番外編1 丸窓扉の不思議な住人
文庫版が発売になった時、告知用に書いたものです。なろうさんには初掲載。
リンドの町の、とある小さな店が閉店したのは、二月ほど前のことだった。
大きな質屋の支店だったその店は、あまり裕福ではない下町の住人たちが日々の暮らしを回していくために、力を貸していた。まるで、彼らの叔父ででもあるかのように。
やがて支店を経営していた主人が亡くなり、しばらくは年老いた妻一人で頑張っていたのだが、とうとう続けられなくなった。妻は支店を閉め、町の東側で本店を経営している息子夫婦のところへ行くことになったのだ。
店は三軒続きのテラスハウスの真ん中だったので、両脇には住民がいる。とはいえ、かつて賑わっていた真ん中の店がシンと静まりかえっている様子は寂しいものだった。
質流れ品が並べられていたショーウィンドーは空っぽ、そこから中を覗くと、カウンターも棚もがらんとしている。建物の裏に回ってみても、真ん中の小さな庭だけ雑草が生い茂り、勝手口の扉には蔦が這い始めていた。
しかし、実はそこにはまだ、住人が一人残っていたのだ。
長い時間の海にたゆたうようにまどろんでいた彼は、ふと目を覚ました。
店の玄関扉に、鍵が差し込まれて回る音がしたのだ。誰かが、この家の中に入ってこようとしている。
(不動産屋かな?)
窓の中で、彼はぼんやりとそう考えた。
彼がいるのは、このテラスハウスの廊下にある、階下への階段に通じる扉の窓の中だ。下町のテラスハウスには似つかわしくない重厚な扉で、様々な動物が彫刻され、クリーム色に塗られている。その扉にはめ込まれた、楕円に近い丸窓の中に、彼は棲んでいた。
(待てよ、不動産屋は数日前に来たばかりじゃないか。じゃあ)
たちまち、彼の意識ははっきりと覚醒した。
(あれが家の様子を点検するためだったなら、いよいよ新しい住人にここを貸す手はずがついたのかもしれない)
にわかに、彼はソワソワとし始めた。
(今度はどんな人が住むんだろう。賑やかだといいな。いろんな話が聞きたいな)
窓の内側から、そっと廊下を覗き、彼は待った。
すぐ左の突き当たりに、廊下から店に出られる中扉がある。その向こうで、外から複数の人が入ってくる足音がした。
「思ったより小さなお店だけど、全然傷んでないわ。素敵」
若い女性の声に、彼の心は浮きたった。
(女の子!?)
「わ、私、厨房を見たい、です」
(えっ、もう一人女の子!? 嘘みたい!)
「お嬢様、玄関は開けたままに。すべての扉を開けて風を通しましょう」
(もう一人はおっさんか……)
不意に、中扉が開いた。
ハッとした彼は、窓に張り付くようにして見つめる。
廊下に入ってきたのは、紅茶のような美しい茶色の髪にすみれ色の瞳をした、まだ十代後半かと思われる娘だった。
彼女は颯爽とした動きで、彼の棲んでいる丸窓扉の前を通り過ぎて奥へ向かう。
「ビー、この奥が厨房じゃない? 勝手口の扉を開けて。私は二階の窓を開けてくるわ」
「はいっ」
同じ年くらいの、黒い巻き毛の娘が後から入ってきて、パタパタと廊下を通りすぎた。紅茶色の髪の娘は、厨房の手前にある階段を二階へと上っていく。彼のいる丸窓扉の上を、足音が通過した。
店の方では木の床が鳴る音がしていて、外から何か荷物を運び込んでいるようだ。さっき、風を通すように言った男が運んでいるのだろう。
お嬢様と呼ばれるような身分の娘が、このような下町のテラスハウスに来ることは、まずない。しかし、新しい住人に胸を踊らせるあまり、そのことは彼の意識の外にすっとんでいた。
(楽しくなりそうだな! 長く住んでくれるといいけど)
興奮しながら様子を見ていると、すぐに二階に行った方の娘が戻ってきた。廊下を歩きながら、店にいる男に声をかける。
「バルトサール、私も荷物を運ぶわ。ちゃんとそういうことも自分でやるようにするから」
店に出て行った彼女は、やがてトランクケースを持って戻ってくると、よたよたと少々危なっかしく階段を上った。二階の部屋に置いたのか、上でゴトンという音がして、すぐに戻ってくる。
「まずは掃除ね。掃除って、どうやるのかしら」
つぶやきながら廊下を通り抜けようとして――
ふと、彼女は彼の方を見て足を止めた。
目が、合ったような気がした。まるで彼が見えているようだ。
彼の心臓が跳ね上がる。いや、人ならざる者である彼に心臓はないのだが、そんな気分になる。
「この扉……何かしら」
つぶやいた彼女は、すぐに続けた。
「ああ、下への階段ね、下に倉庫があるんだったわ。それにしても、素敵な扉」
彼女の指が、扉に彫刻された動物をなぞり、さらに窓にも触れる。
彼はうっとりした。
(うわー、女の子に触ってもらっちゃった!)
まるでお花畑の中にいるような気分になった彼に、彼女は不意打ちのようにこう言った。
「動物たちが、子どもを守っていたのね」
『何で僕に気づいたの!?』
思わず声を上げて姿を現したとたん――
「きゃあ!?」
彼女は向かいの壁に、ビタン、と背中を貼り付けた。
「ゆ、幽霊!?」
彼が(しまった)と思った時には遅く、
「どうなさいましたっ」
店側からはバルトサールと呼ばれた男が、
「お嬢様!?」
厨房からはビーと呼ばれた黒髪の娘が顔を出す。
しーん、と、廊下は静まりかえった。
半透明の上半身を丸窓から突き出してしまった彼は、とりあえず笑顔を作って、頭に手をやった。
『や……やあ。初めまして』
ふらり、とビーがへたりこんだ。
「ゆ、ゆうれい……」
「男の子の幽霊だわっ。ええと、バルト、ここが事故物件だって、ヨルゲンさんに聞いてた……?」
紅茶色の髪の娘が、目を彼に固定したままバルトサールに聞く。ヨルゲン、というのは、ここを管理する不動産屋だ。
バルトサールも彼を見たまま、淡々と答える。
「いいえ、お嬢様。ディーサ殿からも聞いておりません」
『ディーサは気づいてないと思うよ』
彼は気まずい思いをしつつも、言う。
『ディーサって、この間までここに住んでた、質屋の奥さんでしょ。僕、ずっと隠れてたから、ディーサも亡くなったご主人も気づいてないと思う。もちろん、不動産屋もね』
「そ、そう。どうして隠れてたの?」
『不気味がられて、売られたり壊されたりすると困ると思って。……君は気づいたんだね。ええと』
壁に貼り付いたままの娘に、尋ねるような視線を向けると、胸に手を当てて深呼吸していた娘はようやく口元をほころばせた。
「ごめんなさい、びっくりしちゃって。アストリッド・レイグラーフよ、初めまして」
『どうして僕に気づいたの?「動物たちが子どもを守っていた」って』
彼は聞いた。
彼の棲む扉には何匹もの動物が彫刻されており、丸窓に棲む少年幽霊である彼を守っている風に見えなくもない。ただし、彼に気づかなければ、そんな言葉は出てこないだろう。
「ああ、違うのよ」
アストリッドは、さらに笑顔を深くする。
「あなたのいるこの扉、どこか別の場所から運ばれてきて取り付けられたんじゃない? 他の扉と全然雰囲気が違うもの。元々は、どこかの子ども部屋の扉だったのかも、と思ったのよ。そういう意味で、部屋で過ごす子どもを守っていたんだろうって言っただけで、あなたに気づいたわけじゃないの」
『子ども部屋だってことまでわかるの?』
「だいたいこんな扉でしょ、貴族のお屋敷の子ども部屋って」
(この女の子は)
彼は、彼女に目が釘付けになった。
他の全ての存在が遠くなり、視界に彼女だけがいるような感覚になる。
(そうだ、レイグラーフっていう名前にも聞き覚えがある! 貴族だ。この下町に、貴族の令嬢がいる!)
一度気づくと、彼女の歩き方や話し方は令嬢そのものだ。
それは、彼が生前に属していた世界を思い起こさせた。
「で、あなたはどなた?」
アストリッドに聞かれて、彼はようやく我に返る。
『僕はラスムス。ねえ、僕を怖がって出て行かないで! どうせこの窓からは出られないし、迷惑かけないから』
アストリッドは目をキラキラさせながら、バルトサールとビーの顔を見た。
「私は怖くない。わくわくするわ! バルト、ビー、怖い?」
「いいえお嬢様。これまでディーサ殿が何年も暮らしてきたお宅です」
バルトサールは軽く頭を下げ、
「あ……そう、ですね。そうですよね。せっかく見つけた、物件ですし。ううう」
ビーは自分に言い聞かせるように、がくがくとうなずく。
アストリッドは彼らを示して言った。
「バルトサールに、ベアトリスよ。私たち、ここで質屋をやることになったの。仲良くしましょう、ラスムス」
『ありがとう、アストリッド!』
「アスティでいいわ」
にっこりと笑う彼女に、ラスムスはまた、うっとりした。
(こんな可愛くて利発そうな女の子と、一緒に暮らせるなんて!)
こうしてラスムスは、地下の質草倉庫の番をしながら、アスティたちと一緒に暮らすことになった。
今まで自分の存在を隠し続けていたぶん、誰かと毎日のように言葉を交わしながら暮らすことは楽しく、彼はついついおしゃべりになった。
しかし、彼はアスティに聞かれても、自身の素性は口にしなかった。生前はどこで暮らしていたのか、どうして幽霊になったのかも、秘密にしていた。
百年前の彼の過去とアスティが、とある事件で結びつくまでは。