吸血鬼令嬢は聖女の血を吸いたい
【プロローグ】
吸血鬼は血を吸う生き物である。そして私は吸血鬼の中でも高貴な家柄の令嬢、リリス・フォン・ノスフェラトゥ。となれば当然、飲むべき血も高貴であるべきだろう。
そう、例えば――聖女の血など。
「聖女セラフィーナ!」
私は教会の回廊を歩く彼女の前に堂々と立ち塞がり、胸を張って宣言した。
「血を吸わせなさい!」
聖女セラフィーナは静かに私を見つめ、そして驚くほどあっさりと微笑んだ。
「あら、いいですよ」
……え?
思わず目を瞬かせた。なんだこの拍子抜け感は。もっとこう、「恐れ多いことを!」とか「悪しき吸血鬼よ、退散せよ!」とか言われるかと思っていたのに。
「本当に?」
「ええ、こちらへどうぞ」
セラフィーナは私を招くと、教会の奥へと導いた。神聖な雰囲気の漂う一室、中央のテーブルには、銀のトレイに乗せられたグラスが置かれている。
「こちらが聖女の血です」
そう言って彼女が差し出したのは――赤く透き通った液体。
私はゴクリと喉を鳴らした。これは間違いなく、最高級の血……! 何しろ聖女の血なのだから!
私はグラスを取り上げると、優雅に微笑んだ。
「ふふん、人間の血とはこうあるべき――」
ゴクリ。
喉を通る滑らかな感触、芳醇な香り、広がる深い味わい。なるほど、これが聖女の血……確かに格別だ。
しかし、ほんの数秒後。
「――って、酒じゃないの!!」
思わず叫んだ。これは血じゃない、ワインだ!!
「まあまあ、おいしいでしょう?」
セラフィーナは優雅に笑う。
「なっ……騙したわね!?」
「いえ、騙していませんよ?」
彼女はくすくすと微笑みながら、グラスを傾ける。
「これは『聖女の血』と呼ばれるワインです。わたくしの血と思えば、心の中では本物になりますよ?」
「ならないわよ!!」
「でも、リリス様はうっとりした顔で飲んでいましたよ?」
「ぐぬぬ……!」
悔しい。確かに美味しかったが、そういう問題ではない!
「そんなに気に入ったのなら、またいつでも飲みに来てくださいね?」
「私は本物の血が飲みたかったの!」
そう叫ぶ私をよそに、セラフィーナは楽しそうに微笑む。
こうして、私と聖女の奇妙な関係が始まったのだった――。
―――
【聖女の血】
またしても、私は教会の門をくぐった。
目的はただ一つ。聖女の血を吸うこと――もとい、飲むことだ。
「聖女セラフィーナ!」
私は廊下を優雅に闊歩しながら、彼女の名を呼ぶ。まるで王が家臣を呼びつけるかのように。
しかし、当のセラフィーナはいつも通り穏やかな微笑みを浮かべ、手を合わせた。
「あら、リリス様。またいらしたのですね」
「ええ! 今度こそ本当の血をいただくわ!」
先日、私は完全に騙された。いや、セラフィーナ本人は「騙していません」と言い張っていたが、あれは明らかに詐欺のようなものだ。血と言いつつワインを出すなんて、そんなの詐欺ではないか!
「聖女の血などと誤解を招く呼び方をするのが悪いのよ。だから、今日はちゃんと本物をいただくからね!」
そう息巻く私に、セラフィーナは微笑を崩さないまま、優雅に手を差し伸べた。
「はい、どうぞ」
……え?
私は思わず硬直する。
「えっと……なに?」
「私の手首ですよ?」
確かに、彼女の透き通るような白い手首が目の前にある。まさか、本当に吸わせるつもりなのか?
「え? いいの?」
「ええ、リリス様が望むのなら」
聖女の血が飲める。これは願ってもないチャンス――なのに、なぜか私は急に落ち着かなくなった。
いや、待て。本当に吸うのか? こんな純粋無垢な聖女の血を?
「……ちょっと待って」
「どうしました?」
セラフィーナは相変わらず微笑んでいるが、こちらは内心、大混乱だった。
「いや、その、なんか……本当にいいの? 痛くない? あと……その……」
「痛くはないと思いますよ? リリス様の牙は鋭いですから、一瞬です」
「……」
なんだろう、この罪悪感は。
私は吸血鬼だ。血を吸うのは本能だし、何も悪いことではない。なのに、目の前の聖女があまりにも無防備に「どうぞ」と手首を差し出してくるものだから、どうにも気が引けてしまう。
「……いや、今日はやめておくわ」
私はそっと彼女の手を押し戻した。
「まあ、残念ですね」
セラフィーナは肩をすくめると、にこりと笑った。
「では、代わりにこちらをどうぞ」
差し出されたのは――ワインの入ったグラス。
「……結局、これじゃない!!!」
「ふふっ、でもおいしいですよ?」
悔しい。すごく悔しいが、結局私はそのワインを飲んでしまった。
「そのうち、ちゃんと吸うんだからね!」
そう宣言する私を、セラフィーナは相変わらず穏やかに見つめていた――
―――
【夜這い】
月明かりが教会の塔を照らし、静寂が辺りを包んでいた。
吸血鬼といえば、獲物の寝込みを襲うのが流儀である。
ならば、私――リリス・フォン・ノスフェラトゥも、それに倣わねばなるまい。
昼間の正々堂々とした交渉では、結局またしてもワインを飲まされて終わった。これは由々しき事態だ。誇り高き吸血鬼がワインなどに誤魔化されていてどうする!
だから、こうして夜更けの教会に忍び込んだのだ。
音もなく、セラフィーナの私室の扉を開ける。
室内は静かだった。
月明かりの下、聖女は無防備に眠っている。規則正しい寝息を立てる姿は、まるで聖母のように穏やかだ。
……こんなに隙だらけでいいのかしら?
いや、むしろ都合がいい。今度こそ、誰にも邪魔されずに聖女の血を――
私はそっとベッドに近づき、彼女の首元に顔を寄せた。白くなめらかな肌が、暗闇の中でも輝いて見える。
美しい――
いや、違う違う! そんなことはどうでもいい! 今は血を吸うことが目的なのだから!!
私は静かに息を整え、いざ牙を立てようとした――その瞬間。
「んぅ……」
突然、腕が伸びてきた。
「!?!?」
抱きしめられた。しかも、ものすごい力で。
「え、ちょ、何――」
身を引こうとするが、まったく動けない。見た目に反して、驚くほどの腕力だ!
「ラッシー……いいこいいこ……」
セラフィーナが微笑みながら、私の頭を撫で始めた。
「……こいつ、寝ぼけている!!」
何がどうなっているのか分からないが、少なくとも私は今、完全に捕まっている。
「ふふ……いいこ、いいこ……」
いや、違う! 私はラッシーじゃない! そもそもラッシーって誰!?
「ちょっ、セラフィーナ! 起きなさい! 離しなさい!!」
もがくも、彼女の腕は鋼のように強く、どうにもならない。まさか聖女にここまでの力があるとは――
「ん……ふふ……かわいい……」
「かわいくない!!!」
「……すぅ……」
抱きしめたまま、再び寝息を立て始めるセラフィーナ。
私はその腕の中で、ただただ硬直するしかなかった。
……これ、朝までこのままなのかしら?
なんという屈辱。吸血鬼として、こんな失態があっていいのか!?
次こそは、絶対に吸ってみせる――!!
私は聖女の腕の中で、密かに復讐を誓ったのだった。
―――
【朝チュン】
気がついたら、私は朝の光の中にいた。
天井が白い。あれ、こんな天井、私の屋敷にはあったかしら? いや、ない。つまりここは――
「……教会の、部屋……?」
寝起きのぼんやりとした頭で状況を整理しようとする。が、すぐに違和感に気づいた。
「……なんか、あったかい……?」
柔らかい布団。心地よい温もり。そして――
「……え?」
腕が、絡みついている。
がっしりと。いや、むしろぎゅうぎゅうに。
「!!?」
飛び起きようとして、動けないことに気づく。
セラフィーナの腕が、まだ私を抱きしめたままだから。
「……」
状況を思い出す。
夜、忍び込んで、血を吸おうとして、逆に捕まって……
「……私、寝たの!?」
まさかの展開だった。吸血鬼が獲物の寝込みを襲ったはずが、逆に抱きしめられ、しかもそのまま寝落ちるなんて!
そんな間抜けな吸血鬼がいるか!!
私はこの世でもっとも尊厳を損なった気分で、ゆっくりと顔を上げる。
目の前に、聖女の寝顔。
「……」
近い。ものすごく近い。
聖女セラフィーナは穏やかな寝息を立て、幸せそうな顔をしていた。昨夜の出来事など覚えていないのだろう。
「……くっ」
自分の失態が悔しい。でも、どうにかして抜け出さないと――
私はそっと腕を引き抜こうとした。が、そこで問題発生。
「離れない……!?」
まるで鉄の枷のように、聖女の腕ががっちりと私を拘束している。
「ちょっと、セラフィーナ! いい加減、起きなさい!」
小声で囁くが、彼女は微動だにしない。
むしろ、ぎゅっと腕の力を強める始末。
「ん……ラッシー……」
「だから、ラッシーって誰よ!!」
私は頭を抱えた。
……これは、もう一度寝るしかないのか?
朝の光が柔らかく差し込む部屋の中で、私は吸血鬼としての誇りがどんどんと削られていくのを感じていた――
―――
【おはよう】
このままじっとしていても埒が明かない。
そうだ、むしろ今こそチャンスでは?
せっかくこうして抱きしめられているのだ。つまり、首筋はすぐそこ。わざわざ動く必要もなく、自然な流れで血を吸える。これはもはや天啓では?
「……ふふ、私を捕らえたのが運の尽きね……」
私はそっと顔を寄せた。
セラフィーナの滑らかな肌がすぐそこにある。首筋は柔らかく、まるで吸ってくださいと言わんばかりに無防備だった。
ああ、今度こそ本物の聖女の血が――!
そう思った、その瞬間だった。
「……ん?」
ふと、違和感を覚えた。
――目が合った。
「……おはようございます、リリス様」
セラフィーナが目を覚ました。
「!!?」
私は凍りついた。
しかも、まずい。めちゃくちゃ近い。
唇が、あと数センチで触れてしまいそうな距離。
「えっ、あっ、違っ、えっと……」
私の頭は一瞬でパニックに陥った。吸血鬼の威厳も何もあったものではない。
「リリス様……?」
セラフィーナが、ゆっくり瞬きをする。その仕草があまりにも無防備で、清らかで――
「…………!!!」
駄目だ、顔が熱い!!
「な、なんでもない!!!」
私は勢いよく身を引こうとした。が――
「……ふふ」
彼女が微笑んだ。
「リリス様は、朝からとても情熱的なのですね?」
「ちがーーーーーう!!!」
私の叫びが、朝の静寂を破った――
―――
【ラッキースケベ】
私は勢いよく飛び退こうとした。が、ここでまた問題発生。
セラフィーナの腕がまだしっかりと私を抱きしめたままだった。
つまり――
「えっ、ちょっ――!?」
バランスを崩し、そのままベッドの上に押し倒される形に。
「……」
「……」
「……あら?」
「いやいやいや!! なんでこうなるのよ!!」
私は焦って身を起こそうとするも、聖女は相変わらずのんびりとした表情で私を見つめていた。
「リリス様、そんなに慌てて……もしかして、本当に私の血を?」
「えっ!? いやっ、それは、その……!!」
「ふふ……」
セラフィーナは、どこか楽しそうに私を見つめる。
そして、ふと私の髪に手を伸ばすと、優しく梳くように撫でた。
「……リリス様は、本当に可愛らしいですね」
「!?!?!?」
なぜだろう。聖女の言葉が、無駄に心臓に悪い。
「……な、なんなのよ……!?」
私は完全に混乱していた。
血を吸いに来たはずなのに、なぜ私はこんなに追い詰められているのか。
「……ふふ、本当に愛おしいです」
そう言って、セラフィーナは私の頬にそっと手を添えた。
「!?」
この距離でそんなことを言うな!!!
「ちょ、ちょっと!! 何言ってるのよ!!」
「私の血が欲しいのでしょう? なら……」
セラフィーナは首筋を見せるように、ゆっくりと髪をかき上げた。
「……どうぞ?」
静かに囁かれたその一言が、まるで甘い罠のように響いた。
「……っ!!」
私は、ごくりと息を呑む。
今度こそ、本物の血を吸える……!
でも――
「……っ」
妙な戸惑いが胸に渦巻く。
「……どうしたのですか?」
セラフィーナが優しく問いかける。
私は、それに答えられず――ただ、その場で硬直することしかできなかった。
―――
【脱出……できない!?】
「……どうしたのですか?」
セラフィーナが静かに問いかける。その声音はまるで幼子をあやすように優しく、温かかった。
私は唇をかみしめる。
目の前には、無防備にさらされた首筋。吸血鬼としての本能が、そこに牙を立てろと囁いている。
――なのに。
「……」
なぜだろう。今までなら、迷いなくいけたはずなのに。
「リリス様?」
セラフィーナが、ふと首をかしげる。その仕草すら優雅で、清らかで――。
「……っ」
駄目だ、なんか吸えない。
「……な、なんでもない!!」
私は勢いよく起き上がった。
そして、そのままベッドから飛び降り、後ずさる。
「リリス様?」
「……っ、今日はこのくらいにしておいてあげるわ!!」
自分でも意味のわからない捨て台詞を吐き、私は窓の方へと向かう。
「まあ……そうですか?」
セラフィーナは、まるで最初からすべてをわかっていたかのような表情を浮かべていた。
その顔を見るのが、なんだか無性に悔しくて。
「次こそは……絶対に吸ってやるんだから!!」
そう叫びながら、私は勢いよく窓を開けた。
そして、朝日を浴びてしまい、全力で飛び退いた。
「熱っっっっっっ!!!! これじゃあ帰れないじゃない!」
―――
【どうしよう】
「くそっ……! なんで朝になってるのよ!!」
完全に失念していた。いや、もともと夜のうちに帰るつもりだったのだ。そもそも血を吸って、さっさと退散するはずだったのに――。
「……ふふ」
後ろから、柔らかい笑い声が聞こえた。
「……何が可笑しいのよ!」
私は振り向きざまに詰め寄る。
そこには、やはり余裕たっぷりのセラフィーナがいた。ベッドの上で優雅に微笑みながら、私の狼狽を楽しんでいるように見える。
「いえ……やはりリリス様は可愛らしいなと思いまして」
「可愛くない!!」
なぜか最近、この聖女はやたらと私を「可愛い」と評してくる。そのたびに、なんとも言えない敗北感を味わうのはなぜだろう。
「それより、私はどうすれば……」
私は腕を組み、窓を睨んだ。
外は明るい。吸血鬼である私がこのまま外へ出るわけにはいかない。かといって、この教会に留まるのも……
「……泊まっていきますか?」
「は?」
「朝日が落ちるまで、わたくしの部屋でお休みになっては?」
セラフィーナは、まるで「当然でしょう?」と言わんばかりに穏やかな表情で私を見つめた。
「なっ……!?」
私は言葉を失った。
吸血鬼が、聖女の部屋に泊まる――? そんな不名誉なことがあってたまるか!!
「遠慮するわ! っていうか、そもそも私はここに寝泊まりするつもりじゃ――」
「では、日が落ちるまでこの部屋にいてください」
「……」
「大丈夫ですよ、逃げたりしません」
そう言いながら、セラフィーナはベッドをぽんぽんと軽く叩いた。
その仕草が妙に優しげで、私はぐっと言葉に詰まる。
「……っ」
逃げるわけにはいかない。
かといって、ここにずっと突っ立っているのも馬鹿みたいだ。
仕方ない、ほんの少しだけ……
「……そ、そこの椅子で休ませてもらうわ!」
私は強引にそう宣言し、部屋の片隅にあった椅子にどかっと腰を下ろした。
「ふふ……ごゆっくり」
セラフィーナは微笑みながら、優雅に紅茶を淹れ始める。
私はそれを横目で見ながら、なんとも言えない敗北感を覚えていた。
……本当に、次こそは絶対に血を吸ってやるんだから!!
―――
【初めての……】
部屋の中は静かだった。
窓の外はまだ昼間で、私はここから出ることができない。仕方なく椅子に腰掛け、腕を組んでいたが、なんだか落ち着かない。
ふと視線を向けると、セラフィーナは相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。ベッドの上に座り、私を見つめている。
「……何よ」
「いえ。リリス様がまた血を吸いに来るかと思いまして」
「っ!!」
ドキリとする。
「べ、別にそんなつもりは……」
「そうですか?」
セラフィーナは首をかしげる。
その動作がやけに無防備で、視線が首筋へと吸い寄せられた。白くて、滑らかで、まるで誘うような――
「……っ」
駄目だ、意識してしまう。
「……リリス様?」
「……っ、知らない!!」
思わず立ち上がり、そのままセラフィーナの方へと詰め寄った。
目の前には、無防備な首筋。
私は一瞬の迷いもなく、牙を立てるべく顔を近づけ――。
その瞬間。
バランスを崩した。
「あっ――」
「――ん?」
重力に引かれるまま、私は前のめりに倒れ込んだ。
次の瞬間、柔らかい感触が唇に触れた。
「…………え?」
時間が止まる。
私の目の前には、セラフィーナの驚いた顔。
「……」
「……」
数秒の沈黙の後。
「っっっっっっ!!??」
―――
【しかし、逃げられなかった】
私は反射的に飛び退こうとした。
――が。
「えっ、ちょっと……!?」
思い切り抱きしめられた。
セラフィーナの腕が、逃げる私をがっちりと捕えている。
「……あら」
すぐ目の前、聖女は穏やかな微笑を浮かべていた。
「リリス様、そんなに焦らなくてもよろしいのに」
「焦るわよ!! い、いま、ちょっと唇が……!!」
「ええ、触れましたね」
さらりと言うな!
私はなんとかこの状況から脱出しようと身をよじるが、聖女の腕は思いのほか強く、逃れることができない。
「ちょ、ちょっと!! 離しなさいよ!!」
「どうして?」
「どうしてって……!?」
セラフィーナは、ゆっくりと私の頬を撫でた。
「……リリス様が、可愛らしかったので」
「はぁぁぁぁぁ!?!?!?」
私の混乱をよそに、セラフィーナはさらに顔を近づけてくる。
「では、今度はこちらから……」
「は? え、ちょ――」
静かな囁きのあと、唇が重なった。
「……んっ……!?」
ほんの一瞬、軽く触れるだけの優しいキス。
でも、その温もりがあまりにも不意打ちすぎて、私は完全に固まってしまった。
「……ふふ、リリス様。驚かれました?」
「お、お、お、お前……!!」
顔が熱い。頭が真っ白になる。
「……これで、おあいこですね?」
セラフィーナはにっこりと微笑んだ。
私はもう、どうしていいかわからなかった。
―――
【純粋な吸血鬼】
「……きっ、キスは好きな人としかやっちゃダメなのよ!!」
私の叫び声が、静かな部屋の中に響いた。
セラフィーナは少し目を瞬かせたあと、くすくすと微笑む。
「まあ……それは知りませんでした」
「知っときなさいよ!!」
私は顔を真っ赤にしたまま、思わず彼女を指さした。
「そんなの、常識よ!? 何の前触れもなく、軽々しくキスなんかするもんじゃないの! これは――」
そう、これは吸血鬼としての誇りにも関わる問題だ。
キスは、特別なもの。心が通じ合った相手と交わす神聖な行為。
吸血鬼たるもの、その一線を簡単に越えるべきではない。
それなのに、私は今――
「……あら?」
セラフィーナが、面白そうに私の顔を覗き込む。
「では、リリス様にとってキスとは、愛する相手と交わすものなのですね?」
「そうよ!!」
勢いよく頷いた直後、はっとした。
「……いや、そうだけど、そうだけど!! なんでお前が私にするのよ!!」
「それは……」
セラフィーナはゆっくりと微笑んだ。
その笑顔が、いつものように優雅で、穏やかで――でも、どこか含みを持たせているようにも見えた。
「リリス様が、あまりにも可愛らしかったので」
「……!!」
またそれだ!! 何度目だ、この「可愛い」発言!!
「私をからかってるのね!? そうでしょう!!?」
私は思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「いえ、わたくしはただ正直に――」
「もういい!!!」
私は顔を覆い、勢いよく背を向けた。
心臓がうるさい。こんなに速く打つなんて、おかしい。
何よ、聖女のくせに……っ!!
私は深呼吸をする。落ち着け、リリス。これは何かの罠かもしれない。そう、これは聖女特有の厄介な術なのだ。
「……私はもう寝る!!」
「まあ、朝ですよ?」
「吸血鬼は朝に寝るの!!」
私はベッドを奪う勢いで飛び込み、シーツを頭まで被った。
聞こえない、聞こえない。
こんなの、まともに相手をしていたら命が持たない!!
セラフィーナの小さな笑い声を聞きながら、私は強引に瞼を閉じた。
……次こそは、絶対に血を吸ってやるんだから!!
―――
【一緒に】
しばらくの間、布団の中でじっと息を潜めていた。
私は寝る。絶対に寝る。聖女なんて知らない。何も聞こえないし、何も感じない。
――そう、思っていたのに。
「……?」
ふと、微かな気配を感じた。
布団の外から、わずかに空気が揺れる。誰かがこちらに近づいてくる感覚。
まさか、とは思ったが――遅かった。
ふわりと、柔らかな布の感触が増えた。
「っ!?」
私は思わず体を硬くする。
な、なに? まさか、今の音って……。
恐る恐る布団の隙間から覗くと、そこには見慣れた金色の髪があった。
「……え?」
セラフィーナが、私のすぐ隣にいた。
「ええええええええええ!?」
思わず飛び起きる。
「ちょっ、ちょっと待ちなさい!! なんでベッドに入ってくるのよ!!」
「だって、リリス様が眠るとおっしゃったので」
「だからって一緒に寝る必要ないでしょ!!?」
「まあ……そうでしょうか?」
セラフィーナは、微笑を浮かべながら首をかしげる。
「私は、リリス様ともっと親しくなりたいと思っただけなのですが」
「なっ……!!」
さらりと、とんでもないことを言う。
「お、お前な……!! そんなことベッドで言うなんて、それじゃまるで――」
「まるで?」
「……!!」
口が滑りかけた言葉を、慌てて飲み込む。
い、言えるわけがない。そんなの、まるで恋人みたいだなんて――。
いや、そもそも私は聖女の血を吸いに来ただけであって、決してこんな状況を望んだわけでは――
「……リリス様?」
「な、何よ……!!」
すると、セラフィーナがそっと顔を寄せてきた。
至近距離。ほんの数センチ先に、彼女の透き通るような瞳がある。
「愛をささやいてください」
「…………は?」
一瞬、思考が止まった。
「耳元で、そっと」
セラフィーナは微笑む。
それが、あまりにも自然で、あまりにも穏やかで、あまりにも――
「ななななな、何言ってるのよあんたああああ!!!」
私は叫びながら、反射的に布団を頭までかぶった。
「ムリ!! 絶対ムリ!! そんなの恥ずかしすぎて死ぬ!!」
「まあ……?」
「なんでそんな落ち着いてるの!? こっちは瀕死なんですけど!??」
「ふふ、リリス様は面白いですね」
くすくすと笑う気配がする。
こ、こいつ、絶対に私の反応を楽しんでる……!!
「……もう、寝る!!」
「では、わたくしも」
セラフィーナの言葉に、私は布団をギュッと掴み、深く顔を埋める。それでも、完全に耳に入ってきてしまうその声音が、どうしようもなく意識を引き寄せてくる。
「……寝るって、そんな簡単に言うけど、絶対に寝かせてくれないんでしょ?」
心の中で小さくつぶやくものの、セラフィーナの動きが止まる気配はない。しばらくの間、ただ静寂が広がった。私はじっと目を閉じて、呼吸を整えた。
――でも、やっぱり落ち着かない。
セラフィーナの気配が近すぎて、まるで私を試すように感じる。彼女が笑う音が耳に響いて、それがどうしても無防備に感じてしまう。
「リリス様、何かご心配なことがあるのですか?」
その声が、布団の中にまで染み込んできた。
「……ない。」
私は無理やり声を出して、できるだけ冷静に答える。
けれど、セラフィーナが布団の端に触れた瞬間、全身がピリッと反応してしまった。
「……リリス様、少しだけ、お話しませんか?」
その優しい響きが、また心を揺さぶる。私は布団を更にしっかりと巻きつけるが、なぜかセラフィーナは、私の反応を無視してそっと寄り添ってきた。
「だめだ、だめだ……!」
私は心の中で何度も自分に言い聞かせた。こんなことに、絶対に乗ってはいけない。
「でも、リリス様が少しでも安心してくれるなら、私も嬉しいのです。」
その言葉に、どうしても無視できない何かがあった。
セラフィーナの温かさ、やわらかな声。近くにいることの安心感と、それでも彼女が持っている、何か手に入らないものへの欲望。
「……でも、リリス様。わたくしがリリス様に触れると、どうしてこんなにドキドキしてしまうのでしょうか?」
その問いかけに、私は驚くほど速く反応してしまった。心臓が、また大きく鼓動を打つ。
「……っ、あなたは、なんでそんなことを言うのよ!!」
「何か、嫌なことでもありましたか?」
セラフィーナが微笑みながら問いかける。彼女の目は、まるで自分を理解してくれるかのような温かさを湛えている。
その視線に、私はますます動揺してしまう。
「……うるさいわよ、別に何でもない!」
私は布団を被ったまま、まるで子供のように突っ伏した。これ以上、セラフィーナに触れられることが耐えられなくなりそうだった。
でも、セラフィーナの手が再び私の背に優しく触れた。
「――リリス様、お慕いしております」
「へっ?」
―――
【告白】
私はその言葉に、身体が硬直するのを感じた。セラフィーナの手のひらが背中を優しく撫でる。まるでそれが、私の心をほぐすかのように。いや、それがかえって私を焦らせる。
「……お慕い?」
私の声は、普段の冷静さとはかけ離れていた。震えていた。
「セラフィーナが、私を……?」
セラフィーナの優しい声が、まるで耳元でささやかれたように響く。私の胸が、無意識のうちに高鳴っていくのを感じた。
「はい。リリス様に出会ってから、わたくしの心はずっと、リリス様のことでいっぱいです。」
彼女の言葉が真摯で、深い。
私は口を閉ざしたまま、息を詰める。こんなこと、言われてもいいのか?
彼女は私にとって、ただの聖女で、私は吸血鬼――こんな関係が、どうしてこんなに感情を揺さぶるのだろうか。
その答えがわからないまま、私は布団の中で目を閉じて、静かに息を吐く。
「リリス様、わたくしの気持ちに気づいてくださっていますか?」
セラフィーナの声が、また少し強くなった気がした。
「……知らない。」
口をついて出た言葉は、冷たく響いた。
「でも、わたくしがリリス様に対して感じていることは、本当のことです。」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
心の中で何かが弾ける音がした。
吸血鬼である私にとって、感情を持つことは容易ではない。愛情も、欲望も、私は常に自分の中で押し込めてきた。だが、セラフィーナ――この聖女は、私の中にある何かを、少しずつ、確実に、引き出している。
その手が、再び私の背中を撫でる。
「リリス様……」
その声に、私は反射的に振り向きかけた。
だが、間に合わなかった。
セラフィーナが私の顔を、そっと自分の方に向ける。その顔が、ほんの数センチまで近づいてきた。
「……っ!」
私の心臓が、再び激しく跳ね上がった。
「……セラフィーナ、そんなこと――」
言いかけたが、その言葉は口の中で消えていった。
セラフィーナの唇が、私の唇に触れる。その瞬間、世界が静止したかのように感じた。
「リリス様……」
彼女の唇が、再び私のものに優しく重なった。
その感触が、今まで感じたことのないほど温かく、心地よく、私の全身を包み込んだ。
「……っ!」
私は目を見開き、体が強張った。だが、セラフィーナはそんな私の反応を気にすることなく、さらにその唇を押し付けてきた。
心臓の音が耳に響く。彼女の手が、私の頬に触れ、顔をそっと引き寄せる。
「リリス様……あなたがわたくしを避けても、わたくしはずっとあなたを――」
その言葉が、私の中で何かを引き起こす。
愛情――それは、私が今まで抱いたことのない感情だった。
私はそれを、理解したくないと思っていた。だが、セラフィーナが私に触れるたびに、それは確実に私の中に根付いてきている。
「だめ……」
私は声を絞り出す。
「……だめ、よ……」
セラフィーナが、少し驚いたような顔をした。
「どうして?」
その目が、私をじっと見つめてきた。
「私は、あなたと――」
その先を言おうとした瞬間、私は再び彼女の唇に触れられた。
今度は、もっと深く。
そのキスが、私の中に渦巻く感情を、さらに強く引き出してきた。
私はどうしても、セラフィーナから目を逸らせなかった。
――私は、どうしてこんなにも動揺しているのだろう。
―――
【私の答えは……】
その唇が離れると、私は思わず息を呑んだ。セラフィーナの顔は近すぎて、私の心臓の鼓動が彼女に聞こえているのではないかと思うほどだった。
「リリス様…」
彼女の声は、まるで私の名前を呼ぶたびに、何かを確かめるようだった。優しく、確信を持ったような響き。
私はその目を避けようとしたが、どうしてもその瞳が私を引き寄せてしまう。あの目が、私の中の疑問や恐れを全て打ち消してしまうような、そんな力を持っていた。
「……私は、あなたを避けられない」
その言葉を、心の中で強く思った瞬間、私はもう、彼女の手を振り払うことができなくなっていた。セラフィーナの温もりが私の中に広がり、心の奥深くで静かに響いた。
「……リリス様」
彼女の声が、私を現実に引き戻す。私はどうしても、今の自分を言葉にすることができなかった。ただ、うなずくことで、私の中の答えが伝わることを願った。
セラフィーナは、私がうなずくと、再び優しく微笑みながら言った。
「わたくしを信じてください、リリス様。わたくしは、あなたをずっと大切に思っています」
その言葉に、私は心の中で何かが解けるのを感じた。そして、それが私自身の感情だと気づいた。今まで隠してきた、あの感情が、私の中にあることを――
「私も、あなたを……」
その言葉が、ようやく口から漏れた瞬間、セラフィーナが私をしっかりと抱きしめた。
「リリス様……」
その声に包まれ、私は思わず目を閉じた。こんなにも深く、彼女を感じたことはなかった。心の中で、私はもう一度確信を持った。
私たちは、きっとお互いに必要な存在だったのだと。
そして、今度は私からセラフィーナに向かって、そっと唇を重ねた。
その感触は、もう私の中で決して消えることのないものとなるだろう。
―――
【エピローグ】
時は過ぎ、あれからしばらくが経った。
私たちは日常を共に過ごす中で、少しずつ、しかし確実にお互いの存在を深く理解していった。セラフィーナは、いつも通り穏やかで優しく、時折私をからかうような仕草を見せることもあったが、それが私にはどこか愛おしく感じられるようになっていた。
「リリス様、また血を吸いたいのでしょう?」
セラフィーナが私に笑いかける。その表情には少し、いたずらっぽい色が見え隠れしている。
「ちょっ、やめなさいってば! それ、もう何度も言わせないで!」
私が顔を真っ赤にして反応すると、セラフィーナはくすくすと笑いながら肩をすくめる。
「ごめんなさい、ついからかってしまいました。」
「まったく……」
私が呆れながらも、つい笑みをこぼしてしまう。どこか、私の中にある堅苦しさが緩んだのを感じる。
「でも、リリス様。あれから本当に変わりましたよね。」
セラフィーナが真剣な顔をして言う。私が見つめ返すと、彼女は少し照れたように微笑みながら続けた。
「最初は血を吸うことばかり考えていたのに、今は……わたくしと一緒にいることを楽しんでくれるようになって」
その言葉に、私は少しだけ戸惑いながらも、でも心の中では確かに感じるものがあった。
「う、うるさいわね……!」
「ふふ、そんなこと言っても、心の中では嬉しそうな顔をしているリリス様が見えますよ」
「な、なんでそんなこと……!」
「だって、リリス様がわたくしを避けていた頃と、今とではまるで違うからです」
セラフィーナが私の頬を軽くつねりながら、にっこりと笑う。
「ううっ……これだからからかうのが好きなんだから」
「ごめんなさい、でもそれも、リリス様のためですから」
私たちは、再び顔を見合わせて笑い合った。あの時のように、距離を取ろうとしたり、何かから逃げようとしたりしなくなった。
お互いが、少しずつ歩み寄り、そして心を開くことができた証だった。
それでも、セラフィーナは時折、私をからかいながら、何気なく寄り添ってくれる。そういう瞬間が、今の私にはとても心地よいものに感じられる。
「リリス様」
セラフィーナが私を呼ぶと、私は少し不安そうに顔を向けた。
「な、何?」
「わたくしは、リリス様のことをずっと、大切に思っています」
その言葉を、今でも私は何度も心の中で確かめる。セラフィーナの言葉は、いつでも私を温かく包み込んでくれる。
そして、私も同じ気持ちを持っていることに、ようやく自信を持てるようになった。
これからも、きっと二人で歩んでいくのだろう。
そして、あのからかいながらも優しいセラフィーナと、笑い合いながら。
お互いの存在が、これからもずっと、きっと――
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