神話再現
「せっかくだしもう一回するか?」
どうせ事後の片付けをし、服を着ている最中にそれを聞き、心臓が爆発した。私は彼女の方へ振り向いたが、彼女はじっと私の顔を見つめ返すだけだった。
「……しません」
私は彼女を直視出来ず、そっぽを向いて目をつぶって章句をぶつぶつ口ずさんで色欲を排除しようと努めた。
「今悩んだろ」
彼女の声を聞くと、朧気ながら情事の記憶が這い出してくる。彼女の肌が、蕩けて紅潮した顔が勝手に頭に映る。
「悩んでません。修行はおしまいです」
「だってどっちも覚えてないんじゃん。損じゃね?ルベン初めてなんでしょ?」
「少なくとも今はダメです」
駄々をこねるエルケを促して服を着させ、ちょうど足りた銀貨を店員に投げ渡して連れ込み宿を飛び出た。
何処に逃げようと思った矢先の事だったが、玄関先には不審な数台馬車が止まっているのだ。私はまさかと思ったが…。
「子爵家の紋章だ…!」
馬車を見て驚愕し口を覆い隠したエルケはそう呟く。彼女がそう言うならそうなのだろう。
(もう、バレていたというのか)
焦りつつ私は彼女の手を強く握って裏路地に向かい走り出すが、その裏路地からシュンと何かが高速に飛んできた。
それは私の左眼に狂いなく刺さり、ガクリと私の動きを止める。
激痛、激痛、激痛
「あ、あ、あぁああぁあ!!?痛っ!痛い!痛い痛い痛い!!!」
「ルベン!いやァァァ!」
触った感じ、矢の様だった。硬い鏃が私の左眼を潰して刺さっているらしい。エルケは私を抱き締めている。息が、上手く、出来ない。視界が狭い。顔の左側が熱い。ドクドクと涙のように温かい血が顔から顎に、首に、服の中に流れるのが、肌を伝ってるのが分かる。鉄の匂いが鼻腔を支配する。
裏路地の暗がりからゆらりと一人の男が出てくる。矢の撃った後らしいボウガンを携えている一人の男。小綺麗で小太りで私と同い歳らしい見た目の男。
「ルベン!ルベン!しっかり!」
「ぼくが見入った娘に手を出すとは、生臭坊主が過ぎるなぁ」
「そう思わないかい?エルケ……」
小太りの男はヘラヘラと二の矢を装填しつつ笑う。
「もうやめて…ください…貴方の妻になるからやめて下さい」
「何でこのぼくが、このエイマンがお前ら如きの出す選択肢から選ばなきゃいけないんだ!!!!」
彼女の乞いに、エイマンと名乗った例の妾子は癇癪的怒髪天を爆発させ、地団駄を激しく踏んで唾を撒き散らし、怒号を吐く。ワナワナと怒りに震えてるのが、満身創痍の私にも分かる。
「お前は妻に取るし、こいつは殺す。殺す。苦しめてから殺すんだよ!」
「うぶぅぇっ」
エイマンはふぅふぅと鼻息を荒くしてこちらにズンズン駆け寄って、勢いそのまま私の鳩尾を蹴りあげた。胃酸と血、消化不良の酒が混ざった液体みたいなのが吐き出される。息が、更に、出来ない。私は顔を上げることもままならず、その吐き出されたのと、血がボタボタ土に垂れては染みて消えるのを見る事しか出来なかった。
エルケはただ涙を流して恐怖に震え、何も動くことが出来なかった。
「下級坊主風情がぼくのを取りやがって!」
充血した眼を一杯に開き、唾を吐いて増々ルベンの身体中を蹴る。それと同時に馬車から男どもがぞろぞろと集ってくる。
「連れてけ」
ルベンは首に麻縄をかけられて馬車に放り込まれた。
顔は腫れ上がって黒くなったり赤くなったりしており、内出血だらけなのが見て取れた。
野次馬がザワザワと集まるが、悪友兼用心棒らが一喝するとその群れは一瞬で散った。
いつもはこの時間、騎士団が警邏しているはずだが、その日その時刻に限って誰も駆けつけなかった。
子爵領にある黒い館は、エイマン一行が占領していた。地下室があり、屋上があり、窓の無い部屋がある。
ルベンは地下室に連れてこられていた。
「ふぅーっ!ふぅーっ!」
「坊さんよ。これは止血帯って言ってな、本来は軍隊とかで多量出血するのを防ぐ道具なんだってさ」
「でも長時間つけてるとその時間分ほとんど血が回らなくなるから、壊死するんだってさ。怖ぇーよなぁ」
黒い服に身を包んだ若い男達は酒盛りしながら、私が苦しんでいるのを見物している。
「んぐっ…ふーっ!ふぅぅー!んぐむ…」
猿轡は私の抗議を封じる。
「ほら、早くハンドル緩めないとさ、両足首から先が腐っちまうぞ♡」
「ぎゃはははそしたら纏足だな纏足!女装させれば金持ちに売れんじゃねーか?」
確かに、止血帯をつけられてから何十分。足首から先の感覚は痺れを通り越して何も分からなくなってきた。だが、外そうにも今私は……
「ま、手錠してるし無理だろーけど頑張ってなァ」
「性格悪ぃなぁ俺ら。ひひ…」
「よし、飽きたな。次何?」
「ウルシジュース持ってきたぞ」
「あー良いね。もうやるか」
男らは私の顔を掴んで上に向けさせた。
(今度は何を……まさか)
「次はな、漆責めだ。ウルシ科のかぶれる草をふんだんに使ったジュースだよ。たんと飲めよ」
「ただ飲ますだけじゃつまらん、猿轡してるし鼻と耳から飲んでもらうか」
何を食べたら、こんなに非道な事が出来るのか。何を見てきたら、こんな考えが浮かぶようになるのか。ルベンは彼らを同じ人間と思えなくなった。
〘今より汝の敵は魔族に非ず。世は神を畏れぬ国々と会合に満ち満ちている〙
(…こういう、事なのか?)
彼らは悪魔で無く、魔族で無く。だが所業と発想は悪魔より悪魔らしく。魔族より魔族らしくある。倫理観を屑底に埋めてしまった彼らを、無数にいるであろう被害者の為に、奴らに報いるにはどうすべきなのだろうか。
私は死して彼らを末代まで祟り呪う事を決意した。
「きったねーな吐き出すなよ」
「丹精込めて作ったんだぞ」
「罰だ。生爪剥がして、そこに漆をかけてやるよ」
私は激痛につぐ激痛と呼吸困難で、発狂の後またも気絶した。
気づくと私は、鉄と錆の匂いに満ちた狭い空間にいた。
四肢が折り曲げられて、無理やり詰め込まれたような体勢である。上は開いており、青い空が見える。身体中が痛い。息を吸って吐くのも一苦労だ。
(ここは…酒樽?)
「起きたか?生臭坊主。お前ルベンって言うんだな」
私の頭上に、クイマンの顔があった。汗だくで、雫が私に落ちてくる。…何故汗だくなのかは、考えたくもない。口が開けない。開く気も起きない。
彼は酒瓶を少しラッパ飲みしてから口を開いた。
「聞けよ。エルケって本当に良い女だよな。僕の事を生涯愛してくれるってさ、ベッドの上で何度も言ってくれたんだぜ」
「あとさ、あとさ、お前とは金輪際、二度と会いたくないってさ。良かったな」
(……そうか)
主よ。これも貴方様の試練でございましょうか。
「じゃあさ、僕の妻の二度と会いたくないという願いを叶える為にー」
取り巻きの男が木の枝や葉を沢山投げ入れ、鯨油のようなものもかけ始めた。
「火刑だ。僕に喧嘩売った事を地獄で後悔するんだな」
(神よ。私をお赦しください)
マッチを擦って火を灯し、それを数本入れられるとジワジワ燃え始め、ジタバタと本能から来る抵抗するも何も出来ない。折れた手足で、樽の内を蹴って、殴って────
抵抗虚しく、煙の肺への侵入と肌を焼かれる拷問の様な時間が永遠のように続き、また私は意識を失った。
私は目覚めた。深い森林である。大木が並び、草も背丈が高く、そして何より暑くてジメジメしている。
10秒ほど混濁した意識のもと、状況判断に努める。そこで私は、|私が目覚めていることに《・・・・・・・・・・・》異常事態である事を見出した。
(何故私は生きている…!?私は酒樽の中で火に焼かれた筈だ)
(そして…どこも痛くないし、どこにも傷がついていない。脚の先も黒く萎えていない)
『ルベンよ。司祭のルベン』
私はまた、木の影にひれ伏した。そこから天使の厳かな声がこだましたからである。
『汝は確かに、我らが夢を実践し、汝は見事、死すその時も神を捨てなかった。主はまことに、このように主にのみ平伏す者に莫大に報いる』
『汝は確かに火に焼かれて死したが、汝は敵方より遠く離れた地で復活した。汝は預言者であるから、神はこのように特別な権威を与えて下さる』
『進め。汝は敵より離れ、なお前に進んだ。そのまま道を進むが良い』
『汝は救世主なり』
私はただ、この事実が恐ろしくて堪らなかった。私は、聖書の中の救世主と同じ体験をしている。
『汝には主があるのに、何を恐れるのか』
私が挑むのは、この世そのもの他ならない。
『主は汝の道に灯りをつけて下さるのに、何をたじろぐというのか』
深呼吸し、聖句を暗誦して祈り、心に何とか平安を降ろし、ルベンは前進した。泥により薄汚れた法衣と共に進んだ。
(救世主…か…)
と言われても、私は自分が何処にいるかも分からない熱帯雨林の中で右往左往しているのみであった。聖書を読誦しつつ周りを見渡し、脚を動かしてただひたすら前進している。
すると、緑の天蓋に閉ざされた暗闇の向こうに光が見えた。水の音がする。
希望を感じて走り出し、明るみに飛び出してみると、そこは崖であった。崖の向こうには巨大な滝が水蒸気と虹を作って悠々と滝壺へとその帳を下ろしていた。
「主よ………」
私は緩やかな方から崖を下り、川辺に立った。数時間歩いて喉が渇いていた司祭は川面を掬って身体を芯から潤した。
太陽が燦々と陽を恵み、熱を賜ってくれているが、その場は滝壺の水飛沫でまこと涼しさが維持されていた。
それに、何と壮大で美しい光景であろうか。世界にはこんな原風景があったのか。
〘ルベンよ。私は汝に言う〙
〘前に進む意気は見えるが、汝の心の器は、なお悔いと苦しみに満ちている。あの娘を救えなかったからである〙
水面の中、私の後ろに天使が立っているように映り、その像は私に話しかける。
「左様です。私は…私はあの娘らを…マルカとエルケを救えませんでした。」
ルベンの目からは涙がボロボロと落ちて、それは遥か川下に溶け、流されていった。
「主の御使いよ。どうか私に、諸聖人の様な御力を下さいませ。民を護り、罪を働くものを罰する力を。でなければ、私には諸預言者のような働きは出来ません」
ボロボロと涙を流してルベンは天使に振り向いて言った。天使は笑うでもなく怒りでもなく、慈愛をもって諭すような穏やかで暖かい、若干の微笑みをもつ真顔で彼を見下ろしていた。
〘頭を働かせよ。ルベン。汝の経典は偽であるか?〙
天使が右手を掲げると、そこにルベンの経典が飛んできて、勝手にパラパラと頁がめくれていった。
〘これは正真正銘、諸聖の言行、福音の書。主は常に、汝らにしるしを与えて下さる〙
〘全ては汝の次第、汝の意志ありきでしるしは成される〙
〘【言え、天高くある神御国より加護をお与えになる御方は、諸聖人、救世の徒にあまりある程の権威を与えられた。まことに、赦される御方はよき人を愛されて慈悲の止まない(方である)】〙
それは聖書の一説であった。
〘ルベンよ。念じて書を天高く真上に投げよ〙
「はっ…」
天使より第二聖典を返されたルベンは、彼女の言うように天高く真上に放り投げた。
するとそれは刹那、像が曖昧になって露と霧に包まれ、ルベンの手が受け止めた時には白い兎に成り代わっていた。鼻を鳴らして彼の手を舐める白兎は、冬毛であって、決してこのジャングルに居る訳が無いのを見ただけで理解出来た。
〘これぞ神威よ。神の御しるしよ。アァメン。ハレールヤ〙
「アァメン。ハレールヤ………」
白兎は撫でられていると、また露と煙に包まれ、それは第二聖典に戻った。