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夕日が影を作る。
長い長い影が伸びている。二人の行き先を指し示すかのように。
「さーて、これからどうしようか」
現実感のないような、それでいて現実的な問いかけに笑いがこみ上げてくる。
まるで人間のように。どこかへふらりと出かけるように言うのが可笑しくて嬉しくて。
「レツはどこに行きたい?」
「どこでもいいよ。サーシャと一緒なら」
それだけで心が高鳴る。面映い気持ちと嬉しい気持ちとが混ざり合って、ぎゅっとレツの腕を握り締める。
「サーシャはどこに行きたいの」
「レツがいるならどこでもいいよ」
答えるとレツの手が頭に回され、胸の中に抱きしめられる。
「あんまり可愛い事言わないでよ。食べちゃいたくなる」
「頭からガブっと?」
見上げて言うと、レツが眉を寄せる。
「まだ言うか」
「だって、じゃあ煮て焼いて食べる?」
「煮ない。焼かない。そのまま食べる」
首筋にレツの唇が当てられて、ぞくぞくする。
「……くすぐったい」
漏らした声にレツがクスクスと笑う。
「やめて欲しい?」
うんと答えようとしたら、レツが本当にガブっと首元に歯を立てる。
「いったーいっ。何すんのよ」
首元に手を当てて抗議すると、レツが声を上げて笑い出す。
「ガブっと食べてみただけじゃん。ご要望どおり。あんまり美味しくないね」
「美味しいわけないでしょうがっ」
ポカスカとレツを叩くと、レツの手がそれを受け止める。
「涙目になってる。痛かった?ごめんね。治そうか」
治すってどうやってと聞く前に、首元に唇が落とされる。
身を捩りながらレツの食事時間が過ぎるのを待っていると、しばらくしてレツが耳元にふっと息を吹きかける。
「ふぎゃぁっ」
思わず出た声にきょとんとしてから、レツが爆笑する。
「色気皆無だね」
色気なんて求めてないから。大体、レツだって色気なんて求めてないでしょう。
お腹を抱えて笑うレツの様子を涙目で見つめていたら、ぐっと背後から手が伸びてきて肩を掴まれる。
「え?」
振り返ろうとしたら、レツがぐいっと腕を掴んで腕の中に引き込まれて、一体その手の持ち主が誰だったのか確かめる事が出来ない。
ぎゅっと抱え込まれた腕の中、顔を上げてレツの顔を見ると、眉をひそめて誰かを睨みつけている。
「追いつけてよかったよ。バカップル」
ウィズ?
「何の用だ」
低い声で威嚇するように告げるレツに、ウィズが聞こえよがしの大きな溜息をつく。
「どこに行くつもりだ」
ウィズの問いかけに振り返ろうとしたら、ぐいっと後頭部をレツに掴まれてウィズの表情を伺う事が出来ない。
ことんとレツの胸に頭を預けると、ポンポンと軽く叩かれて、それから髪を梳くように撫でられる。
「別に。決めてない。教える必要なんてないだろう」
「じゃあどこでも良いんだな。行き先は」
「仮にそうだとしても、指図されるいわれは無いね」
レツが返した後は居心地の悪い沈黙が流れる。明らかに険悪な空気が漂っていて、何とかこの状況を回避したい。
でもどうやって。
「あの。ねえ、レツ。行く場所決めていないんだったら、海、見に行こうよ」
「海?」
レツとウィズの声が重なる。
「うん、海。レツ、海見たことある? 私まだないんだ。だから一緒に見に行こう」
見上げたレツは、穏やかな表情で私の話を聞いてくれる。
思いつきで言ってみたけれど、少しは雰囲気変わるかも。良かった。
「却下。だいたいどうやって海まで行くつもりだ。まず考えてみろ。今日の寝床はどうする。食事はどうする。その全てを賄う金すら持っていないだろう」
言われて気付く。
そうだ。もう夜になる。さすがに野宿するっていうわけにもいかない。
レツの食事はともかく、私は何か食べなくてはいけないわけだし。
このすぐ先に神殿参拝者が利用する門前町があるから、そこで全て解決するけれど、でもお金なんて持っていない。
「どうしよう」
レツの顔を仰ぎ見ると、レツはうーんと唸り声を上げる。
「そういう俗世のこと、気にしたことなかったから。困ったね」
苦笑いを浮かべるレツは、本当にそんなこと考えもしなかったらしい。私もそうなんだけれど。
神殿から二人で出られたってだけで、うきうきワクワクしちゃってそういう現実的なこと思い浮かばなかったわ。どうしよう。
背中に盛大な溜息が聞こえる。
「行くところがないなら、祭宮の居城にでも来たらどうだ。メシと布団くらいは最高級のものを用意してやる」
「お前の世話にはなりたくないね」
「だーれがアンタの為に言ってるんだよ。俺はササの為に言ってんだよ。どうせアンタはどこで寝ようが食事取らなかろうが平気な生き物なんだろ」
沈黙が流れ、明らかに嫌そうな顔でレツが溜息をつく。
「だってさ。どうするサーシャ」
頭の拘束が解かれるので、ウィズの方を振り返る。
ウィズは飄々とした表情をしていて、その真意は読み取れない。ただその瞳は真っ直ぐに私だけを見ている。
いつもはキレイに整えられた格好をしているのに、髪や服が乱れている。
「走ったの?」
ふいに気になって声を掛けると、ウィズの顔がふっと緩む。
「俺が走ったりするわけないだろ。馬だ、馬。」
鼻でウィズは笑うけれど、どれだけ急いで来たんだろう。最初に声を掛けられた時、息が乱れていたもの。
王族なのに。部下を使ったりしないで、私たちを探して。
問いかけるようにレツを見上げると「好きにしたらいいよ」と答える。
ずっと祭宮の宮城にいたら神殿にいるのと変わらない。檻の中に囲われている気分になると思う。それだと外に出た意味がない。
何の為に外に出たのかって言われたら困るけれど、衣食住整った場所で傅かれる為に神殿を捨てたわけじゃない。
自分たちだけで歩んでいきたい。誰の目もないところで。
「じゃあ、一晩だけ。明日からは自分たちで何とかする」
思いっきり眉をひそめた二人はきっとそれぞれに言いたいことがあるんだろうけれど、口には出さないで同時に溜息をつく。
そんな様子が少しおかしくて頬が緩んでしまう。
レツがすごく、普通の人みたいで。
ウィズが祭宮じゃない、初めて会った時のウィズみたいで。
全然違う二人なのに、本当はすごく気のあう同士なんじゃないかななんて思えて。
もしもレツが水竜じゃなかったら、きっと二人はいい友達になれたんじゃないのかななんて妄想しちゃう。
よく喧嘩はしそうだけれど。
「とりあえず街まで行こう。直接居城に行くよりも、街から馬車に乗った方が早い」
横を通り抜けながらウィズが言う。
「ありがとう」
ウィズは一瞬足を止めたけれど、聞こえなかったかのようにスタスタ歩き出してしまう。
「行こう」
レツに手を引かれ、早足でウィズの後を追う。決して横に並ぶ事は無く、数歩後ろに離れたところを歩いて。
街に入り、ウィズが馬車を拾ってくると言い残して噴水のある広場から去る。
せわしなく闊歩する人々の流れを避けるように噴水の傍に佇んで周りを見回していると、ふっと視線を感じる。
誰だろう。
きょろきょろと見渡していると、少し離れたところで奇抜な格好をしている人と目があう。
「あれ?」
どこかで見たことがある。でもあんな変な格好をした人に知り合いなんていないはずなのに。
持っていたボールのような物を手からポロポロ落としているのにも気付かないようで、口をあけて目を見開いてこっちを見続けている。
目が、あれ? あ……。
「片目?」
意外なほど大きな声が出てしまい、はっとして口元を押さえる。
噴水の端に腰掛けていたレツが怪訝そうな顔をする。
「どうしたの」
「知ってる人がいるの。あそこ」
視線だけで示すと、レツが首を回してそちらを見る。
「ああ」
短い返答で、レツにどこまで伝わったのかわからない。
ひょいとレツが噴水の傍を離れ、片目のほうへと歩き出すので、慌てて後を追う。
「やあ。片目」
言われた片目はピクリとも動く事が出来ない。
派手な化粧を施して、見たこともないような奇抜な服を着、沢山のボールやら何やら道具に囲まれている片目は、知っている片目とは全然違う人みたいに見える。けど、ちゃんと私のことを認識してるんだから、あの片目と同一人物なんだろう。
放心状態の片目の前でレツが手をひらひらと降ってみても、片目の表情は変わらない。
「これ、置物みたいだよ。ほっとこう」
さらりと言ってレツが笑う。
ほっといてもいいんだけれど、いいのかな。でも、どうしよう。
どうしてこんな変な格好してるんだろう。何でここにいるんだろう。
「何してるんですか」
「何をしているのですか」
同じ問いが同時に口から溢れ出す。
「それはこっちが聞きたいよ。すっごい変な格好だね。何してたの」
上から下まで値踏みするように見るレツを凝視して、それからへたへたと片目が腰を抜かす。
「どうしたの?」
覗きこんだレツに目を見開いて、片目が口の中でもごもごと何かを繰り返す。何言ってるのかさっぱり聞き取れないけれど。
いつも飄々としていてつかみどころが無くて嫌味ったらしい片目なのに、あわあわしちゃってて、見た目もそうだけれど全然片目らしくない。
ちょこんとしゃがみこんで、レツが片目の口を手で塞ぐ。
「大きい声でそれ、言わないでね。ボクの正体ばれたくないんだ。余計な事言ったらわかってるよね、片目?」
こくこくと首を縦に振る片目から手を離すと、レツがボールを一つ手に取る。
ポンポンと空を舞い、それからストンと手の中に落ちてくる。
事も無げにやっているその動作に目を奪われていると、座り込んだ片目がボソボソと何かを話している。
「何でここにいるんです、み……様」
片目の目が真っ直ぐに射抜くように見つめてくる。その目を見つめ返してからレツの方を見ると、レツはボール遊びに夢中になっている。
こういうところが子供っぽいんだよね。ボールくらい、いつでも言ってくれれば奥殿に持っていったのに。
「うーんと、成り行きで」
短い返答に片目が盛大に溜息をつく。
「本当にあなたという方は、我々の想像を超えた事を為さる方だ」
呆れられたんだろうか。
首を傾げて片目を見ると、ボリボリと頭をかいていて不機嫌そうな顔をしている。
「とりあえず片付けます。話をするのは後でも良いですか」
返答も待たず、散らばった様々な物を拾い集める片目の様子を見つつ、ふと神殿の事を思い出す。
勢いで飛び出してきちゃったけれど、大丈夫かな。
きっとみんな心配してるよね。でも今更戻るのも嫌だし。
だけど、本当にこれで良かったのかな。何もかも、かなぐり捨てて出てきちゃったけれど。本当はちゃんと手順を踏んだりとかしなきゃいけなかったのかもしれない。
手順っていっても、巫女は神殿から出てはいけないのが決まりだし。それに水竜を外に連れ出しちゃうなんて巫女、今まできっといなかったよね。
本当にこれから私たちはどうしたらいいんだろう。
捨ててきた全部、このまま何も見ないフリをして逃げていいんだろうか。
意気揚々と出てきたはずなのに、巫女が私を縛る。水竜であるレツは確かにこの国に必要なモノなのに。水竜の不在なんて、許されるんだろうか。
忙しそうに行き交う人々の中には、水竜の神殿に詣でる為に来た人々も沢山いるだろう。そのための門前町なのだし。
けれどそこに水竜も巫女もいない。私が全部壊してしまったから。
罪悪感がチクリと胸を刺す。
私は私が欲しいものを手に入れるために、色んなものを踏みにじってしまった。
「サーシャ」
優しい声の主が、ポンと頭に手を置く。
「レツ」
見上げた顔にみるみる苦笑いが広がっていく。
「後悔してる?」
問いに首を横に振る。
後悔はしていない。どうしてもレツといたかったから。レツに自由をあげたかったから。
「でも胸が痛いの。申し訳なくて」
「そっか」
ポンポンと頭をはたく以外、レツは何も言おうとはしない。
気休めの言葉をレツは言ってくれない。大丈夫だよとか気にしなくていいとか。
もしかしたら、その言葉を聞いたら罪悪感は薄らぐかもしれない。けれど、それは私が抱えていかなくてはいけない罪の印なのかもしれない。
何かを話しているレツと片目の様子を少し離れたベンチに腰掛けて見つめる。
意外にも普通に話をしているみたいで、変に私が口出ししないほうがいいような気がする。
考えてもしょうがない事なんだけれども、どうして現実は「それから二人はずっと幸せに暮らしました」で終われないんだろう。
吟遊詩人の語る物語なら、神殿を出てハッピーエンドで終わりなのに。
「はぁ」
自然と溜息が零れる。
食事、着る物、睡眠。そしてお金。確かにウィズのいうように、現実は簡単にはいかない。
二人でいるということは、人として生きていく為の問題を解決できなければ夢物語で終わってしまう。やっぱり村に帰ってパン焼くしかないかな。
レツと一緒に村に帰って。それでその先はどうしたらいいんだろう。本当にそれでいいんだろうか。
毎日毎日パンを焼いて、日々の暮らしに追われて。
レツが望んでいるのはそんなことなんだろうか。
「お嬢さん」
にこにことした人の良さそうな顔で、恰幅の良い女性が話しかけてくる。
「今王都で流行りの呪いを知っているかい」
女性の前には沢山の宝飾品が並んでいる。行商人、かな。
「永遠に二人が別れないように。恋がずっと続くように。一つの石を二つに分けて身に着けるっていうのが流行っててね。あの兄さんと神殿から逃げてきたんだろ。その恋が永遠に続くように、お嬢さんも一つどうだい?」
視線の先にはレツがいる。
神殿から逃げてきた。確かに、そうかもしれない。この恋をどうしても手に入れたくて。
「でも、お金持ってないんです」
宝石たちに願いを掛けたいけれど、私には今日の食事を買う為のお金すらない。
赤。青。緑。様々に輝く宝石たち。
これを手に入れられたら、レツと永遠に一緒にいられるのかな。それで願いが叶うなら、どうしてもその石が欲しい。
「そっか。それは残念だね」
女性は視線を雑踏へと向ける。商売にならないと思われたんだろう。
確かに宝石を買うお金なんて無い。明日の保障すらない。
それでも欲しかったな。レツとおそろいの宝石。
視界に入ると辛くなるから、ベンチから立ち上がってレツの元へ駆け寄る。
声を掛けると、ふわっとレツが笑って答えてくれる。
それだけで十分だったはずなのに。どんどん欲深になっていく。
あれがしたい。これがしたい。あれが欲しい。これが欲しい。
声が聴きたいと願っていた。触れたいと願っていた。
不可能なはずの色々な願いが叶ってきたのに、どうしてもっともっとって欲しくなるんだろう。
「どしたの?」
「ううん。なんでもない。片目と何を話していたの?」
笑顔を作ってレツの腕を掴むと、レツがくしゃっと頭を撫でる。それが心地よくて、自然と頬が緩んでいく。
「んー。これといって何を話したわけじゃないよ。この珍妙な化粧の仕方とか」
「変な事に興味があるんだね、レツ」
「だってさ、普通こんな風に真っ白に顔塗ったりしないでしょ。何でわざわざこんな風に塗るのか不思議だし、その白い顔料はなんなのかなとか気になって」
ぷっと吹き出してしまうと、レツが怪訝そうな顔をする。
「何で笑うの」
「それ、真剣に悩まなくたっていいのに」
笑って、嫌な事全部吹き飛んじゃえばいい。考えたくない色んな事が、笑いと一緒に空気に紛れてしまえばいい。
全部、空が飲み込んでくれたらいいのに。
ウィズに連れてこられた祭宮の宮城は、神殿からさほど離れていないところにある。
通された応接間の窓の外には巨大な神殿の姿が見えて、胸が苦しくなる。
着替えてくると言い残して出て行ったウィズがいなくなると、レツは窓際に立って神殿を見つめる。
本当は見ることさえ辛い神殿だけれど、レツの横に立って同じように神殿を見つめる。
「あの中に、いたんだね」
浮かんできた言葉を独り言のように呟くと、レツが頷く。
目線はずっと神殿だけを見据えている。
「一生あの檻から出られないと思っていた。こんな風に外から見ることが出来るなんて思ってもみなかったよ」
出たいと、レツは思っていたんだよね。
その言葉に、私のやった事は間違っていなかったと裏打ちされた気がして、心の中の重荷がすっと軽くなる。
くるりと神殿に背を向け、窓枠に寄りかかるようにしてレツが部屋の中に視線を移す。
「だけど、また籠の中の鳥だ」
「ごめんなさい」
私が、ウィズの申し出を受けたから。
「何で。キミが謝る事ないよ。こんな風に外に出られただけでも感謝してるよ」
心の底からそう思っていると伝えようとしてくれている事は、微笑みだけで十分に伝わってくる。
でも足りない。自由になるためには、願うだけでは叶わない沢山の障害がある。
「あ、そうだ。あっち向いてて」
言われるままに神殿の方を見る。
「違う違う。身体ごとあっち」
レツに背を向けるように立つと、背後からガサゴソと音がする。何してるんだろう。
首にひんやりとした感触がして鎖骨の辺りに視線を落とすと、ずっと前に捨てたはずのものが胸元で輝いている。
「……これ」
「うん。この先困った事が起こった時、きっと役に立つから身に着けておくといいよ」
「でも」
「ムカつくから、それ、ボクに見えないように服の下にしまっといて」
レツの指が器用に動いて、襟の中にそれはしまわれる。
「でも、私これ捨てたのよ」
「そうだね」
「これは、私が捨てた私の……」
眉間に皺を寄せたレツが、その顔を至近距離に近づける。息が掛かりそうな位近いところに。
「それ以上言ったら怒るよ」
瞬きをしたかと思ったら、レツが唇を重ねる。
「好きだよ。だから今はボクの言うとおりにして。何も聞かないで」
唇を離して囁いたかと思うと、次の瞬間、目眩がするんじゃないかってくらい力一杯抱きしめられる。
「離したくない。離れたくないよサーシャ」
どうしてそんなこと言うの。こうやって今、一緒にいられるのに。
不安は尽きる事はなく、滾々と湧き上がってくる。
レツの身体に腕を回して、その感触や熱を確かめるように力を籠める。
私はここにいる。レツが手の届くところにいる。なのに涙が止め処なく溢れてくるのはどうしてだろう。
明日も一緒にいられますように。
ちっちゃな呪いすら掛けられない私は、そっと心の中で祈るしか出来ない。立派な巫女になれますようにという願いが籠められた石を身に着けて。