四話
「――お前の言う通り、死体は死体だ。それ以外は何の意味もなさないさ。……しかし、その者達の反応もおかしな事じゃない。」
そう言って、暦縁は酒の入った杯を持ち上げた。
「――例えばここに酒がある」
「もしもこれが、お前の憎んでいる人間からめぐんでもらった物だとすれば、どうだ?」
「ぬ、……。そうだな、少しいやな気分になるかもしれない。」
「が、親しい人間がお前の為に汗水垂らして働いて買ってきてくれた物だとすれば、いっそう旨く感じるだろ。」
それは、確かにそうだ。
――そうか、
娘の話にもそれは同じ事が言えるのだ。
「……なるほどな。言いたい事は分かる。確かに。同じ物を見ても、色々な要因が重なって同じには見えない事はあるな。」
「そういうことだよ。……色々なことが重なって、同じ物を見たり味わったりしても、違った印象を受けることがあるんだ。まぁ、俺はどんな渡されかたをされても酒は旨く感じるのだけどな。酒は、酒だ。」
「……それは、実にお前らしいな。」
……要するに、
――私は死体を見て、それを「只の死体」だと思ったが、周りの人間はそうは思わなかったということだろう。
見ている、ということは、ただ見えているだけじゃないということか。
そこに見えている者の思いが加わるのだ。
「ひとりひとり色々な見方があるんだ、特にその娘に懸想していたものは余計に何かを感じたのではないかな。」
――そういえば、手を合わせている人は、若い者ばかりだったな。
「……はは、その通りだよ。暦縁。」
――どうかしていた。
「……それに、覚才、お前は、無常は当たり前の事だ、と言っていたな。」
「ああ、そうだろう? 形のある者は、いつかは壊れる。有る物はいつかは無くなるだろ」
「そうとも言えないぞ」
「……なに?」
――思わぬ言葉に、暦縁の方を見る。
「例えば、あそこに柳が見えるだろう。」
暦縁が指をさす方向に眼をやると、濡れ縁から少し離れた所に老いた柳が生えているのが見えた。
「あの柳は、「有る」のか「無い」のか、どちらだと思う?」
妙な質問だ。
何が言いたいのだろうか?
「当然、有るんだろうな。見えるし、触れられるんだから。」
「じゃあ、あの柳に俺が火を放って燃やして灰にしたとすると、有るのか無いのかどちらだろうか?」
「無い、のだろう。灰にしたのだから。」
「じゃあ、燃えている途中では?」
「まだ、…有るの、かな。」
「ふうん?」
暦縁はにやりと笑った。
「なんだよ。」
「じゃあ、いったい柳はどこで「無く」なっているんだ?」
え?
…どこで?
「それは、灰になった時から…」
「灰」はいつから「灰」になるんだ? そして、何故、灰になったら無くなったと言えるんだ?姿を変えても柳は柳だぞ。」
「…それは、燃えた後の物は「灰」という名前がつけられて柳とは別の物になるからだろ」
「それはおかしいな。「灰」という「名前」は人が後から名付けた物だよ。物自体は姿形は変わるだけで結局は一緒のものだ。初めの物が柳なら、燃え尽きても柳だろう。」
「…む。じゃあ、柳は姿を変えても無くならないってことか?」
「それもおかしい。そもそも、お前は見て触れられる者を「有る」と言ったんだろ?」
「ま、それはそうだが。」
「じゃあ、一体どこまでが柳があってどこまでが柳が無いのだろうか?」
そう言われてみれば、
私は、有る、と言う事を何を基準に決めていたのだろうか。
漠然として、有る物は有る、無いものは無いと考えていたのだが、改めて聞かれると分からなくなる。……それに、私は灰になれば柳は無くなると言ったが、それこそ個々で差が有る考え方だ。そう、もしかすると姿を変えようが柳は「有る」と言う人もいるかもしれない、考え方によって、有ると定める物には個人差が出てくるだろう。
では一体、「有る」と言うのはどういう事なのだろうか?
……。
「……降参だよ、暦縁。どういう事なんだ?」
「簡単だよ。前提が間違ってるんだ。有るとか無いとか、そんなことを決めているのは全部、頭の中だということだよ。」
「頭の……中?」
「そうだ、ここには、本来たった「今」しかないだろ。だから未来というのも無いし、過去というものも無い。しかも、「今」と言うものも、「い」と言った瞬間にすでにそれは過去になっている。有るとすれば、ここ」
暦縁は自らの頭を指さした。
「過去はここにしかない。事実はこの一刻一刻でしかないのに、頭の中で過去があったという思いをひきずっているんだ。」
「……柳が「変わった」と考えているのは頭の中だ、と言うことか」
「ああ、そういうことだよ。柳が灰になった、と考えるからおかしくなるんだ。過去はもうすでに無くなっているだろ。ならば今ここにあるのは灰だけだ。なのに、柳が灰に「変わった」と考えるから混乱するんだろう?移り変わったのではない。灰は灰になった瞬間には灰でしかなくなる。「柳だった灰」と考えているのは頭の中だけだ。」
「……む、」
「どうだ、そうなれば、移り変わっているというのはおかしいだろ。「今」しかないのだから、移り変わりようがない。無常という考えも、頭の中で作り出しただけのことでしか無い。ここには、たった今、眼で見て、耳で聞いて、鼻でかいで、したで味わい、体でふれたものしかない。これを頭で、有るとか無いとか、変わったとか言っているだけなんだ。たった今、五感で感じたことしか事実は無いのにも関わらずな。もしもこれら五感が無くなれば、この世は無いのと一緒だよ。」
「……それは、少し突飛な考えじゃないか……?」
否、そうでもないのか。
――この世が有る、と思っていることすら、そもそも私の考えだ。
もしも私が眼で見ることも出来ず、耳で音を感じる事も出来ず、鼻でにおいをかぐ事も出来ず、体で触れることも出来なければ・・・
そもそも、この世を認識することすら出来ない。
認識出来なければ、無いのと同じ。
「だから、無常で苦しむ、ということも実は、自分の頭の中で考えたことを自分自身で苦しめているだけなんだ。」
……確かに、ここには「今」しかない。老いるとは、過去というものを頭の中で作り出し、それを比較するからこそ生まれる考え方だ。
老いること、そして、男の心が変わっていくことを恐れた娘。
それは結局、自分で自分を苦しめていただけなのか……




