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3-57 天神クリスの記憶

 ダンディさんを見送ったあとそのまま遅くなった晩飯を軽く済ませ、俺はいつもどおり動画の編集をして、夜になって眠りについたわけなのだが……。


 ……ああ、また夢を見ているのか。今度は誰の記憶なのだろう。


 そこはコンサートホールで舞台の中央には豪華なグランドピアノが置かれている。客席は満員で、彼らは穏やかな顔でその音に聞き入っていたのだ。


 舞台の袖から成人した金髪の外国人の若い女性が見守る中、金髪碧眼の小学生ほどの少女が見事な演奏をしており、何物にも縛られず、野原を少女が無邪気に駆け回る様に、自由で本当に楽しそうな調べだ。音楽に造詣がない俺でもその演奏が素晴らしい事は直感的に理解出来た。


 そして、盛大な拍手。彼女はペコリ、と笑みを浮かべながら彼らにお辞儀をする。演奏が終わるとすぐに彼女は袖に向かって歩き、客席から見えなくなったところで駆け出しその若い女性に抱き着いた。


「よく出来たわね! さすがクリス!」

「えへへー。ママ、うち、すごい!?」

「うんうん、すごかったわ!」


 俺は彼女に会った事はないが名前はよく知っている。


 少女は天才ピアニストの天神クリスだ。国内外で若くして数々の賞を取り当時は神童として名をはせていた。


 だが、俺がその名前を知っていたのは彼女が有名人だからではない。


 無邪気に母親に甘える彼女を見て俺は胸を締め付けられる。その光景があまりにも幸せ過ぎて直視出来なかったんだ。


 暗転。


「げしげし、げしげし! たあたあ、たあたあ!」

「……………」


 ここは梨の歴史館か。クリスは梨の木の下で〇ッシーに絡んで下段キックを浴びせて遊んでいる。中の人は今にもキレそうでどす黒いオーラを放っていた。


 そういえば天神クリスは性格がガキだったな。


 無論年齢相応とも言えるがそれが理由でバラエティー番組に出演した際、相手が大御所であろうと毎回出演者に礼儀を知らない態度をとって叩かれ、妬みも含めて嫌いな芸能人ランキングの上位に入っていたのだ。


 そしてクリスはそれが近い未来大きな災難をもたらす事を知る由もなかっただろう……。


 そんな彼女をぐい、と若い男性が持ち上げる。


「こらこらダメだよ、クリス。すみませんね、本当に」

「うち浮いてるー?」


 父親らしき男性はゆるいキャラに謝罪すると、母親がやって来て彼女をしかりつける。


「もー、めっ、よ、クリス!」

「だってなんか絶妙にイラっとした顔してるもん」


 クリスも嫌われている事をまったく知らなかったわけではない。そのため彼女はその苛立ちからとげとげしい態度をとるようになり、それがさらに好感度を下げるという悪循環になっていたが、幼い彼女にそれを断ち切るのは不可能だった。


「ダメダメ。クリスだって、殴られたり蹴られたりしたら悲しいでしょう?」

「うん……」


 彼女がシュンとしたその瞬間、心の声が聞こえてくる。


(ママとパパに嫌われたくないから謝らんと……ママとパパだけが、うちの味方だがぁ)


 彼女はどこまでも純粋だった。ドロドロとした芸能界で生きる事が出来ないほどに。


「ごめんなさい」


 彼女は上辺だけの謝罪をして〇ッシーもいいよー、と手を振っていた。こいつはゆるいキャラ界の底辺で生きる奴だしこういう事には慣れているのだろう。


 優しい両親の愛に護られ、澄み切った川に住み慣れた彼女はヘドロのような芸能界で呼吸すら出来なかったのだ。


「ちゃんと謝れるなんていい子ね、クリス!」

「えへへ」


 彼女は母親に撫でられ優しくはにかむ。その笑顔を見てまたしても俺はズキリと心が痛んでしまった。


 母親の育て方は間違ってはいない。過保護とまではいかないが優しすぎたのだ。だからずっと護られた彼女は人一倍弱い人間になってしまったのだ。


 暗転。


 今度は白倉駅の改札前だ。父親はボストンバッグを持って、母親とクリスが彼を見送っていた。


「じゃあ、僕は先に向こうに帰っておくよ。折角の帰省でもあるからもうちょっとゆっくりしたかったんだけど」

「ううん、あとは私に任せてね」


 理由はわからない。多分仕事かなんかで父親が先に帰るのだろうか。実に幸運な事だ。


 それとも不幸だったのだろうか。死よりも過酷な現実をこのあと生き続ける事になるのだから。


「さ、パパの分まで白倉を観光しましょうか!」

「うんっ!」


 そして、彼女は母親と過ごす最後の日を過ごした。


 冷たい風が吹く趣のある白壁土蔵群を母親と手をつないで歩く。冬の寒さもその温もりを引き立てるスパイスだ。


 正直子供にとって町がいかに風情のあるものでも少しばかり退屈だ。だが打吹公園団子やたい焼きを片手に、存分に食べ歩きをしてそれなりに楽しめたらしい。


 瀬麗那愛度にも寄り、即興で演奏をし、温かい人々の笑顔に囲まれて、ちくわのスイーツも食べて。


 だがその時頭にハンマーで殴られたような衝撃が襲い、俺は思わずよろめいてしまう。


(楽しかった。すごく楽しかった。楽しかったのに、このあとママは……!)


 暗転。


 彼女たちは空港にいた。俺は忘れるはずもない、この場所は……。


 ふと周囲をうかがうと無邪気にはしゃぐ当時の久世透もいた。


(待て!)


 俺はすぐに彼に近寄り肩を掴んで止めようとするが、すり抜けて触れる事は出来ない。


 いや、わかってはいた。これが無駄な事だって。だけど身体が勝手に動いたんだ……。


「ママー、早く早く」

「も、もうちょっとだけ」


 離陸の時間は迫っている。どうやら売店でどのような土産を買うか迷っているらしい。このまま長引いて遅刻すればよかったのに……!


 だが無情にも母親は土産物を購入し、向こうの俺たちもそのまま搭乗口に向かってしまう。


 これ以上は見たくなかった。


 俺は、現実から逃れるためゆっくりと目を閉じた。

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