1-6 アフターデイズ・初日(世界崩壊ルート開始)
身体が重い。まるで徹夜後の泥のような眠りから覚めた時のようだ。
そして今食事をしたばかりなのに腹が減りのどが渇いて仕方がない。冬眠明けの動物はこのような感じなのだろうか。
「……一体なにが」
俺は周囲の様子をうかがい状況を確認する。店内に明かりはついておらず半地下の店内に唯一の入り口から夕焼けの赤い光が差し込んでいる。
それ以外はなんの変哲もないすなばっか珈琲の店内だ。ドアもテーブルもどこも壊れた場所はない。客は変わらず俺一人だけだ。店員は厨房にいただろうから視界に人がいないのも当然だが……。
まず状況を整理する。クーと電話していた時に電波が乱れ悲鳴が聞こえた。その際に泥、という声が聞こえたのでおそらく彼女も今しがた見たものを目撃したのだろう。
そして時間差でこちらにその泥が来て、その泥は全てを飲み込み破壊した。俺も、俺の目の前の建物もこの店も。
しかしここで謎が残る。建築物やこの店もあっという間に壊れたはずなのになにも変わったところはない。壊れたはずの窓ガラスや道路の向こうの建物、街灯と言ったものは明かりがついていないだけで変わらずそこにあった。人もよろめいているが一応歩いている。
「……………」
状況が呑み込めなかったがとりあえず俺はスマホを起動し、クーに電話をかける。
『おかけになった電話は電波の届かない場所にある、または電源が入っていないためかかりません』
そうなるよなあと、俺は焦りを押さえ電話を切る。
電波を介在するものが停電して動かないか、もしくは損傷したか、単に携帯が壊れたのか。いずれにしても、原因は考えるまでもなく今しがたの泥にあるのだろう。
スマホの電波を見るとアンテナはがっつりすべて立っている。電波状況は良好のようだ。
どうする。クーのところに向かうべきか。電車なりバスなりを使えば移動も可能だが……いや、交通状況も含めてまずは状況を知ることだ。たった今起こった異常な事態を。理解出来るかどうかわからないが。
幸いにして俺には先輩の一件がある。この世界には人知の及ばない何かがある事を知っているので多少は異常な事に耐性があるつもりだ。
まずはこの場にいるもう一人の人間、店員を探すとする。
カウンターの向こう側にはいない。悪い気はしつつも厨房に入るが……人の気配はない。
「すみませーん! 誰かいますか!? 生きてますか!?」
俺は大声を出す。だが返事はなく店に虚しく木霊する。店内をくまなく探すがそもそもそんなに広い店ではないのですぐに探す場所は無くなる。
あと居そうなのはトイレくらいだが、トイレは構造上入口の外にあるのでいったん外に出る必要がある。どのみちこのまま店内にいても仕方ないので俺は外の様子をうかがうためにドアを押して外に出た。
地上に出るため数段の階段を上る。やはり何ら変なところはない。信号や街灯は灯っていないがいつもの夕暮れの街の様子だ。相変わらず人は少ない。だが数は少ないが街を歩く人もいるようだ。
けれど少し様子がおかしい。よろめきながら歩き猫背でうつむきながら歩いている。嫌な予感はしたが事態を把握するため声をかけてみることにした。
相手は誰がいいか……誰でもいいが店を出た場所の歩道、すぐ左を向いて歩いていた、後ろ姿から察するにサラリーマン風の禿げ頭の細身の男性に話しかける。
「あのー。すみません」
「ウ……ウ……………」
相手は声に反応し禿げた中年の男性はこちらを振り向いた。だが顔は死人のような土気色で、虚ろな目は白濁し、口はわずかに口角を開けたままこちらを見つめる。
男は笑っていたんだ。それは気持ちのいい笑顔ではない。おそらく怪しいクスリを使ってかりそめの多幸感を得られれば人はこういう笑顔になるのだろう。
「アアウ……」
「あ、大丈夫みたいですね。いきなり話しかけてすみません」
本能的にあれが面倒な存在だと察知し俺は店内に戻る。だがスーツの男性はおぼつかない足取りで緩慢な歩行で追いかけてきたため急いで店内に入る。逃げるための時間は十分にあったので問題はなかった。
男は階段を降りる際に転倒ししばらく蠢いていた。その隙に数個の椅子を入口に急いで乱雑に設置し、店の外の男性の様子をうかがう。
男性はゆっくりと立ち上がり、掌をガラス戸に張り付け顔面を擦り付ける。どう見ても普通ではなかった。
「お仕事大変なんですよね。仕事の疲れで……ゾンビみたいになったんですよね?」
疲労でこんなふうになる人間は確かにいるが多分原因は違うだろう。俺は安全なガラス戸の向こう側から苦笑しながらそう問いかけるが返事はない。相変わらずうめくだけだ。
ゾンビ……いや、そうなのかもしれない。怪物がいるのだ、ゾンビくらいいるかもしれない。だが判断するには情報があまりにも足りない。
取りあえず世間一般のゾンビ、といっても映画やゲームのゾンビだが、その定義を参考に目の前のゾンビを分析する。
歩くタイプか、走るタイプか。それにより対処法も異なる。今いる相手は歩くタイプだが走るやつもいるかもしれない。
人の肉を食べ、噛まれると感染することが多いがそもそも噛まれた人間をまだ見ていないので判断不能。人を食べることについても同じく。
頭を潰さない限りどんな攻撃を与えても死なない。これも攻撃していないので判別不能。
知能は低い……かもしれない。目の前でガラス戸に顔をこすりつけるところを見る限り知能は低そうだ。良識のある大の大人はあんな事は普通しない。
だが男性があんなふうになったのはわかる。おそらく先ほどの泥なのだろう。あれがなにかをもたらしたのだろう。断定は出来ないがそれ以外に原因が思いつかない。
では先ほどの泥はなんなのか。なぜ壊れた街が元通りになっているのか……これも同じくわからない。
(要するに、まだなにもわからない、か)
そんな状況でうかつに動くのは得策とは言えない。だから俺はまず親しい人間の安否を確認することにした。
クーはもう一度電話をかけたとしても同じ結果になるだろう。まずは叔母の真理恵さんに電話をかける。
『おかけになった電話は……』
やはりしばらく待っていてもつながらない。
一応咲桜先輩にもかけてみる。が、やはり同じだ。そもそも先輩はこの状況になる前から連絡がつかないのだ。
最後にピーコに電話をかける。以下省略。しつこいようだが繋がらない。
元々スマホのアドレス帳には数えるほどしか連絡先を登録していない。すぐに終わったのは楽だったが我ながら少し寂しい人間だな、と思った。
「クソッ……」
冷静になれ、俺。まずは情報収集だ。スマホ……いや、そもそもこの状況で発電所に人がいるのだろうか。普通に考えて多分いないだろう。電気の供給されていない状況で基地局やサーバーは生きているのだろうか。
俺はダメ元でネットで情報収集をしようとしネットで調べようとする。だがその時外で鈍い音がし、すぐに視線をスマホから入口に移す。
見ると灰色の作業服の若い金髪の男性が入り口のサラリーマンのゾンビを短い棒状のもので殴り倒したようだ。すぐにその男性の後ろに同じデザインの作業服を着ていた中年の小太りの男性が現れ、そちらは負傷しているようで右肩から血を流し作業服には血がにじんでいた。
「おい! 開けてくれ!!」
金髪の男性は必死の形相で俺に向かって叫ぶ。
彼は感染者かもしれない。ゾンビよりも厄介な暴徒かもしれない。中に入れるべきか俺は一瞬迷ったが、外の情報も知りたかったので先ほど応急処置で作った椅子のみの粗末なバリケードをどかし彼らを迎え入れる事にした。
「た、助かった!」
金髪の男性は俺がドアを半分開いたあたりで無理やり体を入れ、どうにか侵入する。
「す、すまんな……」
続けて中年の男性もどうにか入ろうとするが小太りなので少し苦戦している。時間をかけたくなかったので俺は彼の右手を引っ張った。
「ぐ……!」
当然負傷した右肩が痛むようで中年の男性は苦悶の表情を浮かべたので、俺は掴む場所を胸ぐらに変える。
「あ、お、俺も」
金髪の男性も慌てて同じ場所を引っ張り、なんとか中年の男性を室内にいれる事に成功した。
「すみません、早く中に」
俺はまずそれだけ言った。とにかく情報交換は安全を確保してからだ。外の様子を見て確認してからバリケードを再び設置する。そして俺が手を動かして椅子を運ぶと金髪の男性もすぐに手伝ってくれた。
金髪の男性は胸元に沢崎、と書かれた名札がある。他人の作業服を着ていなければ彼は沢崎なのだろう。ちなみに中年の男性の名札には味野、と書かれている。
「ありがとうございます」
「そりゃこっちのセリフだ。ありがとう」
沢崎が作業を手伝ったことに俺が礼を言うと彼も礼を返す。見た目で判断するのは好ましくないが彼はおそらくヤンキー上がりのガテン系だろう。沢崎は腰のホルダーに今しがたゾンビを倒した血の付いたラチェットスパナが収納した。それを見るとそのほかにも工具が引っかけられている。
「で、今倒したのは……何ですか。ゾンビ、でしょうか」
「さあな。けど、生きてる人間は手当たり次第に襲ってくる。お前もなんとなく理解してるだろう?」
沢崎は、はあはあと息を切らしながら入り口周辺の椅子をすべて使ってバリケードを作成し、俺が作ったものより大きく立派なものになった。
「歩いているやつなら見ました。今あなたが倒したやつです」
「そうか。走っている奴や武器を持った奴もいるから気をつけろ。俺たちも最初は歩いている奴だけって油断したら包丁を持った女のゾンビが走って追いかけてきてな」
彼が苦々しく言った悪いニュースにまじか、と俺はげんなりした気持ちになる。俺は体も脳味噌も腐っているなら走るなよ、武器持つなよと、昨今ではマイノリティになった科学的考証に基づく昔ながらの歩くゾンビ以外認めないマニアの肩を持ちたかった。
「というか一週間ずっとこんなんだろ? 見かけたゾンビは今のだけか? まさかずっと店にこもってたのか?」
「一週間?」
沢崎が困惑しながら言ったセリフに俺は耳を疑い、思わず聞き返した。
「ああ。テレビもネットもずっと騒いでる。一週間前突然黒い泥が流れてきて、人が消えて、ゾンビにあふれた世界になって噛まれたらゾンビになるってな。俺は社長と市役所に避難する途中だったんだが……ああ、そうか。まあ籠城したほうが生存確率は高いしな」
彼は勝手に都合よく解釈して納得したらしい。ついでに味野が社長である事も判明した。
しかし一週間前だと? 俺の記憶が確かなら当然だが一週間、いつも通りの日常だった。
だが馬鹿げていると思いつつ、先ほどは確認しなかったスマホの日付を見ると確かに今日は1月24日で俺が泥に飲み込まれた日の一週間後だった。
ただでさえわからないのに余計にややこしい事が増えてしまう。そもそも壊れた街が元通りになっている時点で理解の範疇を超えた事態が起こっているのだ。だが考えても情報がない。
いや、あるにはある。今のどうしようもない空腹とのどの渇きだ。目が覚めるまで一週間経過したならそれも納得出来る。が、その割には耐えきれないほどではない。現にこうして体力もあり歩く事は出来る。体感的には丸一日飲まず食わずの状態、その程度だ。
ともかく、まだ何も判断出来ないのでこの事象はひとまず置いておく。
今は作業員の二人が重要だ。まずずっと気になって仕方がない社長のケガだ。
「で、あちらの人は刺されたんですか」
「……いや、噛まれた」
俺の質問に不安げに沢崎が答えて俺が味野に視線を移す。彼は負傷した右肩を押さえながら困り果てた顔をしていた。
「……映画とかで見るゾンビは、」
俺がその先を言う前に、沢崎は勢いよく喋り言葉を遮る。
「あれはフィクションだ。噛まれたって」
もしかしたら社長もゾンビになるかもしれない。その可能性を沢崎は必死で否定しようとしていた。関係性は社長と部下のようだが、それ以外に事務の書類には記載されていない関係があるのかもしれない。
「まず外の連中がゾンビだと仮定します。現実のゾンビの情報は俺は何も持っていないので、その人がどうなるのか俺にもわかりません」
だが今の俺は何とかして社長を守ろうとする沢崎とは対照的に残酷な事を考えていた。
このまま噛まれた味野を観察していれば噛まれて感染した人間がどうなるか実際に検証が出来るのではないか。情報を得る事で俺の生存に役立つのではないのかと、そんな事を……。
「俺たちを追い出すのか」
沢崎は深刻な様子でそう聞く。もし俺が追い出すと言えば彼らは俺を力づくで追い出そうとするかもしれない。追い詰められた人間はゾンビよりも狂暴になる。
「しませんよ、安心してください」
俺はそう言うがそれは優しさからではない。ゾンビとなる過程を観察するのためだ。
「すまない、本当にありがとう」
申しわけなさそうに沢崎は深々とこちらにお辞儀をする。だが俺の真意は知らないのだろう。俺は多少の罪悪感を覚えていたがそれ以上何も言わなかった。