終
「えらく早かったなぁ、覚才」
西連寺に引き返した私を、暦縁は上機嫌で手を振りながら出迎えてくれた。見ると、酒はほとんど空になっているようだった。
「……早いのはお前だよ、暦縁。私が出て行ってから、ほとんど時間が経っていないだろ、酒、ほとんど空じゃないか」
「……う、悪い覚才の分も取っておこうと思ったんだが、つい……」
暦縁が気まずそうに目をそらす。
「まぁ、いつものことだから、別に気にしないけどな」
暦縁相手にいちいちこんな事を気にしていても、きりがないのだ。
「それで、どうだった?覚才。」
「ああ、消えたよ」
そう言うと、暦縁は私の顔をまじまじと見て、
「……そうみたいだな」
そう言った。
「……一つ疑問があるんだが」
「なんだ?」
「お前は、あれが見えるのは私の心が起因している、といっただろう?」
「ああ」
「……しかし、暦縁の説明では、人は個々で物の見方が違うと言うことを言っていたのだろう?今、私は確かにあいつが見えていた。見間違えようが無い。私に心が起因して生み出されたものならば、見えるのは私だけのはずだろう? それなのに何故お前にもあの娘が見えていたのだ?」
私がそう言うと、暦縁は頭を搔き、言いづらそうに
「――実はな、覚才、俺には覚才が見えている「もの」が見えていなかったんだ」
そう、言った。
「は?」
何を、言っているんだ?
「そんなわけがない。……そもそもあいつが私の後ろにいると言うことは、お前が教えてくれたことじゃないか」
「俺は、お前の後ろに眼をやり、「それは、何だ」と問いかけただけだよ」
……は?
――確かに、言われてみれば暦縁は娘の「姿」のことを一言も口にしてはいない。
だが、暦縁は始めから私の背後に眼をやっていた。ならば、少なくともそこに「何か」いることは分かっていたはずである。
私がそう言うと、「違う、違う」と静かに首を振った。
「逆だよ。俺はそこに眼をやっていただけだ。背後に娘がいる、と思ったのは覚才の方だよ。
覚才が私の視線を見て、先に何かいると「思い込んだ」からこそ、背後に娘が現れたんだ。もしも俺が別の方向に視線をやっていれば、別の場所に娘があらわれただろうね」
「む、……なんで、お前、そんなややこしいことをしたんだ」
「……お前、自分じゃ気づいてなかったのかもしれないが、ここに来たときからずいぶんと暗い顔をしていたぞ。前に経を読みに行った時の様にね」
……あの時も暗い顔をしていたのか。
「……普通の問いかけは出来ないのかお前は」
「ん、自分でも分からないような根本的な悩みが原因だったりすることもある」
「根本的な、悩み、ね」
……確かにそうだ。
「暦縁のいうとおり、やっぱり私の問題だった。あの死体を見た時に、心の中で妻のことを思い出したのだろうな」
あの言葉、
そして、死体にかけられた紅い衣。
あれを見、子供の頃の妻の事を思い出し、それが私の前に現れたのだろう。
やはり、心のどこかで後悔していたのだ。
あの時に、素直に好きと言ってやれなかったことを。
「まだお前は、妻の事を忘れられないようだな」
「……当たり前だ、忘れてたまるか」
「忘れても、お前の妻は恨んだりはしないはずだぞ」
「……私が忘れたくないだけだ」
「女々しいな」
「ほっとけ」
――時は、無常か。
妻は、病で死んだ。
仕方のない事だった。誰を恨むべきことでもない。それは私も分かっていた。
が、
私は恨まずにはいられなかった。
神も仏も信じなかった私は、ひたすら時の流れを恨んだ。
無常、時は常に移り変わる。
常にこの世は変わりゆき、とどまることを知らぬものである、生まれるし死ぬ。作って壊れる。
この世でいくら名を上げてもいつかは無くなる。だから私は、修行しようが堕落しようが何も変わらぬと思った。
生きるのが面倒になった。
いやになった。
だから、
自暴自棄に、暮らしていた。
――結局私が一番、無常を感じたくなかったと言うことか。
「暦縁」
「なんだよ」
「さよは、子供の頃から美しかったよ」
「はぁ?」
「お前に見せられなくて残念だったな」
「なんだ、のろけ話か?」
暦縁が呆れ顔で言う
「もちろんだ」
私は、大きく肯定した。
――言って気づいた。
そうか。
私は、初めから妻の事を思い出していたのだな。
なんだ、
暦縁の言うとおり、答えは私の中にあったのか。
ずいと、暦縁に酒を突き出した。
「さ、飲み直しだ、暦縁」
にっこりと笑い、暦縁が私に杯を突き出す。
――こいつは、始めからわかっていたのだな。
思えば、そう。
法要の時に、何でもない、暦縁は般若心経を唱えたのだ。
「ああ」
暗い、月明かりに照らされた老柳の下に、ぼんやりと立つ紅い陰を見た気がした。
それは、にっこりと優しくほほえみ、やがて月夜の闇の中に消えていった。




