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肉を持ってくる同僚が、最近よくうちにいる

作者: はてな小僧
掲載日:2026/08/29

「ねえ、今日そっち行っていい?」


 いつもよりも机の上を片付けるのが早いなと横目で見ていたが、早く帰りたいんじゃなくて飲みたいらしい。私は書き終えた書類に間違いがないかを再度確認してからマルタを見る。


「いいよ」


「やった。ヒューゴとダリオも来る?」


 私の家で飲むはずなのに、なぜかマルタが二人を誘っている。名前を呼ばれたヒューゴが向かいの席から顔を上げ、その奥ではダリオも羽織りかけていた上着から腕を抜いた。


「俺は行く」


「俺もいいのか?」


「もちろん。来るなら何か買ってきてね」


 仕事帰りに飲もうと誘われても家には十一歳の息子が一人で待っているので行けない。毎回断っていたら、それならリディアの家で飲めばいいと誰かが言い出し、いつの間にかうちで飲むことが定番になっていた。


「何かって、何がいい?」


 マルタは財布の中身が気になるのか中をのぞきながら聞いてきた。


「ノアの分もお願い」


「だから、何がいいのよ」


「私に似てなんでも食べるよ」


 なんでも食べると言っているのに、この答えはマルタには不正解だったらしい。なぜか不満げな顔をされたあと、諦めたように財布を鞄へ入れていた。


「仕方ない。じゃあ私、パムとチーヅ買ってくる。ヒューゴは?」


「肉でも買うか」


「それならノア喜ぶよ」


「お前じゃなくてノアに食わせるからな」


「なんでよ。私にも食べさせて」


 ノアが喜ぶと教えてあげたのに、ずいぶんな言い草だ。みんなで食べるために買ってくるのではなかったのか。私だけ仲間外れにされるのは納得いかない。


「自分の分は自分で買え」


「うちで飲むのに?」


「場所代を肉で取るな」


「肉で取って何が悪い」


 隣で帰り支度をしていたはずのマルタが肩を揺らして笑っている。そこまで笑うようなことを言った覚えはなく、ヒューゴも気にした様子がないので、笑われている理由がますます分からない。


「何よ」


「また、いつものが始まったと思って」


「いつものって何よ」


「そういうところ」


 そういうところと言われても思い当たるものがない。ヒューゴなら分かるのかと向かいを見ると目が合ったものの、すぐに眉を寄せられた。


 マルタが私とヒューゴを交互に指すので、その指先を目で追ってからもう一度ヒューゴを見る。向こうも分かっていない顔をしているし、これで何を理解しろというのか。助けを求めるつもりでダリオを見ると、なぜかそちらまでマルタの味方だった。


「二人はいつもそんな感じだろ」


「普通でしょ」


「普通だな」


 ほとんど同時に答えた声が重なり、今度こそ何か言われる気がしてマルタを見ると、案の定、ほら見ろと言わんばかりの顔をしている。別に示し合わせたわけでもないのだから、こんなものは偶然だ。


「私たちが普通に喋ってるだけで『いつもの』にされてる」


「実際いつも喋ってるだろ」


「ヒューゴが余計なこと言うからでしょ」


「お前が言い返すから続くんだよ」


「また始まった」


 これ以上続けたら本当にマルタの言うとおりになってしまう。それより、まだ今日の酒が決まっていないことの方が気になった。


「ダリオは何持ってくる?」


「急に話変えたな」


「大事な話だよ」


 笑いを含んだ顔で言われたが、飲むものがなければ家に集まる意味が半分くらいなくなるのだから、私としてはさっきの話よりよほど大事だ。


「酒でいいか?」


「いいよ。多分家にあと一本ぐらいしかなかったと思う」


「そこは即答なんだな」


「飲むために集まるんでしょ?」


「ついでにノアにも飲み物よろしく」


 ダリオが何か言おうとしたところで終業の鐘が鳴り、話もちょうどまとまったので、みんなで職場を出ることにした。


 三人はそれぞれ買い物をしてから来るというので、職場を出たところで別れた。


     ◇


「ただいま」


 玄関を開けて声をかけると、二階から「おかえりー」と返ってきた。靴を脱いでいると、階段を下りる足音が近づいてきて、開いた本を手にした息子が姿を見せる。


「歩きながら読まない」


「もう読んでないよ」


 私が本を見ると、ノアもつられて手元を見てから、今さらのようにぱたんと閉じた。閉じればいいという話ではないのだけれど、その顔を見るかぎり本人も分かってはいるらしい。


「今日、みんな来るからね」


「みんなって誰?」


「マルタとダリオとヒューゴ」


「ヒューゴさん!肉買ってくる?」


 名前を聞いた途端肉の心配をされ、私は思わずノアの顔を見る。目が少し期待しているので、職場でのヒューゴの選択は正解だったらしい。


「買ってくるって」


「やった」


「私が帰ってきたときより嬉しそうじゃない?」


「だって母さん、肉持ってないじゃん」


 言われて自分の手元を見れば、確かに今日は鞄しか持っていない。肉を持って帰ってくるヒューゴと手ぶらの私では勝負にならない気もするけれど、母親として簡単に負けを認めるのも悔しい。


「明日私も肉持って帰ってこようかな」


「毎日?」


「毎日は無理」


「じゃあヒューゴさんの勝ち」


「なんで毎日じゃないと負けなのよ」


 勝手に決められた条件に抗議すると、ノアは楽しそうに笑いながら居間へ戻っていった。追いかけて勝負の続きをするほどのことでもないので、私は二階へ上がって仕事着を脱ぐ。


 家でまできっちりした服を着ている気はない。ゆったりしたズボンとシャツに着替え、朝からまとめていた髪もほどいて結び直すと、それだけで仕事の時間が終わった気分になる。


 居間ではノアが食卓に広げていた本や紙を集めていた。さっきの本もその中にあるので、どうやら帰ってからずっと読んでいたらしい。


「宿題は?」


「終わったよ」


「ほんとに?」


「見てもいいよ」


 そこまで自信満々に言われると、逆に疑う理由もなくなる。私が「じゃあ信じる」と食器棚へ向かうと、ノアは確認しなくていいのかと後ろからついてきた。


「自分から見せるって言うくらいだから、やったんでしょ?」


「やったけど」


「ならいいじゃん。お皿出すの手伝って」


「何枚?」


「五枚」


「僕も一緒に食べていいの?」


 思いがけないことを聞かれて振り返る。これまでだって一緒に食べているのに、何を遠慮しているんだろう。


「もちろん。眠くなったら先に寝ればいいよ」


「うん」


 戸棚には半分ほど残った酒と、まだ栓を抜いていないものが一本ある。ダリオも買ってくるなら、今夜はこれで十分だろう。


 ノアと二人で食卓を整えているうちに玄関の扉が叩かれ、皿を置いたばかりの息子が真っ先に顔を上げた。


「来た!」


「走らないでよ」


 言い終わる頃にはもう居間を飛び出していて、ほどなく玄関からマルタの声が聞こえてきた。


「ノア、久しぶり!」


「先週も来たよ」


「一週間も会ってなかったじゃない」


「それって久しぶり?」


「大人にとっては久しぶりなの」


 そんな会話をしながら居間へ入ってきたマルタは両手に紙袋を抱えていて、パムとチーヅだけを買ってきたにしては妙に膨らんでいる。


「ずいぶん買ったね」


「途中でおいしそうなの見つけちゃって。これ持って」


 片方を押しつけられたので受け取って中を覗くと、パムとチーヅのほかに、屋台で買ったらしい串焼きや揚げ物まで入っていた。これならヒューゴの肉がなくても十分夕食になりそうだ。


「肉はヒューゴが買うって言ってなかった?」


「これは串焼きだから別」


「肉は肉じゃない?」


「別なの」


 何が違うのか分からずノアを見ると、息子も紙袋の中とマルタを見比べたあと、巻き込まれたくないのか目を逸らした。


「ね?」


「僕に聞かないで」


 逃げられたので諦めるしかない。私が紙袋を食卓へ運ぶ横で、マルタは上着を椅子の背に掛けると、食器棚から大きな皿を取り出しはじめた。最初の頃はいちいち「あれはどこ」「これはどこ」と聞いていたのに、今では私より先に必要なものを出すようになったらしい。


「チーヅはこれでいい?」


「うん」


「ナイフ借りるね」


「いつものところ」


「分かってる」


 ノアだけでなく同僚までうちの台所に詳しくなっていることがおかしくて眺めていると、マルタにパムの袋を押しつけられた。


「見てないで、リディアもやって」


「今やろうと思ってたよ」


「絶対嘘」


「本当だって」


 言いながら袋を開けたところで、もう一度玄関が叩かれた。今度は私が行こうとしたのに、ノアが「僕出る」と先に駆けていき、すぐに玄関から弾んだ声が聞こえてくる。


「ヒューゴさん!?」


「俺じゃなかったらどうするんだ」


「ダリオさんなら酒だから」


「俺なら肉ってことか?」


「うん!」


「人じゃなくて持ち物で判断されてるぞ」


 二人の声が近づいてきたと思ったら、居間に入ってきたヒューゴの手には大きな包みがあった。それを見つけたノアの目が分かりやすく輝き、さっき私が帰ってきたときとの違いに少しだけ腹が立つ。


「ほら」


「やった! 僕持つ」


「待て、重いぞ」


「持てるよ」


「落としたら今日の夕飯がなくなるぞ」


 伸ばされた手から包みを遠ざけられ、ノアはおとなしく引き下がった。食べ物が絡むと聞き分けがいい。


「それは困る」


「お前が一番困りそうだな」


 なぜか私に話が飛んできたのでヒューゴを見ると、口元だけ笑っている。


「私の家で食べる肉だよ。困るに決まってるでしょ」


「買ったのは俺だ」


「でもここまで持ってきたら、もうみんなの肉じゃない?」


「なら代金もみんなで払うか?」


「それはヒューゴの肉でいいかな」


「都合いいな、お前」


 持っていた包みを受け取ろうと手を出したが、ヒューゴはそのまま台所へ向かっていく。どこに置けばいいかも聞かない後ろ姿を見て、そういえばヒューゴも最近は台所の勝手を聞かなくなったなと思ったところで、隣からマルタの視線を感じた。


 顔を向けると、何か言いたそうにこちらを見ている。


「何?」


「別に」


「その顔で?」


「言っても分からないでしょ」


「何それ」


 職場でも似たようなことを言われた気がする。理由を聞こうとしたところで、三度目の音が玄関から響き、今度こそダリオだろうとノアがまた駆け出した。


「だから走らない!」


「はーい!」


 返事だけは素直な息子を見送り、私は途中になっていたパムを切るためにナイフを手に取った。


 パムを半分ほど切ったところで、玄関からダリオの声が聞こえてきた。


「お邪魔します」


「ダリオさん!」


「これ、ノアのな」


「何?」


「果実水。ノアがどっち好きか分からなかったから、両方買ってきた」


「二つとも僕の?」


「そうだよ」


「やった!」


 弾んだ声のあと、ノアが両手に一本ずつ瓶を持って戻ってきた。違う味らしく、どちらから飲むか迷っているのか二本を見比べながら私のところまで来る。


「母さん、これ今飲んでいい?」


「いいよ。みんな揃ったしご飯にしようか」


「どっちにしよう」


「明日もう一本飲めば?」


「そうする」


 それでもしばらく悩んでいたけれど、ようやく一本を選ぶと、もう片方を大事そうに食器棚の端へ置いた。その後ろから入ってきたダリオが酒瓶を持ち上げて見せる。


「こっちもちゃんと買ってきたぞ」


「ありがとう」


 受け取った酒を戸棚へ入れ、途中になっていたパムを切る。マルタが買ってきたものはもう皿に移され、ヒューゴの肉も包みを開けば食べられるので、あとはサルダを出せば十分だ。


「ノア、お皿お願い」


「うん」


 さっきまで果実水を眺めていたノアも、食事となればすぐに動き出した。私がパムとサルダを運ぶ横で皿を配り終えると、そのままヒューゴの持ってきた肉を覗き込んでいる。


「それ、もう食べていい?」


「座ってからにしろ」


「もう座る」


「その前に手洗った?」


「あ」


 肉に気を取られて忘れていたらしい。ノアが慌てて洗面所へ向かうのを見送りながら私も席につくと、戻ってきた息子は今度こそ真っ先に肉へ手を伸ばした。


「野菜も食べてね」


「食べるよ」


 そう言いながら二枚目を取ろうとするので、先にサルダを取り分けて目の前へ置く。ノアは肉とサルダを見比べたあと、諦めたように野菜へ手を伸ばした。


「母さんも食べてないじゃん」


「食べるよ」


「今食べて」


「なんでノアに言われなきゃいけないの」


 自分で野菜を食べろと言った手前、無視するわけにもいかない。私もサルダを取ると、ノアはそれで納得したのか、ようやく自分の分を食べ始めた。


 そのあとはノアが学校で読んでいる本の話を始め、マルタが内容を聞けば、食べるのも忘れて説明している。さっきまであれほど肉を気にしていたのに手が止まっているので、一枚くらい取っても気づかないだろうと手を伸ばした。


「それ僕の」


「見てたの?」


「見てるよ」


「話してたじゃん」


「話しながら見てた」


 そこまで肉を警戒しなくても誰も全部食べたりしない。仕方なく別のものを取ると、ノアは安心して話の続きを始めた。


 食事が終わってもノアの話はなかなか尽きず、今度は本そのものを持ってきてマルタに見せている。途中からはその場で読み始めてしまい、私たちが話している横でページをめくっていたけれど、しばらくするとその音が止まった。


 見ると、本を開いたまま目を擦っている。


「ノア、眠いんじゃない?」


「眠くないよ」


 言った直後に欠伸をされては、信じろというほうが無理だ。


「もう寝なよ」


「明日休みだよ?」


「休みでも眠いなら寝ればいいでしょ」


 まだ何か言いたそうだったけれど、もう一度欠伸が出ると自分でも諦めたらしく、本を閉じた。


「じゃあ寝る」


「歯磨いてからね」


「分かってるよ」


 立ち上がったノアは、明日飲むと言って残しておいた果実水を一度確認してから居間を出ていく。しばらくして洗面所から水の音が聞こえ、それが止まると今度は階段を上る足音に変わった。


「おやすみ」


 二階から声が聞こえ、四人で返す。


 ノアが寝たところで、食卓に残っていた皿を端へ寄せる。夕食の残りはそのままつまみにして、ダリオが買ってきた酒を開けた。


「リディア、まだ飲む?」


「飲む」


「そこは即答なんだな」


「飲むために集まったんでしょ?」


 グラスを差し出すと、ダリオが笑いながら酒を注いだ。


「ノアが寝た途端これだもんな」


「ちゃんと寝かせたんだからいいでしょ」


「誰も悪いとは言ってない」


 マルタとヒューゴのグラスにも酒が入り、夕食のときよりもゆっくり飲み始める。仕事の愚痴から最近できた店の話になり、その店へ行ったというマルタが、そこで昔の知り合いに会ったと言い出した。


「来月結婚するんだって」


「へえ」


「相手とは長いらしいわよ。五年だって」


「長いね」


「リディアは?」


「何が?」


「再婚しないの?」


「しないよ」


「早い」


「何が?」


「答えるのが」


「だってする予定ないもん」


「でも、いい人がいたら考えるでしょ?」


「どうだろ」


「どうだろって」


「結婚しなくても生きていけるし」


「それはそうだけど。じゃあ、好きな人ができても?」


「付き合うくらいならするかもね」


「結婚は?」


「相手による」


「どういう相手ならいいの?」


 グラスを口元まで運んだところで止める。


「結婚したからって、私を変えようとしない人かな」


「変えるって?」


「妻になったんだからこうしろとか、もう少し女らしくしろとか。そういうの」


「前の旦那さん?」


「そう」


 付き合っていた頃から取り繕っていた覚えはない。それを知ったうえで結婚したのだから、私はてっきりそのままでいいんだと思っていた。


「結婚したら変わると思ってたみたい」


「リディアが?」


「うん。妻になったら、もうちょっとちゃんとすると思ってたんだって」


「ちゃんとしてるだろ」


 それまで聞いていたヒューゴが口を挟んだ。


「それは仕事だからでしょ。仕事ならちゃんとするよ。休みの日なんて、予定がなかったら昼まで寝てることもあるし、ご飯だって毎回ちゃんと作るわけじゃないよ」


「それくらい普通じゃない?」


「私もそう思ってた。でも前は、それじゃ駄目だったの。妻なんだからもう少しちゃんとしろって」


 マルタが眉を寄せる。


「知ってて結婚したのに?」


「そう。だから私もよく分からなかった」


 できないことを求められたわけではない。結婚する前はそれでよかったものが、妻になった途端に駄目になった。その違いは今でもよく分からない。


「結婚したからって、そこまで変わらなきゃいけないなら一人でいいかな」


 ダリオが酒を飲みながら頷いた。


「まあ、一回それで駄目になってるなら慎重にもなるか」


「慎重っていうか、別に急いでないだけ」


「ノアもいるものね」


「うん」


 話しているうちにグラスが空になっていたので、酒瓶を引き寄せる。まだ半分以上残っている。


「それより飲もうよ」


「まだ飲むの?」


「そのためにダリオが買ってきたんでしょ」


「俺のせいにするなよ」


 そう言いながらもダリオが自分のグラスを出してきたので、ついでに注いでやる。マルタも当然のように差し出し、ヒューゴまで続いた。


 結婚の話はそこで終わった。


 そのあとはまた仕事の話になり、誰が最初に言い出したのかも分からないまま、今度は上司の口癖をいくつ挙げられるかという話になった。くだらないことで笑っているうちに酒瓶が一本空き、もう一本に手を出そうとしたところで三人に止められた。


  ◇


「じゃあ、また来週な。ヒューゴ」


 分かれ道でダリオが手を上げ、マルタもその隣から「おやすみ」と手を振る。


「ああ、おやすみ」


 二人と別れてからも、頭の中にはリディアの言葉が残っていた。


『結婚したからって、私を変えようとしない人かな』


 再婚する気はないのだと思っていたから、好きになっても気持ちを伝えることはしなかった。それで今まで特に困ることもなかったのに、あんなことを聞いたあとでは、俺にも可能性があるんじゃないかと思えてならない。


 そう思ってしまえば、いつか別の男が現れて、リディアがそいつを選ぶのを黙って見ているなんて御免だった。


 だからといって、今すぐどうにかなるわけでもない。リディアが俺のことをそういう相手として見ていないことくらい、今までの態度を見ていれば嫌でも分かる。


「……まずはそこからか」


◇


     ◇


 週の半ば、仕事を終えて帰ろうと鞄を持ち上げたところで、向かいの席からヒューゴに呼び止められた。顔を上げると、ヒューゴも机の上を片付け終えている。


「リディア」


「何?」


「今日、そっち行っていいか?」


「今日?」


 休みの前でもなければ、みんなで飲む約束をしていたわけでもない。明日も普通に仕事があるのに何をしに来るのかと思って聞き返したが、ヒューゴは特におかしなことを言ったつもりはないらしく、私の返事を待っている。


「駄目か?」


「駄目じゃないけど、明日も仕事だよ」


「ああ」


「飲まないよ?」


「別に飲みに行くわけじゃない」


 飲まないのなら本当に何をしに来るんだろう。それでも来たいと言うなら断る理由はないし、夕食だって一人分増えるくらいならどうにでもなる。


「ご飯食べる?」


「いいのか?」


「来るなら食べるでしょ。何か買ってきてね」


「分かった」


 それで話は終わったつもりで帰ろうとすると、ヒューゴも上着を手に立ち上がった。買い物をしてから来るならここで別れるものだと思っていたので足を止めると、向こうも私が動かないことに気づいてこちらを見る。


「一緒に行くの?」


「同じところに行くんだからいいだろ」


「買い物は?」


「途中でする」


 それなら私も家に足りないものを見ていこうと、二人で職場を出た。


 いつもなら、うちで飲む日でも三人とは職場を出たところで別れ、それぞれ買い物をしてから集まっている。ヒューゴと二人で同じ道を歩くこと自体は珍しくないのに、今日はこのまま二人とも私の家へ向かっていると思うと、いつもの帰り道が少しだけ変な感じがした。


「何買うの?」


「肉」


「また?」


「ノアが食うだろ」


「私も食べるよ」


「聞いてない」


「私の家に持ってくるのに?」


「その話、前もしたな」


 前にもしたなら、私が食べることも分かっているはずだ。それなのにまたノアの名前しか出さないので、ヒューゴの顔を覗き込む。


「私の分は?」


「ある」


「最初からそう言えばいいのに」


「聞く前に分かるだろ」


「ノアに食わせるって前に言ったのヒューゴでしょ」


「まだ覚えてたのか」


「食べ物のことだからね」


「そこだけ記憶力いいな、お前」


 呆れた顔をされたけれど、食べられるかどうかは大事なことだ。私が先に店へ入ると、ヒューゴも何も言わずについてきた。


 肉を選ぶヒューゴの横で家に残っているものを思い出してみる。野菜はあるし、昨日買ったパムも残っているので、ヒューゴが持っている肉があれば夕食には十分だろう。私は何も買わずに店を出ようとしたが、会計を終えたヒューゴが包みを持ったまま動かない。


「何?」


「お前、何も買わないのか?」


「家にあるからいい」


「俺だけ買ったのか」


「来る人が何か買う決まりだから」


「今決めただろ、それ」


「前からだよ」


 納得していない顔をしているけれど、うちで食べるのだからそれくらいは持ってきてもらっていい。さっさと店を出ると、後ろからヒューゴもついてきた。


 そのまま並んで家まで歩き、玄関を開ける。


「ただいま」


「今日ヒューゴもいるよ」


「え?」


 予想どおり声が変わり、すぐに階段を下りる足音が聞こえてきた。顔を出したノアは私を見たあと、その後ろで靴を脱いでいるヒューゴを見つけて目を丸くする。


「今日飲むの?」


「飲まないよ。明日仕事だから」


「じゃあなんでいるの?」


 やっぱりそこが気になるらしい。私も職場で同じことを思ったので、答えを任せようとヒューゴを見る。


「飯食いに来た」


 ヒューゴが持っていた包みを見せると、ノアの目がすぐにそちらへ移った。


「肉?」


「ああ」


「やった!」


 理由より肉のほうが大事だったらしく、それ以上は何も聞かないままヒューゴのあとについて居間へ向かっていった。


「結局肉なら何でもいいんじゃない」


「母さん持ってないもん」


「今日は私も一緒に買いに行ったから、半分は私が持ってきたようなものでしょ」


「払ったの俺だけどな」


「じゃあヒューゴさんの肉じゃん」


「ノア、どっちの味方なの?」


「肉の味方」


 そんな味方があるのかと思ったけれど、本人はもう肉しか見ていない。これ以上言っても勝てそうにないので諦め、私は仕事着を着替えるために二階へ上がった。


 家で着る服に替えて戻ると、ヒューゴは食卓に座り、ノアが広げた本を一緒に覗き込んでいた。私がいない間にこの前話していた本の続きを見せることになったらしく、ノアがページをめくるたびにヒューゴも目で追っている。


「ここ。この前言ってたの」


「どこだ?」


「待って、今探す」


 夕食の支度をしようと台所へ向かっても、二人はそのまま本を見ている。いつもの宅飲みならマルタやダリオの声もしているのに、今日はノアがページをめくる音とヒューゴの声しかなく、それでようやく本当にヒューゴ一人だけがうちへ来たんだと実感した。


 だからといって、やることが変わるわけでもない。買ってきた肉の包みを開け、家にあった野菜を出していると、ノアが本を持ったまま台所を覗き込んだ。


「母さん、何かする?」


「じゃあお皿出して」


「三枚?」


「三枚」


 ノアが食器棚へ向かうのを見ながら、私は野菜を切る。ほどなく三枚の皿が食卓に並び、その向こうではヒューゴがまだノアの本を読んでいた。


「ヒューゴ、パム切って」


「俺が?」


「食べる人は働いて」


「お前の家だろ」


「だから私は野菜やってるでしょ」


 ヒューゴは面倒そうな顔をしたものの、結局立ち上がって台所へ来た。


「ナイフどこだ?」


「いつものところ」


「ああ」


 一度教えれば分かる場所なので、ヒューゴは自分で引き出しを開ける。それを見ていたノアが、何がおかしいのか笑った。


「ヒューゴさん、それで分かるんだ」


「何度も来てるからな」


「母さんより分かってたりして」


「それはない」


「この前、母さん自分で置いたもの探してたよ」


 確かに探した覚えはあるけれど、だからといってヒューゴより自分の家に詳しくないことにはならない。


「それは置いた場所を忘れただけ」


「同じじゃない?」


「違うよ」


「何が?」


 すぐに聞き返され、野菜を切る手を止める。違うはずなのに、どう違うのかと言われるとうまく説明できない。


 隣を見ると、ヒューゴまで答えを待っている。


「……パム切って」


「逃げたな」


「切らないなら食べさせないよ」


「はいはい」


 笑われたのが気に入らず睨んだが、ヒューゴは気にせずパムを切り始めた。


 それから、ヒューゴはときどき平日にも来るようになった。


 最初のうちは玄関にヒューゴがいるたびに「今日も?」と聞いていたノアも、何度か繰り返すうちに何も言わなくなった。ヒューゴが夕食を食べて帰るだけなら、私もわざわざ明日は仕事だと確認することもなくなり、帰り際に「今日行っていいか」と聞かれれば、その日の夕食に何を足してもらうかを考えるようになった。


「今日そっち行く」


「じゃあパム買ってきて。家にないから」


「分かった」


「あと何か甘いもの」


「それは自分で買え」


「ノアも食べるよ」


「ノアを使うな」


「食べるのは本当だよ」


 結局ヒューゴが何を買ってくるのかは分からないまま先に帰り、家に着くと夕食の支度を始める。鍋を火にかけていると、居間で本を読んでいたノアが時計を見た。


「ヒューゴさん、何時に来る?」


「いつもと同じくらいじゃない?」


「今日何持ってくるの?」


「パム頼んだよ」


「肉は?」


「頼んでない」


「頼んでよ」


「もう帰ってるって」


 不満そうに言われても、毎回肉を買わせるわけにもいかない。ノアは諦めて本に戻り、私は鍋の中を混ぜながら食器棚へ手を伸ばした。


「ノア、お皿出して」


「三枚?」


「うん」


 返事をしたあとで、前にも同じことを聞かれたのを思い出す。あのときは三枚と言っただけで、ヒューゴ一人がいることを改めて意識したのに、今日は聞かれるまで何も考えていなかった。


 ノアも同じらしく、三枚の皿を出すとそのまま食卓に並べていく。


 しばらくして玄関が叩かれると、ノアは本から顔を上げた。


「来た」


 前みたいに走って迎えに行くこともなく、読みかけのページに栞を挟んでから立ち上がる。そのまま玄関へ向かう背中を見ているうちに扉が開く音がして、すぐにヒューゴの声が聞こえてきた。


「ほら、頼まれたやつ」


「パム?」


「パムと菓子」


「肉は?」


「何でお前まで肉を要求するんだよ」


「母さんも頼んでないって」


「今日はない」


「えー」


 がっかりした声が聞こえてきて、思わず笑う。


「ノア、文句言うならお菓子もらうよ」


「それは駄目!」


 慌てて戻ってきたノアの後ろから、ヒューゴもいつものように居間へ入ってきた。


     ◇


ヒューゴが平日にうちで夕食を食べることにも慣れた頃、休みの前には相変わらずマルタとダリオも加わって飲んでいた。


 その日も仕事を終えてから四人で集まり、ノアも一緒に夕食を食べたあとは、いつものように大人だけで酒を飲む。最初に開けた酒がなくなる頃にはかなり遅い時間になっていた。


「私、そろそろ帰る」


 マルタが時計を見ながらそう言うので、つられて時間を確認すると、いつの間にか日付が変わりそうになっていた。休みの前だからといつもより長く飲んでいたけれど、ノアが寝てからも随分経っている。


「もう?」


「明日休みだからって、いつまでも飲んでたら一日寝て終わるわよ」


「それも休みの正しい使い方じゃない?」


「リディアだけね」


 休みなのだから何時まで寝ていてもいいと思うのに、マルタには同意してもらえなかった。別に明日の予定があるわけでもないし、昼まで寝たところで誰も困らない。


 マルタが立ち上がると、ダリオも残っていた酒を飲み干して席を立つ。


「俺も帰る。ヒューゴは?」


「……帰る」


 声は聞こえたのに、ヒューゴは長椅子の背にもたれたまま動かない。さっきから酒もほとんど減っていなかったので、眠いならさっさと帰ればいいのにと思いながら顔を覗き込む。


「帰る人って言ってる人が動いてないよ」


「分かってる」


「じゃあ立ちなよ」


「今立つ」


 そこまで言うなら待っていようかと思ったものの、ヒューゴはグラスを置いただけでまた背もたれに体を預けた。これではいつになるか分からないので、先に帰る気のある二人を見送ることにする。


「おやすみ。気をつけてね」


「リディアももう飲まないで寝なさいよ」


「分かってるって」


「本当に?」


「本当」


 最後まで疑われたまま二人を見送り、玄関の鍵をかけて居間へ戻ると、ヒューゴはまだ同じ場所にいた。今度は目まで閉じているので、帰るどころかこのまま寝るつもりなんじゃないかと近づいて肩を叩く。


「ヒューゴ?」


「……」


「寝たの?」


「……寝てない」


 返事はあったけれど目は開かない。寝ていない人間はもう少ししっかり喋るだろうと思いながら、もう一度肩を揺らすと、ようやく顔だけがこちらを向いた。


「ほら、帰るんでしょ」


「ああ」


「立てる?」


「立てる」


 ヒューゴが体を起こしたので、これなら帰れそうだと一歩離れる。ところが立ち上がるのを待っているうちに体はまた後ろへ戻り、何事もなかったように背もたれへ頭を預けてしまった。


「帰る気ないでしょ」


「ある」


「じゃあ帰ってみて」


「……少ししたら」


 少ししたらと言われても、その少しを待っている間にまた寝るのは目に見えている。無理に立たせたところで、こんな状態のヒューゴを一人で帰らせるほうが心配なので、長椅子を指した。


「もうそこで寝れば?」


「いいのか?」


「その代わり長椅子だからね。寝床まで用意しないよ」


「ああ。十分」


 帰れと言っているときより返事が早い。泊まっていいと分かった途端に安心したのか、また目を閉じたヒューゴを見ていると、最初から帰る気がなかったんじゃないかと疑いたくなる。


「明日起きたら片づけ手伝ってね」


「ああ」


「聞いてる?」


「聞いてる」


 返事だけならさっきから立派なので、どこまで信用していいのか分からない。明日覚えていなかったらやらせればいいと決めて戸棚から毛布を出し、ヒューゴの上に放る。


「靴くらい脱いだら?」


「脱いでる」


 そんな暇がいつあったのかと足元を見ると、本当に脱いである。帰るためには立てないのに寝る準備だけはできるらしく、呆れている間にもヒューゴは目を閉じたまま毛布を引き寄せた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 これでもう起こす理由はなくなったので、私も寝ることにする。食卓に残っている皿やグラスが目に入ったけれど、今から全部片づけるくらいなら明日の私に任せたほうがいい。


 酒だけ戸棚へ戻し、残った食べ物に蓋をしてから居間を出る。


「じゃあ、おやすみ」


「……おやすみ」


 まだ返事ができるなら大丈夫だろう。


 二階へ上がってノアの部屋を覗くと、息子はとっくに眠っていた。起こしてまでヒューゴが泊まると教える必要もないので、そのまま扉を閉める。


 明日の朝、下にヒューゴがいたら驚くかもしれない。


 まあ、そのときはそのときだ。


 私も眠いので、自分の部屋へ戻ってベッドに入った。


目を覚まして時計を見ると、もう昼が近かった。


 一度途中で目を覚ました気もするけれど、休みなのだから起きなくてもいいとそのまま寝直したらしい。まだ寝ようと思えば寝られそうだったものの、さすがに喉が渇いたので布団から出る。


 顔を洗ってから、寝るときに邪魔にならないよう適当にまとめていた髪をほどく。結び直そうかと思ったけれど、今日は出かける予定もないので手櫛で直すだけにして部屋を出た。


 階段を下りていくと、居間からノアの声が聞こえてきた。


「だから、母さんはまだ起きないよ」


「もう昼になるぞ」


「休みの日はいつもこんな感じ」


 どうやら私の話をしているらしい。


「起きてるよ」


 居間を覗くと、食卓にいた二人が揃ってこちらを見た。ノアはいつもどおりだったけれど、ヒューゴは私の顔を見たまま一瞬動きを止める。


「何?」


「……いや」


「何よ」


「本当に今起きたのか?」


「そうだけど」


 何を確認したいのか分からずヒューゴを見ると、今度は髪のあたりに目がいった。


「髪?」


「すごいぞ」


「寝てたんだから仕方ないでしょ」


 手で押さえてみると、後ろのほうが少し跳ねている気はする。でも今日は家から出ないし、ノアしかいないのだから直す必要もない。


 そこまで考えてから、もう一人いたことを思い出してヒューゴを見る。


「まあ、ヒューゴならいいか」


「何が?」


「別に」


 聞かれても説明するほどのことではないので、そのまま台所へ向かう。水を一杯飲んで戻ると、食卓にはパムと卵が残っていた。


「それ食べていい?」


「母さんの分だよ」


「やった」


 椅子を引いて座ると、向かいにいたヒューゴが呆れたような顔をする。


「何?」


「昼まで寝て、起きて最初にそれか」


「お腹空いたもん」


「昨日も遅くまで食ってただろ」


「寝たらお腹空くでしょ」


 パムに手を伸ばすと、ノアが横から皿を寄せてくれた。卵も一つ残っているので、それも自分の前へ持ってくる。


「これ二人が作ったの?」


「うん。ヒューゴさんが卵焼いた」


「へえ。ヒューゴ料理できるんだ」


「卵焼いただけだぞ」


「私まだ何もしてないから、今日一番料理してるよ」


「起きたばっかりだろ」


「だから」


 自分でもそう言っているのに、なぜかヒューゴに呆れられた。


 パムを食べながら食卓を見ると、昨夜そのままにした皿もグラスもなくなっている。朝食に使ったらしいものだけが残っているので、私が寝ている間に片づけまで終わっていたらしい。


「昨日のも片づけてくれた?」


「約束したからな」


「覚えてたんだ」


「お前、俺を何だと思ってるんだ」


「昨日のヒューゴ見てたら忘れててもおかしくないでしょ」


「覚えてる」


「じゃあ偉い」


「子ども扱いするな」


 褒めたのに嫌がられた。


 ノアは私たちの話を聞きながら本を開き、もう朝食は終わったのか椅子に座ったまま読み始める。ヒューゴも帰る様子がないので、私は残っていたパムをもう一つ取った。


「今日どうするの?」


 本から顔を上げずにノアが聞いてくる。


「何もしない」


「買い物は?」


「明日でいいよ」


「お昼は?」


「今これ食べてるから遅くていいんじゃない?」


「僕は朝から起きてるからお腹空くよ」


 それは考えていなかった。私が昼まで寝ていてもノアまで寝ているわけではないので、食べる時間まで私に合わせるわけにはいかない。


「じゃあお腹空いたら言って。何か作るから」


「分かった」


 それで話は終わったらしく、ノアはまた本へ戻った。


 向かいから視線を感じて顔を上げると、ヒューゴがこっちを見ている。


「さっきから何?」


「いや、本当に言ってた通りなんだなと思って」


「そんなこと言った?」


「休みの日は昼まで寝てるって話」


「ああ」


 そういえば、結婚の話をしたときにそんなことも言った。


「嘘ついてどうするの」


「嘘だとは思ってない」


「じゃあ何?」


「ここまでそのままだとは思ってなかった」


「ちゃんと言ったでしょ」


 今日は朝食まで二人に用意してもらっているので、反論できるところは特にない。


「これが普通だからね」


「ああ」


「今さら引いても遅いよ」


「引いてない」


 すぐに返されたので、パムを食べながらヒューゴを見る。呆れてはいるみたいだけれど、本当に嫌そうな顔をしているわけでもない。


「ならいいけど」


 残っていた卵を食べると、ヒューゴが自分のカップを持ち上げた。


「コフィー飲むか?」


「飲む」


「自分で入れろよ」


「聞いたのヒューゴでしょ」


「飲むか聞いただけだ」


「じゃあ入れて」


「何でだよ」


「私まだ食べてるから」


 文句を言いながらもヒューゴが立ち上がったので、カップを渡す。


 その横でノアは本から顔も上げなかった。


     ◇


「ヒューゴ、砂糖」


「自分で取れ」


「そっちのほうが近いじゃん」


 当然のように手を出され、砂糖の入った器を渡す。礼を言って受け取ったリディアは、髪が跳ねていることなどもう忘れたようにコフィーへ砂糖を入れ始めた。


『休みの日なんて、予定がなかったら昼まで寝てることもあるし、ご飯だって毎回ちゃんと作るわけじゃないよ』


 あのとき聞いた話を思い出すと、笑いそうになる。本当に何一つ取り繕う気がないらしい。


「何?」


 見ていたことに気づいたらしく、リディアがカップを持ったままこちらを見た。


「いや」


「何よ」


「本当に何もしないんだなと思って」


「さっきも言ったでしょ」


「ここまでとは思わなかった」


「失礼だなあ」


 文句を言いながらも髪を直そうとはしない。そのままパムの残りを確認しているのを見ていると、結婚した途端にこれを変えろと言われたリディアが嫌になったのも、なんとなく分かる気がした。


 仕事ではきちんとしているし、ノアが腹を空かせれば何か作ると言う。必要なことまで放り出しているわけではない。ただ、自分しか気にしないことならわざわざやらない。


 それなら別に、このままでいい。


「ヒューゴ?」


「何だ?」


「さっきから見すぎ」


「悪い」


「そんなにひどい?」


 今さら気になったのか、リディアが自分の髪を触る。けれど手で押さえたくらいでは跳ねたところは直らず、諦めるのも早かった。


「まあ、ヒューゴならいいか」


「またそれか」


「だって今さらでしょ」


 そう言って、リディアはまたコフィーを飲む。


 今さらだと思われているなら、それでいい。少なくとも、俺の前では別の自分になる必要がないということだから。


     ◇


 仕事を終えて家に帰り、着替えて夕食の支度をしていると玄関を叩く音がした。


「ノア、出てくれる?」


「うん」


 居間から返事が聞こえ、すぐにノアが玄関へ向かう。誰が来たのか確認しなくても、今日はヒューゴが来ると分かっているので、私は鍋の中を混ぜながら二人分の声を聞いていた。


「ヒューゴさん、今日何買ってきた?」


「肉」


「やった!」


「ノア、持ってきて」


 台所から声をかけると、包みを抱えたノアが嬉しそうに戻ってきた。その後ろからヒューゴも居間へ入り、上着を脱いでいつもの椅子に置く。


「母さん、これ全部食べていい?」


「三人分だから駄目」


「全部食えるのか?」


「食べようと思えば」


「張り合うなよ」


 ヒューゴに呆れられながら包みを受け取り、鍋の横へ置く。もう少ししたら食べられそうなので、ノアに皿を出してもらい、ヒューゴにはパムを切らせることにした。


「ナイフ出してある?」


「いや」


「じゃあ出して」


「ああ」


 ヒューゴはそのまま食器棚の下の引き出しを開けると、ナイフを取り出してパムを切り始めた。


 夕食を食べ終えたあと、ノアが学校から持ち帰った紙を食卓に広げる。


「母さん、これどれがいいと思う?」


「何?」


「来週までに決めるやつ」


 渡された紙にはいくつか候補が並んでいた。どれを選んでもノアがやることには変わりないので、一通り見てから返す。


「自分がやりたいのでいいんじゃない?」


「だから、それが決まらないんだって」


「じゃあ好きなの」


「同じだよ」


「何が違うの?」


「もういい」


 せっかく答えたのに、ノアは不満そうな顔で紙を引っ込める。そのまま自分で考えるのかと思ったら、今度は隣に座っていたヒューゴへ差し出した。


「ヒューゴさんならどれにする?」


「俺ならこれだな」


「なんで?」


「一番面白そうだから」


「やっぱりそうだよね」


 さっきまで迷っていたのが嘘みたいに頷いて、ノアは紙に何か書き込み始める。同じようなことを言ったはずなのに扱いが違いすぎて、その手元を覗き込んだ。


「私にもそれくらい素直に納得してよ」


「母さん何でもいいって言っただけじゃん」


「好きなの選べって言ったでしょ」


「それじゃ決まらないから聞いたの」


「ヒューゴだって面白そうなのって言っただけじゃん」


「どれが面白そうか教えてくれたもん」


 そこが大事だったらしい。だったら最初からそう聞けばいいのにと思っていると、横から笑い声が聞こえた。


「何よ」


「何も言ってない」


「笑ったでしょ」


「笑うくらいいいだろ」


「私が怒られてるのに」


「怒ってないよ」


 ノアにまで否定されては言い返しようがない。二人とも私がおかしいみたいな顔をしているのが気に入らないけれど、これ以上続けても味方はいなさそうなので、食べ終えた皿を重ねて立ち上がった。


 台所へ運んで水を出すと、ヒューゴも自分の皿を持ってついてくる。洗い終えた皿を渡せば受け取って拭いてくれるので、そのまま次の皿に手を伸ばした。


「それ置いといて」


「ああ」


 返事をしたヒューゴが食器棚を開け、皿を戻す。


 次の皿を洗おうとしたところで、その手を目で追った。


 そういえば夕食の前も、ナイフを出してと言っただけで自分で引き出しを開けていた。前なら「どこだ」と聞いていたのに、いつの間に覚えたんだろう。


「リディア」


「ん?」


「皿」


「あ、ごめん」


 手を止めたままだったことに気づき、泡を流してヒューゴに渡す。受け取ったヒューゴは何も気にしていない様子で水気を拭き、また食器棚へ戻した。


何度も来ていれば覚えるのは当たり前だ。


 そう思ってから、何度も来ていることのほうが気になった。


 最初に平日に来たいと言われたときは、飲みもしないのに何をしに来るんだろうと思った。それなのに何度か繰り返すうちに、来る理由なんて考えなくなっていた。


 隣で皿を拭いているヒューゴを見る。


 何でこんなにうちに来るんだろう。


『本当に昨日言ってた通りなんだなと思って』


 この前の朝に言われたことが浮かんだ。


 休みの日は昼まで寝ることもあると話したのは、再婚の話をしたときだ。


そういえば、ヒューゴが平日にも来るようになったのは――。


「……あれ。」


「何だ?」


 声に出ていたらしく、ヒューゴがこちらを見る。


「ヒューゴ」


「何だ?」


 皿を拭いていたヒューゴが、今度はちゃんとこちらを向く。


 違うなら違うと言われるだけだ。考えていても分からないので、そのまま聞いた。


「もしかして私のこと口説いてる?」


 ヒューゴの手が止まった。


 しばらく何も言わないので、やっぱり違ったかと思いかけたところで、ヒューゴが眉を寄せる。


「……今気づいたのか?」


「やっぱり?」


「お前、何だと思ってたんだよ」


「よく遊びに来るなとは思ってた」


「それだけか?」


「うん」


 答えると、ヒューゴは拭きかけの皿を持ったまま額を押さえた。


「いつから?」


「何が」


「口説いてたの」


 額を押さえていた手を下ろし、ヒューゴが私を見る。


「最初に平日に行ったあたりから」


「やっぱりあの話のあと?」


「ああ」


 ただ、あのとき私は再婚するならどんな相手がいいかを答えただけだ。それを聞いたヒューゴがどうして自分にも関係があると思ったのかまでは分からない。


「でも、なんであの話のあとだったの?」


「再婚する気があるって分かったから」


「それまではないと思ってた?」


「思ってた」


「だから何もしなかったの?」


 聞くと、ヒューゴは少し迷ってから頷いた。


「お前はノアと二人で普通に暮らしてたし、相手にもされてなかったからな」


「でも私のことは好きだったの?」


「ああ」


 あっさり返されて、今度は私の手が止まった。


 さっき口説かれていると分かった時点で、そういうことなのだろうとは思っていた。でも、ヒューゴの口からはっきり好きだと言われると、さっきまでと同じように隣に立っているのが少し変な感じがする。


 顔を見ると目が合ったので、何となく皿へ視線を戻した。


「……全然気づかなかった」


「気づかれないようにしてたからな」


「じゃあ分かるわけないでしょ」


「それでも普通は途中で気づくだろ」


「気づかなかったから今聞いてるんだけど」


「そうだったな」


 納得されたのも何となく気に入らない。


 洗いかけだった皿を流してヒューゴへ渡すと、いつものように受け取られた。さっきまでは何とも思わなかったのに、その手を見た途端、ヒューゴが私のことを好きだと言ったばかりなのを思い出して、渡したあとすぐに手を引く。


「何だ?」


「何でもない」


「急に変になったな」


「ヒューゴのせいでしょ」


「俺は何もしてないぞ」


「したよ。好きって言った」


 言った途端、また目が合った。


 自分から聞いたのだから答えが返ってくるのは当たり前なのに、どうして私が落ち着かなくならなければいけないんだろう。


「……やっぱり今日は帰って」


「何でだよ」


「ヒューゴがいると考えられないから」


「何を?」


「これからどうするか」


 ヒューゴが黙ったので、残っていた水を流して手を拭く。


 嫌なら断ればいい。それなら考える必要もないし、今までどおり同僚に戻れば済む。


 でも、帰ってほしいとは思っても、もう来ないでほしいとは思わなかった。


「すぐ答えなくていい」


 さっきまでとは違って、ヒューゴは笑わずにそう言った。


「待つの?」


「待つ」


「どれくらい?」


「何で期限を決めるんだよ」


「分からないけど」


「急がなくていい。今までだって待ってたんだから」


 それを聞いて、ヒューゴを見る。


 私が何も知らない間も好きだったのなら、確かに今さら数日やそこらで困ることもないのかもしれない。


「じゃあ考える」


「ああ」


「でも期待しないでね」


「それは無理だな」


「なんでよ」


「期待するくらいいいだろ」


「……まあ、頑張って」


「何をだよ」


「口説くの」


◇


 翌朝、職場へ行くと、ヒューゴはもう向かいの席にいた。


「おはよう」


「ああ、おはよう」


 いつもと変わらない返事をされて、鞄を机の横へ置きながら向かいを見る。ヒューゴは私と目が合っても特に何を言うでもなく、手元の書類へ視線を戻した。


 考えてみれば、ヒューゴは前から私のことが好きだったのだから当然か。昨日それを知った私のほうが、いつもと同じように向かいに座っているヒューゴを見てしまっている。


 みんなでうちに飲みに来ていた頃にはもうそうだったのだろうかと考えかけて、仕事中に考えることでもないと書類を開く。


 それでも向かいから書類を渡されれば顔を見てしまうし、こちらから確認を頼んだときにも、用事が済んだあとまで目で追ってしまう。そのたびにヒューゴと目が合いそうになり、さすがに見すぎたと思って書類へ戻るのを繰り返しているうちに午前の仕事が終わった。


 昼休みになり、マルタとダリオも近くへやってくる。机の上を片づけて昼食を出していると、向かいでヒューゴが椅子に座り直した。


「リディア」


「何?」


「お前、今日何回こっち見てた?」


「そんなに見てた?」


「見てた。朝から何なんだよ」


「何の話?」


 隣で昼食を広げていたマルタが興味津々の顔でこちらを見てきた。


「こいつが朝から何回も俺のこと見てくるんだよ」


「リディアが?」


「うん」


「昨日、ヒューゴが前から私のこと好きだったって分かったから、ちょっと気になって」


「え? 今まで気づいてなかったの!?」


「うん」


「何で知ってるんだよ」


「何でって、ヒューゴってリディアの家に行くときは必ず参加してたでしょ? もしかしてとは思ってたわよ」


「そんなに分かりやすかったか?」


「ほら、やっぱり分かりにくいじゃん」


「何がだよ」


「マルタだって『もしかして』でしょ。私が分からなくてもおかしくない」


「そこは張り合うところなの?」


 マルタに言われたけれど、私だけ鈍かったみたいに言われるよりはいい。


「でも、ヒューゴもよく黙ってたわね」


「言ってどうするんだよ」


「付き合ってほしいとか」


「リディアにその気がないと思ってたからな」


「じゃあ、あのとき再婚の話をしなかったら、まだ黙ってたの?」


「たぶんな」


「へえ」


 そんなに長く黙っていられるものなのかと思いながらパムを食べていると、マルタがヒューゴを見る。


「それで平日にもリディアの家に行くようになったのね」


「ああ」


「やっぱりそこからなんだ」


 私が気づいたのもそこだったので、マルタも同じところを怪しいと思ったらしい。


「でも、それでよく気づかなかったわね」


「だって夕食食べて帰るだけだよ?」


「他にも何かあったでしょ」


「何かって?」


「何かした?」


「俺に聞くなよ」


「だって口説いてたのヒューゴでしょ」


「そうだけど、お前が何とも思ってなかったなら俺が言っても意味ないだろ」


 それもそうかと思って、今度は自分で考えてみる。平日に来るようになったこと以外で、それまでと変わったことがあっただろうか。


「やっぱり何もしてないんじゃない?」


「してたわよ」


「何でマルタが答えるんだよ」


「見てたからよ。前よりリディアのこと気にしてたでしょ」


「そうなの?」


「お前は少しくらい自分で考えろ」


 ヒューゴに言われても、気づいていなかったものを今さら思い出すのは難しい。


「じゃあ今日から見る」


「何を?」


「ヒューゴがどうやって私を口説いてるのか」


 そうすれば今度は気づけるはずだと思ったのに、ヒューゴはなぜか嫌そうな顔をした。


「やりにくいな」


「何で? 気づいてほしかったんでしょ?」


「そうだけど、見張れとは言ってない」


「見張らないとまた気づかないかもしれないじゃん」


「もう口説いてるって知ってるだろ」


 分かったような、余計に分からなくなったような気がしているうちに、向こうでダリオが笑った。


「ヒューゴ、頑張れよ」


「お前まで入ってくるな」


◇


 それからもヒューゴは、今までと同じように平日にも何度かうちへ来た。


 口説かれていると分かったせいで最初のうちは気にして見ていたけれど、夕食を食べてノアと話し、ときどき酒を飲んで帰っていくのは前と変わらない。私もそのうち一つ一つ気にするのをやめて、ヒューゴが来る日は三人で夕食を食べるようになった。


 そんな日が続いていたのに、ある日を境にヒューゴがうちへ来なくなった。


 職場では毎日顔を合わせるし、話もする。昼休みになればマルタやダリオと一緒に昼食を食べることもあるので、避けられているわけではなさそうだった。


 ただ、帰りに「今日、行っていいか」と聞かれない。


 最初のうちは特に気にしていなかったけれど、それが何日か続くと、帰り支度をするたびに今日はどうするのだろうと向かいの席を見るようになった。


 今日もヒューゴは鞄を持って立ち上がる。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 そのまま帰っていくのを見送ってから、私も鞄を持った。


 いつの間にか、ヒューゴがうちに来ることを普通だと思うようになっていたらしい。


 家に帰ると、ノアはもう宿題を広げていた。


「ただいま」


「おかえり」


 返事をしながら顔を上げたノアが、私の後ろを見る。


「今日もヒューゴさん来ないの?」


「来ないよ」


「最近来ないね」


「そうだね」


 私だけが気にしていたわけではないらしい。


 夕食を作って二人で食べ始めても、ヒューゴがいないからといって困ることは何もない。もともとノアと二人で暮らしていたのだから、これが以前までの普通だったはずなのに、向かいにノアしかいない食卓が前より広く感じる。


「母さん、食べないの?」


「食べてるよ」


「さっきから全然減ってないけど」


「考え事してた」


「ヒューゴさんのこと?」


「なんで?」


「最近来ないから」


「それだけでヒューゴのこと考えてることになる?」


「違うの?」


「……そうかも」


「聞けばいいじゃん」


「何を?」


「なんで来ないのって」


「それ聞いたら、来てほしいみたいじゃない?」


「来てほしくないの?」


 ノアに聞かれても自分の気持ちが分からず返事ができなかった。


 翌日、仕事をしながら何度かヒューゴを見た。


 昨日ノアに聞かれたことを考えてみても、来てほしいのかどうかは結局分からなかった。ただ、どうして来なくなったのかは気になる。


 昼休みになってもマルタとダリオがいるところで聞く気にはならず、仕事が終わるまで待った。


 帰り支度を始めたヒューゴが鞄を持ったところで、私も机の上の書類を片づける。


「ねえ、ヒューゴ」


「何だ?」


「最近うちに来ないね」


「ああ」


「なんで?」


 聞くと、ヒューゴが少し変な顔をした。


「なんでって、お前が考えるって言ったからだろ」


「それと来ないのと何の関係があるの?」


「口説いてるって分かってからも今までと同じように家に行ってたら、お前が考えにくいかと思って」


「そうなの?」


「少し離れたほうがいいかと思ったんだよ」


 そんなことは頼んでいない。


「別に来てもいいのに」


 言ってから、昨日ノアに聞かれたことを思い出した。


 来てほしいのかと聞かれても分からなかったのに、来ない理由を聞いたら、今度は自分から来てもいいと言っている。


「じゃあ今日行っていいか?」


「今日?」


「ああ」


 すぐに返事をせずに考えていると、ヒューゴが笑う。


「嫌なら行かないぞ」


「嫌とは言ってない」


「じゃあ行く」


「勝手に決めないでよ」


「どっちなんだよ」


「……来てもいいよ」


「分かった」


 ヒューゴはそれ以上何も言わず、いつものように私が帰り支度を終えるのを待っている。


 その姿を見ていると、昨日ノアに聞かれたことにも少しだけ答えられる気がした。


 来なくても困らないけど、来ると聞いたら嬉しかった。


 それからヒューゴは、また平日にも来るようになった。


 来る日は帰りに一緒に買い物をして、三人で夕食を食べる。前とやっていることは変わらないのに、今日は行っていいかと聞かれるたびに嬉しいと思うようになった。


 そうなると、ヒューゴと付き合ったらどうなるのかも気になってくる。


 次にヒューゴがうちへ来た日、夕食を食べ終えてノアが風呂へ行ったところで聞いてみた。


「ねえ、ヒューゴ」


「何だ?」


「私たちが付き合ったら何が変わるの?」


「……急に何の話だ?」


「考えてたの」


「何を?」


「ヒューゴと付き合うかどうか」


「それで?」


「だから聞いてるの。付き合ったら何が変わる?」


「そうだな……」


「俺がお前の恋人になる」


「それは知ってる」


「じゃあ何を聞いてるんだよ」


「だから、その恋人になったら何するの?」


「お前、付き合ったことあるだろ」


「結婚もしたことあるよ。でもヒューゴとはしたことないでしょ」


「それはそうだけど」


 ヒューゴは何か考え込んでしまった。口説いていると言い出したのはヒューゴなのに、付き合ったあとのことは私と同じくらい分かっていないらしい。


「何もないの?」


「いや、ある」


「何?」


「今より一緒にいたい」


「今も結構いるよ?」


「そうだけど、うちに行っても夕食食べたら帰るだろ」


「帰らないの?」


「たまには泊まりたい」


「泊まったことあるじゃん」


「あれは酔って帰れなかっただけだろ」


「じゃあ、今度は酔ってなくても泊まりたいってこと?」


「ああ。次の日が休みなら、もう少し遅くまで一緒に飲んだりできるだろ」


「それはいいかも」


「いいのか?」


「次の日休みならね」


「じゃあ、付き合ったら泊まっていいのか?」


「たまになら」


「そこはあっさり決めるんだな」


「だって嫌じゃないし」


「付き合うかどうかはまだ決まらないのに?」


「それを今考えてるんでしょ」


 ヒューゴと付き合ったら、今より一緒にいる時間が増えるらしい。たまに泊まって、次の日が休みなら遅くまで一緒に飲む。それなら今より楽しそうだ。


「じゃあ、付き合ってみる?」


「……いいのか?」


「うん」


 ヒューゴはしばらく私を見ていたけれど、やがて口元が緩んだ。


「分かった」


 その顔を見たら、私まで少し嬉しくなった。


 翌朝、職場へ行くと、ヒューゴはいつものように向かいの席で書類を読んでいた。


「おはよう」


「ああ、おはよう」


 返事も昨日までと同じで、そのまま仕事を始めれば、ヒューゴも何事もなかったように手元へ視線を戻す。


 昨日から付き合っているはずなのに、向かいに座っているのは昨日までと同じヒューゴだった。


 昼休みになればマルタとダリオもやってきて、四人で昼食を食べる。ダリオは朝からあった仕事の愚痴を話し、ヒューゴもいつものようにそれに付き合っていた。


 仕事が終わる頃には、昨日まであれこれ考えていたのが少し馬鹿らしくなってきた。


「今日、行っていいか?」


「いいよ」


「じゃあ肉買ってくか」


「昨日も肉だったよ」


「じゃあ何がいい?」


「ノアに聞けば?」


「まだ家にいるだろ」


「帰ってから聞けばいいじゃん」


「それじゃ買い物できないだろ」


 結局、二人で何を買うか決めながら職場を出た。


 家に着くと、ノアがいつものように出迎えてくれた。


「おかえり」


「ただいま」


「お邪魔します」


 ヒューゴが続けて入ってきても、ノアは特に気にする様子もなく居間へ戻っていく。その後を追いかけようとして、そういえばノアにはまだ何も言っていなかったことを思い出した。


「ノア、ちょっと待って」


「何?」


「母さん、ヒューゴと付き合うことにしたから」


「……付き合う?」


「うん」


 ノアが私とヒューゴを交互に見る。


「ヒューゴさんが母さんの恋人になったってこと?」


「そう」


「いつ?」


「昨日」


「昨日!?」


 思ったより大きな声を出されて、そんなに驚くことだろうかとヒューゴを見ると、なぜかこっちまで見られていた。


「何?」


「いや、お前、本当にそのまま言うんだな」


「他にどう言うの?」


「別にいいけど」


 ノアはまだ私たちを見比べていたけれど、しばらくするとヒューゴに顔を向けた。


「じゃあ、これからも来る?」


「ああ。そのつもりだけど」


「ならいいや」


「それだけ?」


「何が?」


「もっと何か聞かれるかと思った」


「ヒューゴさん、前から来てるし」


それで話は終わったらしく、ノアは居間へ戻っていった。


 そのまま三人で夕食を作って食べ、食べ終わればヒューゴが皿を拭き、私が洗ったものを渡すうちに食器棚へ戻されていった。


「じゃあ帰る」


「うん」


 ヒューゴについて玄関まで行き、外へ出るのを待って扉に手をかける。


「また明日」


「また明日」


 そのまま閉めようとしたところで、ヒューゴが振り返った。


「何?」


「いや……本当に変わらないなと思って」


「まあ、いいんじゃない?」


「お前がいいならいいけど」


「ヒューゴは嫌なの?」


「嫌なら付き合ってない」


「じゃあいいじゃん」


 それで話は終わったらしく、ヒューゴが今度こそ帰っていく。


 付き合う前と同じように見送ったけれど、明日も会うと分かっているのに、帰っていく背中を前より少し長く見ていた。


 付き合い始めてから何日か経った休みの前日、ヒューゴはいつものように夕食を食べに来て、そのままノアと二人で何か話していた。


 私は先に風呂を済ませ、部屋着に着替えて居間へ戻る。


「そういえば、今日泊まる?」


 聞くと、ヒューゴが話をやめてこちらを見た。


「いいのか?」


「明日休みでしょ」


「ああ」


「付き合ったら泊まりたいって言ってたじゃん」


「言ったけど、お前から聞かれるとは思わなかった」


「なんで?」


「俺から言うつもりだったから」


「どっちでも同じでしょ」


「お前はそうだろうな」


 何が違うのか分からないけれど、泊まるならもう帰る時間を気にする必要もない。まだ飲むなら私も飲もうと酒を出していると、ノアがヒューゴを見る。


「今日泊まるの?」


「ああ。いいか?」


「いいよ」


「なんでノアにも聞くの?」


「俺が泊まる家だぞ。聞くだろ」


 そういうものかと納得して、三人分の飲み物を用意する。ノアには果実水を渡し、私とヒューゴのコップには酒を注いだ。


 前に泊まったときは、酔って帰れなくなった結果だった。今日は最初から帰らないと決まっているのに、三人で話していることはいつもと変わらない。


 ノアが寝たあとも、ヒューゴと二人で酒を飲みながら話していた。いつもなら途中でヒューゴが時計を見て帰る時間を気にするのに、今日はそれがない。


「泊まるのもいいね」


「まだ寝てもないだろ」


「帰る時間気にしなくていいから」


「それがしたかったんだよ」


「じゃあ付き合ってよかったね」


「お前はそれでいいのか?」


「いいよ。私も楽しいし」


「ならよかった」


 結局その日はいつもより遅くまで飲んで、翌朝はいつもより遅く起きた。


 居間へ行くと、ノアとヒューゴがテーブルでパムを食べている。


「おはよう」


「おはよう、母さん」


「遅いな」


「休みだからいいの」


「もう昼になるぞ」


「まだなってないでしょ」


 空いている椅子に座ると、ヒューゴが自分の前にあった皿を寄せた。


「食うか?」


「食べる」


「自分で取れ」


「くれるのかと思った」


「なんでだよ」


 仕方なく立ち上がって自分の分を持ってくる。付き合ったからといって、ヒューゴが急に私を甘やかすようになるわけでもないらしい。


「ヒューゴ」


「何だ?」


「付き合っても本当に変わらないね」


「今さらか?」


「昨日も言ってたけど、泊まっても変わらないなと思って」


「何かしてほしかったのか?」


「別に」


「じゃあいいだろ」


「うん」


 パムをちぎって食べながらヒューゴを見る。休みの日に昼近くまで寝ていても起こされないし、起きてきた私を見ても呆れはするけれど、着替えろとも、もっと早く起きろとも言わない。


 前に結婚の話をしたとき、私は何と言ったんだっけ。


『結婚したからって、私を変えようとしない人かな』


「ねえ」


「今度は何だ?」


「結婚しても変わらない?」


「……何が?」


「今と」


「お前、それどういう意味で聞いてる?」


「そのままだけど」


「付き合い始めて何日だと思ってるんだよ」


「別に今すぐ結婚するって言ってないよ」


「だったら急に聞くな」


「気になったから」


 ヒューゴはしばらく何も言わなかったけれど、やがて息を吐いて椅子の背にもたれた。


「変える気はないよ」


「そう」


「そもそも今のお前を知ってて付き合いたかったんだから、結婚した途端に別の人間になられても困る」


「それならよかった」


「よかったって……」


 ヒューゴが何か言いかけたところで、向かいに座っていたノアがパムを食べながら口を開いた。


「結婚するの?」


「今はしないよ」


「今は?」


「何?」


「いや」


「今はしないでしょ。付き合ったばっかりなんだから」


「そうだな」


 そう答えたヒューゴが少し嬉しそうなので、何がそんなに嬉しいのかと思ったけれど、聞けばまた何か言われそうなので放っておくことにした。


 とりあえず今日は休みだ。


「食べたら何する?」


「母さん、まだ食べ始めたばっかりじゃん」


「だから食べたあとの話してるの」


「俺に聞くなよ。お前の家だろ」


「ヒューゴもいるじゃん」


「じゃあ三人で考えるか」


「うん」


 ヒューゴがいるからといって、私が早起きするようになるわけでも、休日の過ごし方が変わるわけでもない。


 それでも、一人増えた休日に何をするか三人で考えるのは、悪くなかった。


◇


 次の出勤日、昼休みになっていつものように四人で昼食を食べていると、マルタがふと思い出したように私を見る。


「そういえば、ヒューゴのこと考えるって言ってたけど、あれからどうなったの?」


「付き合うことにしたよ」


「え?」


 パムを食べようとしていたマルタの手が止まった。


「いつ?」


「この前」


「なんで言わないのよ!」


「今言ったじゃん」


「聞いたからでしょ!」


 そう言われても、わざわざ報告するものだとは思っていなかった。


「ヒューゴも何で黙ってるのよ」


「俺に言うなよ」


「二人とも普通にしてるから全然分からなかったんだけど」


「付き合ったからって職場で何かすることある?」


「ないけど!」


 ないならこれでいいのではないだろうか。


 マルタはまだ何か言いたそうだったけれど、向かいでヒューゴが笑っている。


「何?」


「いや。お前、本当に変わらないなと思って」


「ヒューゴも変わってないじゃん」


「そうだな」


 それなら問題ない。


 昼休みが終われば、ヒューゴはいつもの向かいの席に戻る。私も残っていたパムを食べて片づけると、自分の席へ戻った。



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