1-7 ゾンビとなった人間、そしてピーコとの連絡
「あ、俺はケガの手当てに使えそうなもの探してきます」
俺がそう言うと金髪の男性が身を乗り出す。
「なら、俺が……」
「あなたはバリケードを作りながらそっちの男性……味野さん? の様子を見てください、念のため」
その場を動こうとした沢崎に俺はそう言った。
「ああ、わかった」
その言葉で俺が噛まれた社長を警戒している事を察したようだ。感染の疑いがあるにもかかわらず、店内に置いてもらっている手前沢崎はそれ以上なにも言わず味野が椅子に座った事を確認してから、沢崎は彼の隣にある椅子に座った。
手当てに必要なものを探すと沢崎に言った以上不審がられないよう一応店内を探す事にする。まずはカウンターからだ。
警戒は怠らない。味野の様子をうかがいつつ手近なところにある武器になりそうなものを見渡す。
レジは使えなくはないがリーチが短すぎる。コーヒーミルも同じだ。
「う、ぐぅ……!」
「社長ッ!」
慌てて沢崎がうめき声をあげる味野に声をかけ、二人とも不安げな様子になる。
だが俺は冷たい目で彼らの様子をうかがっていた。痛みに苦しんでいるのか、それとも別の何かが彼を襲っているのか。つまりはゾンビになるのか冷静に分析していた。
彼らがどうなろうと俺の知ったことではない。現状を打破する行動をするために必要な情報さえ手に入ればそれで十分だ。
俺を善良な人間と信じているクーにも、真理恵さんにも、咲桜先輩にも、ピーコにもこんな自分は見せられない。同じこちら側の人間……銀二ならばあの小悪魔のような笑みを浮かべるだろうが。
「ちなみに噛まれた時間はいつぐらいですか?」
俺はそんな質問をする。ゾンビ映画によってはすぐにゾンビになるものや、1日かかるもの、様々なパターンがある。あくまでもフィクションだが。
俺の中では味野は既に観察対象以外の何物でもなかった。聞き出せるだけ情報は聞いておきたい。
「いつかはわからないが大体1時間前じゃないか? 必死で逃げたからものすごく長く感じたけどな」
沢崎は俺と社長の様子を交互に伺いながら言うと、
「ああ、確かそのくらいだ。ニュースによるとゾンビになる時間差はばらつきがあるらしい。そしてまれにゾンビにならない人間もいるようだ。私もあんなのにならないといいんだが……」
社長の言ったセリフに俺は少し驚くが、実際感染症というものはそういうものだろう。
いや、これが感染症なのかどうかはわからないが現実の病気というのは感染しても発症しない人間や、死なないものもいるのが普通だ。一般的にゾンビウィルスは感染率100%、致死率100%だが彼はかなり重要な事を言った。しっかりと覚えておこう。
ただまれに、とも彼は言った。あまり期待せず大前提として噛まれないように細心の注意をしたほうがいいだろう。
そして俺はカウンターを調べていると半透明のプラスチックケースで出来た救急箱を見つける。引き出しを開け包帯を取り出すと俺は彼らのもとに歩いて適当に渡した。
「見つけましたよ」
「ああ、助かる」
これで手当ては可能だ。しかし衛生的にも出来れば血に触りたくない。どの程度の感染力かはわからないが……俺がそんなふうに悩んでいると察した沢崎が言った。
「手当は俺がやるよ」
「ああ、はい。じゃあ俺は厨房でサバイバルに使えそうなもの探します」
俺はそう言うと厨房に向かった。これは半分建前だが半分は事実だ。
折角なので厨房の様子を見てみる。明かりは消え暗闇の中手探りで探してみたが、作り置きの料理のカレーはほんのり変色し、炊飯器の米はカチカチになり、冷蔵庫の葉物野菜は少ししなびて、冷蔵庫の氷や冷凍食材は全て溶け得体のしれない液が扉の下の隙間からこぼれていた。
今の俺の飢えをこれで満たす事は出来るがとても飲み食いしたくなかった。そこまで切羽詰まっている状況ではないし、おそらくこれらの食物を摂取すれば食中毒になり俺の生存を格段に困難にする事だろう。
よく見るとテーブルにはうっすら埃も積もっている。一週間ほったらかしならこんなものなのだろう。なんとなくだが本当に時間が経過したのだと受け入れる事が出来た。
さて、使えそうなものを探そう。食料はほぼ全滅だ。今必要なのは武器だろう。すぐそこにゾンビになるであろう人間がいるのだから。
すぐ目の前、シンクにあるのはフライパンと包丁だ。どちらも武器にはなるが使い勝手は少々悪そうだ。
ほかに使えそうなものを探そう。俺はいったんその場を離れより使えそうなものを探そうとした。
「がああああッ!!」
だが、そんなふうに悩んでいると突如悲鳴が聞こえてくる。すぐに沢崎も叫んだ。
「社長ッ! 社長ッ!」
俺は即座に走ってシンクに戻り文化包丁を手に取る。店内に戻ると血走った目の社長が満面の笑みをしながら大きな口を開け沢崎を押し倒していた。
沢崎は必死で押し戻そうと抵抗し、すぐにこちらに視線を移すと俺の右手に握られた包丁に気が付いた。
「待て、殺さないでくれッ! 社長はゾンビじゃない、病院とかで治療すればッ!」
沢崎は俺にそう叫ぶ。だが味野がゾンビらしきものになっているのは火を見るよりも明らかだった。
「自分と社長さん、どっちが大事なんですか。あなたもこうなりますよ」
「社長だよッ!」
彼の弁明に対し冷たく言い放った俺に何の躊躇もなく――沢崎はそう言った。今まさにその社長によって命の危機に瀕しているというのに。
「社長は前科者のろくでなしの俺を雇ってくれたんだッ! 俺が何度社長を裏切っても社長だけはこんな俺をクビにせず雇ってくれたんだッ! だから……頼むよ……ッ!」
彼は涙目で必死で命乞いをした。自分ではなく尊敬する社長のために。
二人は上司と部下なのだろう。それ以外はどんな関係性なのかはわからない。どんな人生を歩いてきたのか俺が知る由もない。だが彼にとって社長は自分の命よりも大事な存在なのだと理解出来た。
「ウウッ!」
「痛ッ!」
味野は唸り声をあげ沢崎の首筋に勢いよく噛みつく。食い千切られこそしなかったが血が噴き出て沢崎は悲鳴を上げ苦悶の表情を浮かべる。なかなかにショッキングな光景だが俺は特にどうとも思わずその事実だけを確認した。
「くそ……ッ!」
沢崎は抵抗すると社長を抱くようにして横に体を転がし、その際先ほど彼が使ったラチェットスパナが音を立てて転がった。
彼は社長を逆に押し倒す形になりストリートファイト仕込みの雑な寝技でどうにか抑えていた。
俺は包丁を床に置くと今しがた彼が落としたラチェットスパナと持ち替える。
包丁も決して悪くはないが折れる可能性もある。武器としてはラチェットスパナのほうが若干リーチは長く、頑丈で頭蓋骨も砕けるので優秀だろう。
「これ、借りときますよ。この場所は好きに使ってください」
「すまない……!」
沢崎は社長を押さえながら声を振り絞って苦しそうにそう言った。俺は感謝されるような事はなにもしていない。このあと彼らがどうなるのか言うまでもないのだろう。つまり俺は二人を見捨てたのだ。
俺は彼がゾンビを押さえている間バリケードを黙々と解体し、半分ほどの背丈になったところでガラスを破壊し、バリケードに足をかけそこから這い出る。音でゾンビが反応するかとも思ったが幸い周囲のゾンビは少ないようだった。
半地下のすなばっか珈琲から再び抜け出しまず何をすべきか考える。この状況では考えるまでもなく電車やバスも止まっていることは想像がつく。ならば県の中部には自力で行くしかないだろう。
それに県の中部に行く前に安全を確認したい人間がいる。咲桜先輩とピーコだ。
咲桜先輩に関しては元から連絡がつかないしそもそも異能の持ち主だからゾンビくらいはどうとでもなるだろう。問題はピーコだ。子供向けのホラーアニメですら怖がる彼女だ、パニックになっているに違いない。
彼女も無事かどうかはわからないがせめて安否は確認したい。どのような結末でも。
「……さて」
考えるのはこれくらいにしておこう。周囲にはゾンビがうろついている。もうじき日も暮れるし今日はどこか安全な場所で一夜を過ごしたほうがいいだろう。
ここから家は少々距離がある。普段なら犯罪だがその辺の放置自転車を拝借して帰るべきだろうか。ビジネスホテルに向かうのもいいかもしれない。いや、一時しのぎなのだから宿泊施設でなくても構わないだろう。
そしてなによりこの飢えとのどの渇きを満たすためなんでもいいので腹に入れたい。いずれにせよ日没後はただでさえ夜は暗い星鳥市が、電気がなくなった今はさらに暗くなるだろう。そんな状態でゾンビがうろつく街を動くのは危険だ。
俺は改めて周囲の様子をうかがった。
笑顔のゾンビがそこかしこを歩いているのはもちろんだがやはり車などもそこらへんに放置されている。しかしどうしても拭い去れない違和感があった。
車の数が少なすぎる。そもそも人口が少ないので交通量は大都市とは比べようもないが、それでもここは県庁所在地のど真ん中だ。にもかかわらず放置されている車の数が普段と比べてあまりにも少ない。時折路肩に数台ある程度で、その気になれば自動車のレースも出来るほど道路には何もない。
あの積み木を崩すようにビルを容易く破壊した泥は通行中の車にも甚大な被害を与えたはずだ。しかし特にそのようなあとは見受けられない。
この状況で車を乗り捨てるということは猛獣のいるサファリパークを徒歩で歩くのと変わりはない。それでも乗り捨てなければいけなかった理由があるとするならばやはり渋滞だろう。ゾンビの群れの中で走れることが出来ない車はゾンビにとってはただのデリバリーのランチボックスだ。しかし乗り捨てたとして車はどこに行ったのだ。
ともかく考察は後にしよう、今は寝床だ。今夜をしのぐだけならどこでもいい。歩いて10分程度の場所にあるコンビニにでも泊まるとしよう。
そう考えた俺は徘徊するゾンビに気を付けながら移動しつつ、ダメ元でもう一度ピーコに電話をかけることにした。
「これは」
画面を見ると数十件の不在着信の履歴と未読のメールがある。先ほどは無かったはずだがタイムラグで届いたのだろうか。考えるのはあとにしてその内容をすぐに確認する。
その多くはクーで、次いで真理恵さんとピーコのものだ。ついでに行政の緊急避難メールも受信していた。
そのどれもが気になるが留守番電話は残っていない。一応緊急避難メールを確認すると概ね沢崎が言っていた事が書かれていた。
もっとも内容はゾンビハザードではなく暴動が発生したというもので、日時は一週間前この異常事態が起こった直後で情報が錯綜し何もわかっていない状況の時のものなのだろう。
知り合いのメールはたった3人ではあるが密度の濃い付き合いをしているので件数が多く時間がかかりそうだ。確認作業はいったんあとにしてともかくまずは近場のピーコにもう一度電話しよう。
プルルルル……。
もちろん出ない。だが先ほどとは違う。呼び出し音が鳴りそれが止まることはなかった。つまり電波が届くなり電源が入っているのだ。
プルルルル……。
辛抱強く、返事を待っていると――。
『トオル……君?』
俺の名を呼ぶ小さな声が聞こえてきた。
「ピーコか」
驚いた事にピーコは電話に出た。無事だったか!
俺は手放しで喜びたかったがまずは冷静に状況を把握する。彼女の声は恐怖に震えているようだった。
「今どこにいる。無事か」
『う、うん! トオル君も無事なんだね!? よかった……メールも返事がないし電話にも出なかったから……』
ピーコはずっと俺の安否が気になっていたらしく本当に嬉しそうに言った。感極まって後半は涙ぐみ、俺も泣きそうになったが今は後回しだ。
「ああ、俺も嬉しいよ。けどどこにいるんだ」
俺は状況を知るために彼女にそう伝えた。まだ無事を喜ぶ時ではない。お互い今そこに死が迫っているのだ。まずはどこにいるか場所を聞こう。
『……えと、私は今アオンの1階のスタッフルームにいるんだけど……晩御飯の買い物をしてたら……』
「泥に飲み込まれてゾンビハザードに巻き込まれたと」
『……うん。気が付いたら周りはゾンビばっかりで……』
不安げな口調のピーコはゾンビに気付かれる事を警戒してか、声を潜めている。
あり得ない事態の連続に彼女は何が何だかわからなかっただろう。俺は気弱な彼女がよく頑張ったな、と思っていた。
「で、奴らに噛まれてはないよな」
『うん、それは大丈夫。一応入ってこれないようにバリケードを作っておいたよ。多分大丈夫かな……』
俺はピーコが噛まれていないことを確認し取りあえずはほっと胸をなでおろす。噛まれた際の発病率は不明だが社長はわりとすぐにゾンビ化した。彼が話すにはまれにゾンビ化しない事もあるらしいが、そう言った本人が見事にゾンビ化したので噛まれないに越した事はないだろう。
しかしピーコ、混乱の中ちゃんとバリケードを作ったか。偉いぞ、と俺は心の中で彼女を誉めた。
「生存者の人数は。お前だけか」
『えと、部屋の中にはご飯を食べたあととかがあるから誰かいたみたいだけど、今は私一人だよ……』
泣きそうな声で彼女はそう言った。なんという事だ。不安で心細いに違いない。すぐに彼女を助けに行かなければなるまいと俺は思った。
「まあいい、俺もそっちに向かう。それまで持ちこたえてくれ」
俺はピーコに激励の言葉を言うと、
『う、うん、わかった……それじゃあ電話切るね。もう電池もほとんど残ってないし扉のすぐ向こうに、ゾンビがいるから……』
彼女は少し安心した声で話しいそいそと電話を切った。俺もピーコと合流するために即座に目的地をアオンに変更する事にした。