眠りでいつも通りの時間に覚めてしまったので、用意されていた服を着てレツに用意された部屋に向かう。
隣の部屋なんだけれど、壁が厚いのか全くレツの気配がしなくて不安になる。
朝になったらレツが消えちゃっているんじゃないかって。
控えめに扉を叩いてみるけれど、中から返答はない。
やっぱりレツはこの部屋の中からいなくなってしまったんじゃないのかしら。
ウィズがなんと言おうとも、一緒に寝れば良かったよ。
いよいよどうにもならない不安で押しつぶされそうになって、恐る恐る扉を開く。
そっと覗いた扉の向こうにある大きなベッドに目を移す。
ぐちゃっと丸まった布団で、レツがそこにいるのかわからない。
「レツ」
そっと声を掛けてみるけれど返事は無い。
寝ていたら悪いかなと思って、音を立てずにベッドの傍に近寄る。
一歩一歩足を進めるごとに、胸の鼓動が大きくなっていく。
ベッドサイドに近寄ると、布団の山が動いてジロっとレツに睨まれる。
「まだ夜明け前じゃん。もうちょっと寝かせて」
何この人間らしい神様。
確かにまだ日が昇るまえだけれど。神官たちはこの時間に起きるのが常なのよ。
安堵なのかそれとも全く違う感情なのかよくわからない溜息をついて、レツの傍を離れる。
なるべく音を立てないように部屋を出て廊下に出ると、壁に寄りかかって眠そうにしているウィズがこちらに目を向ける。
「おはよう」
ごく普通の挨拶をされただけなのに、何て返したらいいか一瞬戸惑う。普通におはようでいいんだよね。
「おはよう。どうしたのこんな早朝に」
レツにはまだ寝かせろって言われたくらい早い時間なのに。
「今、いい?」
「うん」
頷くとウィズが欠伸をしながら伸びをする。
「まさか起きてるとは思わなかったな」
「いつもこの時間に起きてるから」
「そっか」
レツの部屋の隣の、私に与えられた部屋に二人で入る。
どこかに座って話したほうがいいのかなって思って、多分応接用のソファに腰掛ける。
テーブルを挟んだ向かいのソファにウィズは座るのかと思いきや、隣にドカっと腰を下ろす。
ドキっと胸が跳ねる。
何で隣に座るのよ。目の前にも座るとこあるのに。
「お茶でも入れる?」
落ち着かなくて立ち上がろうとするけれど、あっさりと拒絶される。
「いや、別にいらない」
そう言われてしまうとどうしようもないので、少し距離を取って改めて座りなおす。
「本当に今日出て行くつもりか」
「うん。一晩だけで大丈夫。最高の食事と布団をどうもありがとう」
眉間に皺を寄せたウィズの顔が更に険しくなる。
「今日からどうやって生活するつもりだ」
厳しい目線で問われ、咄嗟に答えが出てこない。
一晩考えてみたけれど、これといった策は浮かばなかった。極論、今日のお昼ご飯からどうしたらいいのかわからない。
「とりあえず、村に帰るよ」
それ以外に選択肢が無い。村に帰れば、とりあえずの寝床もあるし、食事にもありつける。それから先の生活については、ゆっくりと考える事にすればいい。
そもそもこの幸運がそんなに長く続かないんだろうという事は、何となくレツの態度からも伝わってくる。
もしかしたら奇跡を起こせなかったら、レツは全てを諦めるつもりだったのかもしれない。
それに心底喜んでいるという風でもない。昨日だって、急に一緒にいたいってまるで泣くように言うし。
きっとそんなに長くはない限られた時間だけ、困らずに生きていければいい。
「村に帰ってどうする?」
「ママと一緒にパン焼くよ。それで多少なりとも生計は立てられると思うの」
「海を見に行くんじゃなかったのか」
ウィズの問いに、心がチクンと痛む。
無邪気に夢だけを追いかけてはいられない。現実が肩に圧し掛かってくる。
「だって海を見に行くお金がないもの」
じーっと見つめるウィズの視線が絡みつく。
何を考えているのかわからない。でも、凄く何かを言いたげで気になる。
言いたいことがあるんじゃないの。言いたいことがあるなら言ってくれたらいいのに。
胸の中に漠然とした、言葉にならない感情が漂っていく。
ふいに視線が外れ、ウィズが溜息をつく。
「ここにいればいい。俺は神殿に行く時以外はこの城を使う事は無い。ここで水竜と二人で暮らしたらいいだろ」
ウィズの申し出はありがたい。でも、ゆっくりと首を左右に振る。
「それじゃ意味がないの。神殿にいた時と何も変わらないでしょ。普通の暮らしがしたいの。誰かにお世話になるんじゃなくて」
「どうして」
「どうしてだろうね。でも、それが出来なかったら意味が無い気がするの」
「意味?」
「うん。本当はね、深く考えて神殿を出てきたわけじゃないんだ。ただ自由が欲しかったの。レツが人間になれたら全てが解決すると思っていたの」
人と話していると、自分の考えがまとまっていく気がする。
そうだ。私は神殿さえ出れば、レツが人間になりさえすれば、それで良いんだと思っていたんだわ。それ以降のビジョンなんてまるで無くて。
ウィズはそんな私の話を相槌を打ちながら聞いている。
「けどね出て見てわかったの。本当は私もレツも傅かれて生活する事に息が詰まっていたんじゃないかなって。だからここにいても神殿にいても、檻の中に捕らわれている気になるの」
「だから自由になりたいって事か」
「そう。だから今日から二人で生きていくよ。きっと、そんなに長い間じゃないと思うけれど」
思わず愚痴が零れてしまう。
どうしてかウィズには言わなくてもいいことまで話してしまう。
言ってしまってから、しまったと思っても遅い。
「どういう意味だ」
「女の勘」
突っ込まれて、うやむやにして誤魔化そうとしたけれど、ウィズは誤魔化されてはくれない。
「何でそう思ったんだ」
思わず溜息がこぼれる。そうやって聞かれたら、ちゃんと答えなきゃいけないじゃない。
でも正直なところ、確実な言質があるわけでもないし、勘と言ってしまえば勘なんだけれど。
上手く答えられずにいると、ウィズが目の前に麻袋を差し出す。
「持ってけ」
「何これ」
開けようとした手を制止するかのように、ウィズの手にぎゅっと握られる。
握られた手から熱が伝わって、ドキっと鼓動が跳ねる。
「どこに行ってもいい。好きにしたらいい。ただ何か困った事があったら一番大きな屋敷に飛び込め」
「え?」
首を傾げると、ウィズの手に更に力が籠められる。
「庇護者になると約束しただろう。だから出来る範囲で手を尽くしておく」
ぐいっと引っ張られ、ウィズの胸に体勢を崩してしなだれかかる。
はっとして元の場所に戻ろうとするけれど、その頃には腕の中から逃げられないくらい抱きしめられている。
「あ、あの?」
顔を上げると、ウィズが至近距離にいて恥ずかしくて目を逸らさずにはいられない。
何でこんな状況になっているんだろう。
頭から湯気が上がるんじゃないかってくらい、自分が真っ赤になっているのがわかる。どうしてこんなにドキドキするんだろう。
「で、ササは見返りに何をくれる?」
ちらりと見上げたウィズは、口元に笑みを浮かべている。
何でそんなに余裕ありありなの。一人でドキドキしてバカみたいじゃないの。
「見返り欲しいとか言うなら、別に助けてくれなくたっていいです」
撥ね退けるように言うと、くくくと笑みが降ってくる。
そんなに面白い事言ったつもりないんだけどな。
「じゃあさ、勝手に貰うから何しても怒るなよ」
「一体何するつもり」
とんでもないこと考えてるんじゃないかって思って、がばっと顔を上げてウィズの顔を見つめると、にやっとウィズが笑う。
「精一杯嫌がらせしよっかな」
やっぱり何か嫌なこと企んでるに決まってる。
具体的じゃないあたりがまた嫌な予感がする。
「嫌がらせって。人が嫌がる事はしちゃいけませんってお母さんに子供の頃言われなかった?」
「さーて。記憶にないねえ」
意地の悪い笑みを浮かべ、ぱっとその手を離す。
ふいに自由になった身体を慌てて元の場所に戻すと、くすくすとウィズが笑う。
「そんなに避けられると傷つくなあ」
「避けるとかそういうんじゃないでしょ。こういう事誰にでもすると誤解されるよ」
ふーんと気の無い返事をしたかと思うと、ウィズがさめざめと泣くような芝居がかった素振りをする。
「俺ってそんな軽い男だと思われてたんだ。悲しいなあ」
全然悲しいと思ってなさそうなんだけど。
「じゃあ言い方変えるよ。好きな子以外にはこういう事しないほうがいいよ。誤解されちゃうよ」
「こういう事って?」
にやっとウィズが笑ったので、咄嗟にしまったと思った。
何か地雷を踏んだみたい。
「えっと。さっきみたいなの、とか」
言って思い出してしまい、顔がかーっと赤くなる。
私ばっかり意識しちゃってるみたいで、すっごく恥ずかしくなる。
「して欲しい?」
「え?」
「ササは、俺にして欲しいの?」
思いもかけない質問に絶句する。
「だって俺の腕ん中から逃げないだろ。激しく抵抗する事もないし」
ぶるぶると首を左右に振ると、ウィズが口元に優雅な笑みを讃える。
「じゃあどうして逃げないの。その答え、お前の中にあるんじゃない?」
答えって。答えって言われても。
だってふいに抱きしめられたわけだし、逃げられないくらい強く腕を回されていたし。
別に私はウィズの事がどうとかっていうのはないもん。以前は確かに、それなりに想っていたこともあったけれど。
そのせいだ。うん、きっと過去の想いがあるから悪く思えないだけだわ。
これからはもっとちゃんと一線引いて接しよう。レツに誤解されたりしたら嫌だもん。
「じゃあ次からは抵抗する事にするね」
「出来るならすれば」
ぐいっと手を引かれて、さっきと同じように腕の中に引き込まれる。
頭が真っ白になってウィズの顔を見つめると、ウィズがにやっと笑う。
「抵抗しないの?」
「する。するからっ」
今絶対涙目になってる。なんかウィズにいいようにからかわれている気がして悔しい。 「あのっ。聞きたいことがあるんだけど」
身を捩ると少し腕の力を緩めてくれたので、真正面からウィズの顔を見る。ドキドキは止まらないけれど、なるべく冷静に話すように心がける。
「さっきも言ったけれど、ウィズが誤解されるよ」
「ん?」
首をかしげ、ウィズが不思議そうな顔をする。
「本当に好きな人にしか、こういうことしない方がいいよ。だから、離して」
緩んでいた腕の力が強くなる。
「嫌ならお前が抵抗しろよ。俺は止めないよ」
「どうして?」
ドキドキはどんどん大きくなっていって、耳の辺りで鼓動がうるさいくらい。
それでも目を離したら負けな気がして、ウィズから視線が離せない。
柔らかな瞳が語っているものは何なんだろう。掴もうとしても捕らえどころが無い。
「嫌がらせだからに決まってるだろ」
冷ややかな声が背後から響く。
扉の方を振り返ると、レツが扉に背をもたれ、腕組みをして立っている。
「それボクのだから。手、離して」
一歩も動こうとしないレツだけど、ものすごい威圧感でウィズを睨みつけている。
けれどウィズはたじろがず、かえって腕の力を強くする。
「最初に言ったよね。ボクのだから触んないでって。忘れてないよね、祭宮」
語尾を上げ、疑問を投げかけるかのように語りかけ、レツがソファに近付いてくる。
「忘れてたって言ったらどうする」
ウィズも負けておらず、レツと同じように挑発するかのように話しかける。
「身をもって思い出してもらうだけの事。サーシャ。おいで」
その瞬間、今まで逃げられそうにもなかったの腕の中から、するすると身体が抜け出す。正確にはウィズの手から力が抜けていったというのが正しいかもしれない。
ソファから立ち上がってレツの傍に行くと、レツがポンポンと頭を撫でるように叩く。
「全く、キミは無防備なんだから」
溜息交じりの言葉は、呆れているようにも思えて胸が痛む。
「ごめんなさい」
「いや、怒ってないから」
そう言われても、いたたまれない気持ちにさいなまれる。本当はこんな場面、レツに見られたくなかった。
浮気現場に遭遇っていう感じかな。罪悪感でいっぱいになる。
けど、どうしてかレツの手に指を絡める事も出来ずにいる。
「貴重な時間を仲違いで潰したくないから気にしないで。それよりも行こう。外に」
行き場を失っていた私の手を握って、レツが扉の外へと引っ張っていく。
「あ。そうだ。ちょっと待って」
絡めた指先に力を入れて、レツと共にウィズの傍に立つ。
「昨日はどうもありがとう。色々迷惑かけてごめんなさい。これ、本当に貰っていっていいの?」
ちゃんとお礼をしなきゃと思った。こんな変な形で別れてはいけない気がしたから。
「ああ」
短い返答の後、レツと繋いだ手とは反対の手をウィズが握る。
「気をつけてな。これは餞別」
掌を開いてみると、男物の太い指輪が乗っている。
細かい細工やきらびやかな宝石が、かなりの価値があるものだと、全く貴金属の価値のわからない私にもわかる。
「それ持ってけば、困った時に役にたつから」
「貰えないよ。こんなの」
くすっとウィズが笑う。
「やるなんて誰も言ってないだろ。失くすなよ」
貸してくれたって事なのかな。でも、何の為になんだろう。
「とりあえず預かっとけば。きっと何かの役にはたつよ。いよいよ困ったら売ってお金の足しにすればいいし」
レツの言葉に頷いて、右の親指にウィズの指輪を付ける。他の指には大きすぎて抜けてしまうから。
「じゃあな。元気で」
ウィズの短い別れの言葉に頭を下げ、レツと共に祭宮の宮城を後にする。
どこに行くかも決めていない、いつまで続くかもわからない二人だけの旅。
宮城を後にして、門前町に戻ってきたところでレツの足がピタリと止まる。
ずっと無言で手を引き続けていたのに、ふいに絡まっていた指が解けていく。
「サーシャは祭宮が好き?」
「急に何を言い出すの」
ずっとそんなことを考えていたんだろうか。宮城からこの街へと歩いてくる間、ずっと。
思い詰めたような瞳が、真っ直ぐに心の中に突き刺さる。
「否定、しないんだ」
吐き捨てるようなレツの言葉に、焦りすら覚える。
「そんなことない。そんなことないよ。どうして急にそんなこと言うの」
ふうっと息を吐き、レツが空を見上げる。
「ボクのかけた魔法。自分で望んでかけたはずなのに、今になって後悔でいっぱいだよ」
「何の事?」
鼻で笑い、レツが溜息をつく。
「いや、なんでもないよ」
なんでもないって事ないでしょう。どうしてそんな顔するの。
レツのかけた魔法って何の事なの。後悔するような魔法ってどんな魔法なの。
「キミのくれた奇跡。つまらない事で壊したくないから」
付け加えられた言葉が、これ以上何も聞くなって遠まわしに伝えている。
そんな風に言われたら何も聞けなくなっちゃうよ。
「好きだよ、レツ」
そう伝えないと、レツの心が離れていってしまうような気がして、言わずにはいられなかった。
レツの手に指を絡めて言うと、レツが目を細めて笑う。
「知ってるよ。ボクもキミが好きだよ。だから、今だけで良いからボクだけを見ててね」
握られた手の先から伝わってきたものに罪悪感が芽生える。
「うん。約束する」
きっとこの先ウィズに会うことはないだろう。少なくともこの旅を終える日まで。
今はレツに寄り添って生きていきたい。
それはごまかしでもなんでもない、心の底からの願い。
だけど何故だろう。
昨日までは無かったはずの、もう一つの思いが心の奥底に燻っている。けど、その正体に目を向けてはいけない気がする。
「行こう」
振り切るようにレツの腕を引っ張る。笑顔を付け足して。
「どこにいくの」
「まずは私の生まれた村に行こう。私の生まれ育ったところ、レツに見せたいの」
ふふっとレツが笑って、肩を並べて歩き出す。
「軍資金が無いけれど、どうやって行くつもり?」
レツの前に、ウィズから受け取った麻袋を差し出す。中身は受け取った時に見えたので知っている。
「馬車にでも乗る? それとも歩く?」
「随分気前がいいな、さすが直系。でもとりあえず歩こうか。自分の足でどこまでいけるか試してみたい」
「うん」
レツの肩に頭を寄せると、くしゃくしゃっと頭を撫でられる。
「ありがとう。サーシャ」
「ううん。私が一緒にいたいの。だからね、一緒にいてね。ずっと」
確かめずにはいられない。残された時間がどのくらいあるのか。念押ししなくては、一緒にいてくれない気さえする。
けれど微笑むだけで、レツは何も答えてはくれない。
微笑みの意味は、あえて考えないようにした。
ただ心の中に、いろんなもやもやしたものが滞留していって重りのように圧し掛かってくる。
私の選んだ道は、決して平坦じゃない。
後悔はしないように。私に与えられた時間を有意義に過ごそう。