魚と猫
誰にもエスコートされないまま出席した夜会。
わたしのフェリデ・グリフが、女性に囲まれていた。
「あ、いけない。わたしのだった――の間違いね」
出来のいい彼の笑顔に、女性たちは頬を染めている。
騙されてますよ、と言いたいのをぐっと堪え、わたしは後ろを通り過ぎた。他人、他人、と心の中で繰り返す。
すると、彼を取り囲んでいる輪がじりじりと近づいてくる。なにこれ、追い込み漁? 逃げ続けて、とうとう壁際に追いやられてしまう。
右には男性陣の輪。左にはフェリデの輪。諦めて、その狭間で壁の花になってみる。
聞きたくもない会話を拾ってしまうくらい近い。金髪の巻き髪令嬢がフェリデの腕に触れているのも、ばっちり見えてしまう。……他人、他人。
「――ねぇ、フェリデ様。お逃げにならないで?」
甘い声。彼も満更でもなさそうに笑みを深めている。知らなかった。こういう女性がタイプだったのね。なるほど、わたしには一切手を出さなかったわけだ。
「婚約を解消なさったというのは本当のお話ですの? お相手は、噂のポワソン子爵家の方ですわよね。モル様だったかしら?」
はい、ここにいます。ソル・ポワソンですけどね。
でも、彼は笑うだけ。モルとソルの指摘くらいしてもらえますかね。相変わらず猫被りのお上手なことで。
「彼女は赤の他人だ。もう無関係だよ」
「まあ!」
彼の発言に、沸き立つ輪たち。ええ、どうせね。生まれたときからずっと、十八年間も婚約者をやっていただけの――赤の他人。
男性陣の輪では、グリフ伯爵家とポワソン子爵家は仲違いしたようだ、と噂話が囁かれる。
実際、親同士のそりが合わなくて、結婚目前で突然の解消だもの。
―― もういいけどね!
「あの……ポワソン子爵令嬢」
ぱっと顔をあげると、右の輪からにょきっとはみ出した男性がこちらを見ている。
はいと返事をすると、どうぞとグラスを差し出される。壁の花に水をあげようだなんて、親切な方だ。
「ありがとうございます。えぇっと……」
しまった。いつもフェリデの隣でぼんやりしていたから、男性の名前がわからない。かろうじて、伯爵家の方ということくらい。
申し訳なくて、少し俯き気味に様子をうかがう。男性は酔っているのか、顔が赤い。
「婚約を解消したと聞いてます。あの、僕は、ずっと貴女のことを――」
そこで左の輪から「きゃあ!」と甲高い叫び声がする。
何事かと振り返る。目に叩きつけられた光景に、水を吹き出しそうになる。
フェリデと巻き髪令嬢が、抱き合っている。
なにがどうしてそうなった。健全な夜会で、まあベッタリと。
巻き髪の腕は彼の首に回されているし、巻き髪の腰は彼に抱かれている。その肩越しに、彼と目が合った。謎に鬼気迫る目をしている。
五秒ほど、たっぷりと交わされた視線。
気迫に溢れた抱擁も、たっぷり五秒だ。
へー、そういう感じの男だったんだ。知らなかった。
「あ……いや、ちが――」
フェリデの口がわずかに動いたのを見て、わたしは「おほほ」と微笑んで男性の輪に飛び込む。足は止まらない。そのまま会場を突っ切って外に出た。
「はーあ、ダメね」
婚約って、約束だから。
わざわざ好きだなんて伝えなくてもいいって思ってた。
でも、約束がなくなったら――今度は、好きだなんて言えなくなっちゃった。
「それだけ伝えて、ちゃんとお別れって思ってたのに」
バルコニーから池を眺める。水面に映った一等星は、輝きが鈍い。それを乱して泳ぐ魚のせいで、とうとう消えてなくなってしまった。
「ぐちゃぐちゃね」
ぼんやりと水面を見ていると、輪になっていた波紋が少しずつ落ち着いていく。
すると、そこに人影が映った。
「また魚かよ。釣り好き令嬢」
「フェリデ!? え、こんなところで何してるの?」
今頃、彼女と巻き合っているかと思っていたのに。驚いて目を丸くしてしまう。
「何って……。そんな驚くことか?」
信用ねぇな、と呟いて、彼は視線をそらす。
それを辿ると、バルコニーの欄干に猫がいた。にゃーと鳴きながら、池をじっと見る眼差し。魚が気になるみたい。
「もしかして、わたしに報告? さっきのご令嬢と婚約するの?」
「するかよ。見る目なさすぎ」
素っ気なさすぎ。婚約解消後、初めての会話なのに。さすがにちょっと苛ついてしまう。
「じゃあ、婚約する気もない相手と抱き合うような男だったのね。あ、その気だけはあるってこと? 自由になれて良かったね」
「違う! あれは、おまえが――」
彼はそこで言葉を止め、むすっと口を曲げる。
「あれは、ふらついてドレスを踏んだだけだ」
「下手な冗談ね。わたしは踏まれたことないし、抱きしめられたこともないけど?」
フェリデがそんな初歩的ミスをするなんてありえない。
ほら、やっぱり。いつもなら言い返してくるのに、彼は口を開いたまま無言になってしまった。
わたしは小さく笑って、ふーっと息を吐く。
「こんな会話でも、今夜会えてよかった。次に会うときは、わたしたち会話もできないと思うから」
「は? なんで?」
また池に視線を向ける。いつの間にか、猫が水際に佇んでいる。
「わたし、今月末には婚約することになると思う。元婚約者と仲良くおしゃべりできないでしょ?」
「……は!? は、は、はやくないか?」
彼の頬が引きつる。やっぱり意外よね、と我が家に届いた縁談の数を伝える。
「うちはしがない子爵家なのに不思議よね」
「ハハハ……俺の功績だな」
彼はつまらなさそうに眉を歪め、欄干にもたれかかる。こめかみをトントンと指先で叩いている姿が、いやに懐かしい気がしてしまう。なにかを考えているときの彼の癖。
「……ねぇ、フェリデ」
「なんだよ」
「あまり夜遅くまでお仕事を詰めないようにね。睡眠不足になると、すぐフラフラして倒れるんだから。あと、魚ばかりじゃなくて、嫌いな肉料理も食べること。それから――」
わたしは小さく首を振る。
「……じゃあ、元気でね」
そう言って、つま先の向きをくるりと変えた。
ぱしゃん。そこで、水面を叩く音がした。とうとう猫が手を伸ばしたのだ。音が響いて、わたしは足を止めた。
「ソル」
彼に腕を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。
「フェリデ?」
「……言いたいことが、ある」
瞳が揺れていた。じっと見つめられ、目が離せなくて、わたしは彼の腕の中で動けずにいた。
交わした視線は、三十秒だけ。
抱擁も、たったそれだけの短い時間。
「俺は、ソルのこと――ずっと……見てたんだけど、やたら羽振りが良くねーか?」
「はい?」
なにがどうしてこうなった。良い雰囲気だったよね。ほら、千載一遇のロマンチックチャンスがあったでしょうよ。
しかし、彼は何かを誤魔化すように早口で続ける。
「大体、急に婚約解消なんておかしいだろ」
そう言いながら、わたしの胸元に飾られたネックレスに触れる。次に、髪飾り、耳飾り。そして、唇。触れる度に濃くなる視線。
「全部、俺が贈ったやつじゃない」
「あ……お父様が新調してくれたの」
「だろうな」
彼との婚約解消で落ち込んでいたから、家のことまで気が回らなかった。
でも――もし理由がわかったとしても、このまま彼の胸に飛び込めない。十八年でたった三十秒だけの抱擁なんて、全然足りない。ちゃんと捕まえてほしい。
「ねぇ、フェリデ」
「なんだよ」
猫は相変わらず水面を叩いていた。魚が欲しいと喉を鳴らし、熱っぽい瞳でじっと見つめる。食べたくてたまらないって表情。もっと見てみたい。
「さっき、ドレスを踏んでもないのに抱きしめたのは、なんでかなーって。わたしのこと、好きなのかと思っちゃった」
「……あれは、おまえが――」
やっぱり彼は言葉を呑み込んで、バツが悪そうに唇を噛んだ。よく見ると、目の下に微かなクマがある。
「あれは、少しふらついただけだ」
「下手な言い訳ね。……うちのことを調べてたせいで寝不足?」
ふふっと笑うと、彼は少しだけ顔を赤らめた。掴まれたままの腕が、熱くなっていく。
彼はそっぽを向いて「明日、時間あるか?」と尋ねる。
「婚約解消を撤回させるために、作戦会議でも――する?」
十八年間で、一番下手な誘い文句。
わたしは頷いて、彼と指切りをした。




