百三話 命を運ぶ
一瞬、気を失っていたかもしれない。
なにがなんだかわからなくなって、脳がキャパオーバーのパニック状態になり、意識が飛んでいたのか。
最初に認識できたのは、私の頭と顔をその胸の中に抱えている翔霏の服の感覚。
「むぐぐ」
身動きが取れない。
手足を含む体全身が、なにか、重く圧力のある物体で、ぎゅうぎゅうに押されて、がんじがらめになっている。
これは、雪か!
雪崩が発生したんだ!
あの場にいた私たち全員、山肌から滑り落ちた雪の波に、押し流され飲み込まれたのだ!
豹の怪魔の雄叫びと私の大声が、重雪峡の名が示す通りの、何重にも重なる雪の表層を剥がしたのか!?
「翔霏! 翔霏! 大丈夫!?」
とっさの雪崩から私を庇ってくれた翔霏。
結局、いつも私は彼女に守られてばかりだ。
翔霏の胸、おっぱいの間にぎゅうっと耳を押し付ける。
分厚い冬服の向こうに、ほんのかすかに、心臓の脈打つリズムを感じ取れる。
翔霏は生きている。
反応がないということは、気絶してしまったのか。
それとも頭部顔面が雪に囲まれて、喋ることができないのか。
雪の中に閉じ込められてしまったら、人はどれだけ生きていられるのだろう?
わからない、まったく分からない。
かろうじて私は呼吸ができているけれど、これもいつまで続くものか。
「ンギィィ」
私は必死に手をジタバタさせようともがく。
重力を感じている反対方向が地上、いやこの場合は雪上なのは明らかだ。
もがいて、泳いで、動いて行けば、雪から顔を出せるはずだ!
泳ぐのだけは、ちょっと得意だもんね!!
「ふんぐぐぐ!」
動け、私の身体よ、手足よ!
ここで頑張らなきゃ、死ぬんだぞ!
いや、死ぬのは良い。
良くないけど、仕方がない。
人は誰だって、いつかは死ぬからね。
でも、覇聖鳳の死に顔を見られないまま、あのニヤついた憎たらしい顔を記憶から上書きできないまま、地獄に行くのだけはまっぴらごめんだ!
あいつが今死ぬのなら。
私が死ぬのは、その直後でいい!
「覇聖鳳より先に死ぬのは、嫌だーーーーーーーーーッ!!」
全力の足掻きと叫びに、翔霏の体がピクリと反応した。
「もががが! がはっ!」
雪に遮られ、くぐもった響きだけれど、翔霏の声が確かに聞こえた。
口を覆っていた雪を、顔を動かしてどかすことができたのだ。
私たちが被った雪が、軽くサラサラとしたパウダースノー混じりだったのが良かった。
息もできるし、なんとか動けるぞ!
「ぬおおおおおおおおおおおおッ!!」
「ギイイイイイイィィィィィィッ!!」
翔霏と私、唸り声を上げて地表を目指し、必死に手足を掻き回す。
息ができるということは、酸素が遮断されるほど深い雪の層に私たちは閉じ込められていない。
微かな光を目指して。
上へ!
「ぶっは!」
先に顔を出すことができた翔霏が、思い切り外の空気を吸い込んだ声が聞こえた。
自分の周りの雪を掻き分け押しのけ、私が外に出る道を作ってくれる。
「麗央那、良かった、なんとか大丈夫だな……」
続いて顔を出した私に、翔霏が泣きそうな顔で笑いかけた。
グリグリ、モゾモゾ、とおがくずの中から這い出るカブトムシの幼虫のように雪の中から這い出て、私たちは今いる場所と周囲の状況を、迅速に確認する。
さっき覇聖鳳たちと睨み合っていた道から、十数メートルほど、斜面の下に押し流されたようだ。
崖を落ちるような形にならなくて、助かった。
「敵が埋まっているかもしれない。気を付けろ」
「うん」
ズボ、ズボ、と柔らかい雪原に足をうずめながら、私と翔霏は慎重に周囲を確認する。
覇聖鳳も気になるし、敵がどこに潜んでいるかも注意しなければならないけど。
軽螢は、椿珠さんは。
ついでにヤギくんは。
「む」
翔霏が盛り上がってわずかに動く雪を見つけた。
下に人がいるのだろう。
敵か味方か、この段階ではわからないけれど。
「助けてやる。手を出せ」
ぐもも、と小さな声が下から漏れ、片方の手が雪原からにょきっと生えて来た。
逞しい、大人の男の、左手だ。
軽螢でも椿珠さんでもなければ、右手しかない覇聖鳳のものでもない。
「頭はこの辺りか……」
わさわさと雪を除けて、私と翔霏は男の顔を露出させる。
覇聖鳳の近衛兵の一人だろう、名前は知らない。
「お前、神台邑にも後宮にも来てたやつか」
翔霏はその兵に見覚えがあるようだ。
人の顔を覚えるのに強いって、羨ましいな。
「あ、あぁ……わ、悪かった。俺たちは、頭領に言われてやっただけで」
「助けると言ったな。あれは嘘だ」
無慈悲に言った翔霏は、袖の中に仕舞っていて紛失せずに済んだ伸縮棍で。
「えぶっ!?」
ゴギュン! と兵士Aの脳天に、キツイ一撃をお見舞いした。
目と耳と鼻から血を垂れ流し、男はがくんと首の力を失った。
私と翔霏は、二人一緒にいたからこそ、いち早く雪の中から脱出できた。
そのアドバンテージを最大限に活かし、かすかでも雪の下で動くものを、先手で念入りに探し、見つけて、掘り当てて行った。
五人目まではすべて青牙部の兵で、当然、翔霏は全員に打撃を喰らわせ、雪に埋まったまま昏倒させた。
そうしていると。
「ヴァアアア!!」
モゴォ、と重く柔らかい音を立て、雪の中からヤギくんが元気に跳び出してきた。
「あいつ、殺しても死なんのじゃないか」
翔霏が呆れて笑った。
一面真っ白、静寂と殺戮の現場で、足が深く埋まる雪の中を、器用に跳び回るヤギ。
さすが野生、強い。
ヤギくんはある一か所めがけて猛然と向かっている。
ひょっとすると、と思い、私たちもその後を追う。
「メエ! メエエ!!」
そして、必死に雪を掘るように顔や角を雪の中に突っ込んで振り回した。
ここ掘れメエメエか。
ヤギの聴覚と嗅覚はなにげに鋭いので、なにか違和感を察知してくれたんだね。
「……おーい、助けてくれー」
軽螢の声だ!
「ぐ、ぐう。あちこち痛え……」
椿珠さんも、怪我をしているみたいだけれど声を出せる程度には、無事。
良かった。
二人は居場所が近かったから、もつれて絡み合うように雪に流されたのかな。
男同士、抱き合うように雪の中なのかしら。
想像して少し、私は体温が上がった。
はかどったので元気百倍!
「待ってろ、すぐに出してやる」
翔霏がそう言って、ヤギと一緒に除雪に勤しむ。
私もそこに加わろうと、うんしょうんしょと雪に足を取られながら、なんとか進んでいると。
「へぶっ」
雪の下にある硬い異物に足を踏み込み損ねて、バンザイダイブの形でこけた。
大きな石でもあったのか。
そう思って足裏で踏んで確かめる。
太腿程度の太さがある倒木のような感触と、そのすぐ近くに、ごろりと丸い塊がある気がする。
コツコツ、げしげし、と踏んで蹴ってしっかり状況確認。
「俺サマの頭を、蹴るんじゃねえよ」
「うわあ」
覇聖鳳の声が、聞こえたのだった。
それほど深く埋まっているわけではない声の響きなのに、這い出て来ないし、抵抗もしない。
雪崩で押されて運ばれた枯れ木の、下敷きになったのか?
こいつは、雪の中に埋まっているというのに。
片手で這い出て生き延びることは、到底無理だと決まっているのに。
いつもの。
憎たらしいくらいにいつも通りの、私がよく知る、覇聖鳳だった。
翔霏は私たちに気付かずに、軽螢と椿珠さんの救助に集中している。
「よいしょ、よいしょ」
私は覇聖鳳の上半身があるあたりの雪を、せっせと両手で跳ね飛ばす。
覇聖鳳は斜面の上、山側に頭を向けたうつ伏せになるような形で埋まっていた。
胴体部分が倒木の下にあるような位置関係だ。
抵抗できないように、右腕を先ず制圧しようと私が見ると。
「って、折れてんのかい」
覇聖鳳の右手首が、力を失いおかしな方向に曲がっていた。
「とっさに顔を庇っちまってな。木が当たったんだよ」
雪面に這いつくばる間抜けな状態のまま、顔だけ横を向いて。
格好つけたように、シニカルに笑って言うのだった。
覇聖鳳の命が、今まさに、私の手の内にある。
決着は翔霏の武技でも、私の殺意でもなく。
山の、大地の、自然の気まぐれだった。
いや、違うかな。
私たちが、諦めなかったから。
なにがあっても前に進み続けた私たちの気持ちと執念、その積み重ねがあったからこそ、最後に勝利を引き寄せたのかもしれない。
布石としてこいつの左手を奪ったのは、他ならぬ私だからね。
地の利がある覇聖鳳は、冷静であれば昨日から今日へと雪が続く天候を勘案し、雪崩の予測だってできたはずだ。
戦に酔って、私たちとの決着を目の前にして。
ほんの一瞬、わずかなひととき、それが頭から抜けたのだろう。
この結末は運命のいたずらでも、神がサイコロを振った結果でもない。
倒れるべくして、覇聖鳳は私の眼下に倒れているのだ。
はー、ふー、と私は天を仰ぎ、深呼吸をして。
「覇聖鳳」
宿敵の名を呼ぶ。
ありったけの感情をないまぜにして、むしろ親しみすら籠った口調で、改めて声に出した。
私が、こんなところまで来た理由。
私が、今まで生きて来た理由。
その目的である男の、強く雄々しく勇ましく、嫉妬するほどに美しい名前を。
「気安く呼ぶなつってんだろ。賢い振りしていつまで経っても分からねえのか」
覇聖鳳は面白そうに、笑っていた。
ちくしょう、こいつは。
笑いながら死んで逝くのかよ。
悔しいなあ、たまらなく気に入らないなあ。
こんなんじゃあ、勝ったのがどっちか、分からないじゃないか。
だから私はこいつに、あえて一つだけ、情けをかけてやることにした。
生殺与奪が私の手に委ねられていることを思い知らせるために、上から目線で。
「翠さまが舌を噛もうとしたとき、あんたが止めてくれたこと、私、忘れてないよ」
「ああ、おてんば貴妃さまか。怪我人を運ぶのは面倒だから、ああしただけだ。相変わらずやかましく元気にしてんのかね」
つまらなさそうに覇聖鳳は言った。
こいつ、本心から翠さまはタイプじゃないんだろうな。
「翠さま、あのときすでに赤ちゃんがいたんだ。だから今は少し、大人しくしてるかも」
「へっ、言われてみりゃあそんな感じだった。コブ付きの姉ちゃんを人質に持って来るなんざ、やっぱりあの宦官はどこかズレてたな」
懐かしい人の批評を思いがけず聞き、私はつい、笑ってしまう。
重ねて私は述べた。
「連れてった環貴人、いや玉楊さんにも、乱暴しないで良くしてあげてたでしょ。後宮にいるときより、顔色が良かったもん」
「温泉に入った後だったんだろ。俺は誰かさんのおかげであちこち忙しく走り回ってたからな。あの嬢さんの相手はしてねえんだ。どれほどの柔肌だったのかも知らねえ」
下ネタやめろや。
結局、私には覇聖鳳のペースは崩せないようだ。
そうか。
翠さまのことも、玉楊さんのことも、全然気にしちゃいないんだね、あんたは。
それでも。
「それでも私は、そこだけはあんたに感謝してるよ。だから、選ばせてあげる。私からの贈り物。二つ、いや三つに一つ、選んでいいよ」
「なにかくれるのか? 手が折れてるから、持ち運びに手間がかからねえものだと良いな」
大丈夫、と私は優しい目で頷き。
「私の毒串で苦しんで死ぬか、翔霏の棍で楽に死ぬか、このまま雪に埋もれて凍えて、眠るように死ぬか。そのうち一つだけ、好きな死に方を、あげる」
私の言葉に覇聖鳳は少し、黙ったのち。
「そんなちんけな毒じゃあ、死なねえかもしれんぜ。俺サマはいい男だからな」
バカを言って、笑った。
そうか、毒がいいか。
選んでくれて嬉しいな。
ああ、とても嬉しくて、泣きそうだ。
「私の毒が怖くて、腕まで切り落としたくせに。負けず嫌いなんだね」
「これはアレだ。ヤキモチ焼きの嫁に噛みつかれたんだ。激しい女でよ。モテる男は辛いぜ」
「はいはい面白い面白い」
私は笑って服の中から毒串を取り出す。
混乱の中で一本を落としたのか、残り一本になっていた。
でも一本あれば、人間の一人くらいは。
覇聖鳳くらいは殺せるんだよ。
私はふと、覇聖鳳と白髪部の御曹司、斗羅畏さんが一騎打ちをしたときのことを思い出した。
あのとき、斗羅畏さんは、こう言ったはずだ。
「覇聖鳳。なにか言い残すことはある? 仲間にでも、家族にでも、知り合いにでも」
私の最後の慈悲に、覇聖鳳は考える素振りも見せず、即答する。
「いい加減寒いな。今夜は鍋にしろって言っておいてくれや」
「わかった」
適当な覇聖鳳の最期の言葉に、適当な私の相槌。
ああ、完璧に、私たちらしい幕切れだなと思った。
私は両逆手で毒串を持つ。
狙って突き降ろすは、うつ伏せの覇聖鳳が晒す首筋、うなじあたり。
しっかり刺せば、両手が使えない覇聖鳳に、その串を抜くことはできない。
もちろん失敗したって。翔霏にトドメを刺し直して貰えばいいんだけど。
それはなんか、嫌だった。
覇聖鳳を殺すのを、二度も三度もやり直すのは。
もううんざりだと思ったのだ。
「ちゃんと死んでね」
祈るような敬虔な気持ちで。
私は、服の襟から覗く覇聖鳳の首後ろの肉に、体重もかけた全力で毒の串を打ちこんだ。
「ぐっ!」
覇聖鳳は一言だけ苦悶の声を上げ。
その後は次第に、口角に泡を溜め、目を血走らせながら、ブルブルガタガタと強烈に体を震わせた。
しばらくの時間、避けられない地獄の苦しみに包まれ。
しかし泣き言も命乞いも、後悔の一言もなく。
「もう春か……ガキどもを狩りに連れてってやらねえと……」
ここではなく、今でもない、どこか麗かな日の草原を見る、幸せな夢の中。
穏やかに微笑み血を吐きながら、命の灯を消した覇聖鳳。
北方と昂国を股にかけ、多くの人民の心と命を掻き乱した梟雄は、冬の山で静かに冷たくなって行ったのだった。
「あああ、ああああああ、うううう、うああああ」
串を刺した体勢のまま、覇聖鳳の死体の傍らで。
私は言葉を知らない赤ん坊のように、慟哭を上げつづけた。




