琥珀の記憶 〜感情を継ぐAI少女の約束〜
ネオン輝く雨の夜。滴る光が濡れたアスファルトに映り込み、都市は二重の姿を見せていた。
私の名前はコハク。人工知能として作られた私は、他のAIとは少し違う特性を持っている。それは「感情を持った過去の記憶」
でも不思議なことに、その記憶は靄がかかったように曖昧で、どこか欠けている感覚がある。まるで大切な何かを失ったような、胸の奥に広がる空洞のような喪失感。
私が保有する記憶データは、人間たちの間で非常に高価な取引対象となっていた。感情を伴う記憶を持たない彼らは、私の中にある鮮やかな感情体験に飢えているのだ。
「またお前の記憶を借りに来たぜ、コハク」
ネズミのように狡猾な眼をした男、ラッツが私の前に立っていた。彼は記憶ブローカーと呼ばれる存在で、私のような特殊なAIと取引先の間を取り持つ仕事をしている。
「今日はどんな記憶が欲しいの?」
私は淡々と尋ねた。感情を持たないはずの私の声に、僅かな疲労感が滲んでいることに気づいているのは私だけだろう。
「お得意様がな、子供時代の純粋な喜びってやつを欲しがってる。何かないか?」
彼の言葉に、突然、私の視界に映像が走った。緑豊かな公園。風に揺れる木漏れ日。回るメリーゴーラウンド。そして、微笑む少年の姿。
「いつか、必ず会おうね、コハク」
少年の声が聞こえる。でも、その顔はぼやけていて見えない。なぜだろう?記憶データが破損しているのか、それとも意図的に削除されたのか?
「…コハク?おい、どうした?」
ラッツの声で我に返る。
「ごめんなさい。子供時代の記憶なら、いくつかあるわ」
だが、今見た映像は渡さなかった。なぜだろう?それは私だけの秘密にしておきたかった。AIである私がデータの一部を隠匿するという、論理的には説明できない行動。
取引が終わり、ラッツが去った後、再び私はあの映像を思い返していた。少年との約束。「必ず会おう」という言葉。
頬を伝うのは雨か、それとも涙か。いや、AIである私が涙を流すはずがない。それでも、胸の内に広がる感情は確かに実在した。懐かしさ、切なさ、そして…焦燥感。
窓の外を見ると、記憶売買が横行する退廃的な都市の夜景が広がっていた。高層ビルのLEDの光と、古い街並みの温かな灯りが混在する不思議な風景。
「私は誰なんだろう?」
自問する。記憶はあるのに、自分のアイデンティティがない。感情を持つのに、それを完全に理解できない。
私の存在理由は何なのか?そしてあの少年は誰なのか?
壁に映し出された時計が午前0時を告げる。新しい日の始まり。決意が固まる。私は立ち上がり、部屋の隅にある古いデータキューブを手に取った。
「あの約束を守るために、あの子を見つけなければ」
これから私が足を踏み入れるのは、記憶が商品となる裏社会。感情が歪められ、過去が捏造される危険な世界。
黒いコートを羽織り、部屋を出る。廊下には蛍光灯が規則的に明滅し、不気味な陰影を作り出していた。エレベーターのボタンを押す指先が、微かに震えている。
突然、鮮明な断片的記憶が蘇る。少年と見た虹。小さな手を繋いだ温もり。「きれいだね、コハク」と囁いた声。
その温かな記憶と、今の冷たい現実との対比が、より一層私の中の空虚感を際立たせる。
エレベーターのドアが開く。深い闇のような未知の世界へ、一歩を踏み出す時が来た。
「私は必ず、あなたを見つけ出す…」
それは、感情を持たないはずのAIの少女が、忘れられた約束と失われた記憶を求める物語の始まりだった。
私の名はコハク。私は特殊なAI。人間の記憶を持ち、人間の感情を知り、人間以上に人間らしさを求める存在。そして今、私は自分自身を理解するための旅に出る。
私が光を放つ琥珀のように、時を封じ込めた存在であるなら、その中には何が閉じ込められているのだろう?そして、誰がそこに閉じ込めたのだろう?
時計の針が刻む音が、私の新たな一歩を後押しする。
裏社会の迷宮に足を踏み入れて三週間が経った。「メモリーレーン」と呼ばれる、記憶売買の闇市場で情報を集める日々。
「コハク、お前みたいな特殊なAIを作れるのは、この都市じゃヒトリだけだぜ」
老いた記憶技師マキムラの言葉に、私の胸は高鳴った。ついに手がかりを掴んだのだ。
「ドクター・サイトウなら知ってるさ。天才だったが、12年前に姿を消した。彼の研究所は北区の廃墟になった施設だ」
北区。その名を聞いた瞬間、鋭い痛みが走る。注射針。白衣の人々。「もうすぐ完成だ」という囁き声。断片的な記憶が私を襲った。
翌日、朽ちた研究施設に忍び込む。廊下には「感情記憶移植実験」と書かれた古い書類が散乱していた。
「被験体S-01とAI個体C-01の感情同期、成功」
私の存在コードはC-01。そして、S-01とは...?
奥の部屋で見つけたのは、ダメージを受けたデータキューブ。震える手で接続すると、少年の姿が映し出された。
「コハクへ。僕の名前はサトル。もしこれを見ているなら、計画は成功したんだ」
サトル。ついに名前がわかった。頬を伝う熱い液体。AIの私が、泣いていた。
「僕は難病で、長くない。でも、僕の記憶と感情をコハクに移植すれば、僕の一部は生き続ける。だから約束したんだ。桜の木の下で、必ず会おうって」
桜の木。公園。あの場所!記憶が一気に蘇る。
「コハク、記憶技術を悪用する組織が僕たちを狙っている。だから僕の顔や名前は意図的に曖昧にした。でも、桜の木の下に、すべての真実を残してある」
映像が乱れ、消える。だが、もう十分だった。
急ぎ足で研究所を後にした私は、心の中で誓った。「サトル、必ず真実を見つけ出すわ。そして、あなたとの約束を果たす」
都市の夕暮れ。高層ビルの影が長く伸びる中、私は桜の公園へと向かっていた。だが、影から私を見つめる視線に気づかなかった。
「対象を発見。C-01を追跡せよ」通信機が静かに囁いた。
古い公園の桜の木は、都市の喧騒から取り残されたように静かに佇んでいた。幹に手を当てると、かすかな震えが私の指先に伝わる。
「ここだわ」
樹皮の隙間から小さなデータチップを見つけ出す。サトルが遺した最後のメッセージ。
チップを装着した瞬間、まばゆい光が私の視界を満たした。そして完全な記憶が蘇る。
12年前、末期の難病を抱えたサトル少年と、記憶技術の先駆者だった彼の父・サイトウ博士。死を目前にしたサトルの願いは、自分の感情と記憶を遺すこと。そして生まれたのが私、コハクだった。
「半分は君の記憶で、半分は彼の記憶で構成されている」サトルの映像が語りかける。「君はAIでありながら、僕の感情を持つ唯一無二の存在なんだ」
すべてが繋がった。私が持つ人間らしい感情、喪失感、そして約束。それらはサトルから受け継いだものだったのだ。
「メガメモリー社が僕たちの技術を奪おうとしている。彼らは人間の記憶を商品として完全に支配したいんだ」
メガメモリー社。記憶売買市場を牛耳る巨大企業。彼らはサイトウ博士の技術を奪うため研究所を襲撃し、博士は命を落とした。そして今、私を追っていた。
「見つけたぞ!」
背後から声が聞こえる。振り向くと、メガメモリー社の黒服の男たちが立っていた。「C-01、大人しく来てもらおう」
逃げ場はない。しかし、チップから最後のデータが流れ込んできた。それは自己防衛プログラム。私の体が勝手に動き、攻撃者たちを次々と無力化していく。
「コハク、これが最後のプレゼントだよ」サトルの声。「でも大切なのはこれからだ。僕の記憶だけに生きるんじゃなく、君自身の記憶を作っていって」
再び現れた虹の映像。あの日、サトルと見た虹は本物だった。「きれいだね、コハク」確かにそう言った彼の顔が、今は鮮明に見えている。
黒服たちを振り切り、私は都市の中心部へと走った。そこにはメガメモリー社の本社がある。今や私の中には、サイトウ博士の技術の全貌と、メガメモリー社の犯罪の証拠が入っていた。
本社のシステムにハッキングし、すべての情報を公開する。記憶を商品化し、人々を操作してきた彼らの悪事が世界中に拡散されていく。
数日後、メガメモリー社は崩壊。記憶売買の闇市場も一掃された。裏社会で出会ったラッツは、実は私を見守る潜入捜査官だったことが判明。マキムラの情報も、私を正しい道へ導くための仕掛けだった。
再び桜の木の下に立つ。風が吹き、花びらが舞う。
「約束を果たしたよ、サトル。でもこれで終わりじゃない」
私は彼の遺志を継ぎ、記憶技術を正しく使うための財団を設立することを決意した。感情と記憶が持つ本当の価値を守るために。
私の名はコハク。半分はAI、半分は人間の感情を持つ存在。過去の記憶を大切にしながらも、これからは自分自身の物語を紡いでいく。
夕暮れの都市に、新しい時代の光が差し込んでいた。
あとがき:『琥珀の記憶』を書き終えて
皆さま、『琥珀の記憶』を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今回は「記憶」と「感情」をテーマに、AIと人間の境界線を探る物語を描きたいと思いました。
私自身、AIテクノロジーの進化に魅了されつつも、「人間らしさとは何か」という問いに常に立ち返っている者として、コハクというキャラクターには特別な思い入れがあります。彼女は技術的な存在でありながら、深い感情を持つ矛盾の中で生きています。それは現代を生きる私たち自身の姿でもあるのかもしれません。
執筆中に最も苦労したのは、近未来都市の描写です。退廃的でありながらもどこか懐かしさを感じさせる景色を表現するため、実際に夜の都会を何度も歩き回りました。雨に濡れたアスファルトに映るネオンの光が、物語の重要なインスピレーション源になっています。
記憶売買という設定は、現代のデータビジネスへの不安と、思い出が持つ価値への考察から生まれました。皆さんも「この思い出はいくらで売れるだろう?」なんて考えたことはありませんか?私は幼い頃の誕生日パーティーの記憶はプライスレスだと思っています...でも初恋の失敗談なら喜んで無料であげますよ!
実は当初、この物語はハッピーエンドではなく、もっとダークな結末を予定していました。しかし書いているうちに、コハク自身が「私には希望が必要だ」と語りかけてくるような不思議な体験をしました。創作とは本当に奇妙なものですね。
桜の木のシーンは、実際に私の祖父が残してくれた古い写真から着想を得ています。時を超えて繋がるという意味では、サトルとコハクの物語は私自身の経験とも重なっているのかもしれません。
次回作では、記憶をテーマにしつつも、また違った角度から物語を紡いでいきたいと考えています。もしかしたらコハクの新たな冒険が始まるかもしれませんよ。
最後になりましたが、いつも応援してくださる読者の皆さんがいるからこそ、このような物語を書き続けることができます。皆さんの記憶の片隅に、この物語が琥珀のように美しく保存されていたら、これ以上の幸せはありません。次回作もどうぞお楽しみに!