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1-75 自分は何者であるか

 夜も更け俺はコーヒーをいつもより多めに飲んでいた。一時間程度で六杯目のコップに口をつけてしまい目はギンギンに冴えてしまっている。


 俺は映像研究会の活動は興味こそなかったが咲桜先輩から任されたからにはしっかりこなさなければいけないと考えていたので撮影において手を抜いた事はなかった。


 だが明日の撮影は俺が初めて自分の意志で撮りたいと思った撮影だ。ほかのメンバーがそうであるように俺もそれなりに緊張はしている。


 久しく味わった事がない不安と高揚感の入り混じった感情。動悸は激しくなり眼が冴えてとても眠れそうにない。単にカフェインの摂りすぎなのかもしれないが。


 とにかくじっとしていられなかった。俺はコーヒーをすぐに飲み干すとピーコがいる店の入り口付近に向かった。


 先日ともちゃんがそうしていたように灯りが漏れないように最小限の電気をつけた薄暗い場所で、ピーコはイヤホンを付けながら自主練をし振り付けの最終確認をしている。


 子供のころ野球を楽しんでいたように心の底からの笑顔で踊っていたのだ。彼女は俺と目が合いさらに笑顔の輝きが増した気がしたんだ。


 俺はその様子を微笑ましい目で見たあと、踊りが終わったタイミングを見計らい彼女に話しかける。


「精が出るな、ピーコ」

「あ、トオル君、どうだった? 完成具合は」

「完璧だ。ただ、」


 感想を聞かれ俺は彼女の頭の上にある犬耳と、ぴょこんと生えたしっぽを見る。


「帽子とかはどうするんだ? 正直俺はまだ早いと思う」

「うん……」


 動画の視聴者は彼女の姿を見てどう思うだろうか。炎上程度で済めばいいがもし身近に彼女の本当の姿を見た視聴者がいればなにをするかわからない。本当の事を言えば俺はこの姿を晒してしまうのは乗り気ではなかった。


「そう、だね。まだ勇気が、ちょっとね……隠す方法を考えておくよ」

「ああ、そのほうがいいと思う」


 彼女は寂しく笑っていたがこればかりは仕方がない。もう少し待ってからでも遅くはないだろう。


「でもさっきのトオル君には驚いたよ。自分から事故の事を話すなんて」

「そうだな。自分でも少し驚いている」


 人とのかかわりを最小限に済ませたい俺は自分自身の事を話す事は基本しないが、当然俺の心の闇の部分でもある航空機事故の経験は言うまでもない。俺自身それが不思議で仕方がなかった。


「ずっと事故のあとから、トオル君はトオル君じゃなくなって、元気がなくなって。でも最近すっごく楽しそうだから私も楽しいんだ」


 その言葉を聞いて俺は少し胸が締め付けられる。


 今の俺は彼女の言うとおりトオルではなくただの紛い物だ。久世透が持っていた人間らしい感情はもうどこにもない。


 だとすると心の中で青い炎のように揺らめく情熱は誰のものなのだ。それはもしかすると俺自身のものなのだろうか。だがまだ確信は持てなかった。


 幼馴染の無垢な笑みに俺は得も言われぬ幸福感を抱き、同時に耐えがたい罪悪感も抱いてしまう。


 彼女は大きな勘違いをしている。俺は久世透ではない。記憶を引き継いだだけの偽物であるというのに。


 だが俺はその事実を告げる事が出来なかった。それを言ってしまえば俺は彼女との関係を壊してしまう。大切な幼馴染を騙してしまう事になっても俺はそのつながりを断ち切りたくなかったのだ。


 我思う、ゆえに我あり。哲学者が残した有名な言葉だ。だが俺は自分を久世透だと思っていない。


 俺は何者だ。事故で脳が変異してからずっと抱いてきた疑問だ。暗い夜にこの事を考えると夜の闇に泥となって溶けてなくなるような、そんな錯覚に襲われ息が出来なくなるほどの恐怖感を抱いてしまうのだ。


「ピーコ。違う」

「?」


 俺が罪の意識からつい漏らした言葉にピーコは不思議そうな顔をする。


「俺はもう、昔の俺じゃない」


 この頭脳をもってしても最適な答えを導き出すことは出来ず、なけなしの勇気を出しても俺はそれしか言う事が出来なかった。


「それは違うよ」


 雲の切れ間から姿を見せた月の明かりがバリケードの隙間から漏れ彼女を照らすと、天使のような笑顔で彼女は、


「トオル君は、トオル君だよ。なにも変わってなんかいない。私はね、すっごく嬉しいよ。たとえ情熱を向けるのが野球じゃなくてもあの頃のトオル君が戻ってきてくれたから」


 そんな、心をえぐるような優しい言葉をかけてくれる。


 灰色の脳が動作を停止する。


 俺は久世透なのだろうか。それは何によって定義づけられるのだろうか。人は記憶を引き継げば同一の人物だと言えるのだろうか。そしてそれを肯定、否定する根拠はどのようなものなのだろうか。


 そのすべての命題を考える事が馬鹿馬鹿しくなる。彼女の曇りのない笑顔を見ていたらすべてがどうでもよくなった。


「トオル君? どうして泣いてるの?」


 ピーコに指摘され自分が泣いていた事に気が付く。理解出来ない感情がとめどなくあふれ出す。


 俺もまだ涙を流すという行為が出来たらしい。


「なんでだろうな……俺にもわからん。けど、ありがとう」

「……うん、どういたしまして」


 ピーコは優しく笑うと俺の涙をハンカチで拭ってくれる。


 いつかは俺の秘密を語る時もくるかもしれない。けどその時はその時だ。現実なんて知らない。今は、この名も無き感情を大切に護っていこう。

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