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第一章「ドライ・マティーニ」

 「ヘルメティカ」は、雑居ビルの二階に佇む何の変哲もないバーである。

 ごく地味で、さほど広くもなく、普段はマスターと僕の二人で充分回していける程度の店だ。長年潰れずやっているのが、少々不思議なくらいだ。

 と、団体客と入れ替わりに一人の客が入店した。よく来る無愛想な女性だ。いつも一人、味気ないパンツスーツに身を包み、仕事終わりの風姿で現れては、カウンターの端に陣取るのだ。酒は中々に強く、カクテルから強い蒸留酒まで何でも呑み、乱れる程には酔わない。機嫌の良さそうな所を見た事がないのだが、この夜は一際不機嫌だった。

「いらっしゃいませ。何にしましょう」

 コースターを置いた(すすぐ)をじろりと睨むと、なぜか挑戦的な語気で言い放った。

「貴方にしか作れないものを頂戴。強いやつで」

 む、と(すすぐ)は内心眉をしかめた。勿論、絡み酒や喧嘩腰の客をあしらうのも仕事のうちだ。常連の彼女をそういう客に分類するのは少々残念ではあったが、雪は営業スマイルに徹して会釈した。

「畏まりました」

 はて、とつまみのナッツを準備しながら思案する。

 僕にしか作れない…。

 厳密には僕だけではないが、ここでしか出せないものならある。父に仕込まれた秘伝のカクテルレシピだ。


「…なにか、お悩みでも?」

 彼女が世間話に乗ってきた試しはない。雪も元来話好きな方ではないから、頑張って打ち解けようという気もないのだが、今宵は妙に彼女の蔭が気になった。

「……」

 いつも通り無視を決め込んだらしい。ですよね、と雪は気にもせず屈み込み、棚の奥を探り始める。

「……同僚でね、頑張ってきた人がいるんですよ」

 返事が来たことに吃驚してしまって、雪は危うく瓶を取り落とすところだった。そろりと首を伸ばし彼女の方を伺うと、こちらを見てはいない。頬杖をついてナッツの小皿を眺めながら、独り言のように続ける。

「新しい立場(ポスト)に就きたくて、実績を上げて努力してきたんですよ。でも上の都合で、別の人がそこに決まって…それが現場を見た事すらない、他社の外注なんですよ。幹部の顔を立てるだか何だか知らないけど、その仕事に適性があって、熱望してきた人がいるのに、外野の都合が優先だなんて」

「それは納得いかないですよね…同じチームでお仕事をされてる方なんですか?」

「いや、直接関わる事はない人です。同期ってだけで」

「なるほど。仲の良い方なんですね」

「そういう訳でもないんだけど」

「……。」

 まあ、この物言いが職場でもそうなら、フレンドリーで交友の広い人種ではあるまい。それが、さほど親しくもない人物に対して、そもそも会社員なら不本意な人事など茶飯事だろうに、そこまで心を砕く事なのだろうか。

「……そんなに気になるんですか、その方のこと」

 しまった、と雪は口をつぐんだ。気安い常連ならともかく、この難解な客に対して立ち入った事を言い過ぎだ。

 どうしてそんな事を言ってしまったのか。ただの、仕事なのに。

 機嫌を損ねたに違いない、初めて掴んだ会話の糸口もここでお仕舞いだ。雪は渋い顔で目を瞑ったが、意外にも返ってきた反応は攻撃的ではなかった。


「だって、関係ない人のために諦めなきゃいけないなんて…許せなくて……」

 その声色に突然、翳りが差して。


 彼女はカウンターの上に両腕を組み、半ば突っ伏すように顔をうずめていた。垂れ掛かる前髪の隙間から僅かに覗く瞳には、潤んだ光が揺れていた。

 雪は素知らぬ振りで顔を逸らし、秘伝のレシピを揃えたシェイカーを振り始める。

(関係ない人のために、涙を流せる人だとは…思わなかったな)

 シェイクを終えてグラスを手に取ると、清潔な筈のその縁に糸ぼこりが付いていた。ふっと軽く一息、それを吹き落とすと、シェイカーの中身を注ぎ入れる。

「どうぞ。ドライ・マティーニ、アンバースペシャルです」

「ふうん…マティーニなんだ」

 彼女はグラスをじっと見た。詳しい事は言えないが、ステア(材料を注ぎ軽く混ぜる)でなくシェイクして作る事と、一般的なマティーニに比べ黄味の強い色彩がこのレシピの特徴だ。

 ゆっくりとグラスに口づけ、品定めするように一口を味わうと、置いたグラスに指をかけたまま呟く。

「普通のマティーニと、そんなに変わんないな…おいしいけど」

 その時だ。

 普段ならまだ客足も多い時間帯、他の客が居なかったのは奇跡といっていいだろう。

 彼女の全身から、琥珀色の光輝が立ち昇った。

 雪は疲れでも出たかと目を擦り、遅れて彼女も異変に顔を上げた。そして数秒のうちに、


――――人ならぬ姿に变化(へんげ)していた。


 甲高い音を響かせて、シェイカーが床に跳ねた。

 何だ?

 何が起こった?

 目の前にいるのは何だ?

 見慣れたスーツの彼女、の代わりに座っているのは、全身半透明で琥珀色に輝く、人型の、何かだった。

 橄欖(かんらん)色の大きな目が数度瞬いて、すらりと細長い己の手指、ゼリーのように滑らかな胴から足を、徐ろに眺めおろした。そして、雪に向き直った。

 雪はびくりと後退り――かけて、思いもよらぬ感情に踏み留まった。

 ……美しい。

 ついさっき提供したマティーニにそっくりな、琥珀色(アンバー)の輝きを纏う体。

 そのマティーニに沈むオリーブのような、つややかな目。

 およそ現実とは思えない異常事態だというのに、気がつけば雪はカウンターから出て、彼女に近寄っていた。

 魅了されていた。

 震える手をゆっくりと彼女に差し出し、そして。


 かつ、かつ、と微かな音がして雪は我に返った。外の階段を上がる足音、つまり客が来るのだ。

 見られる…! 雪は青ざめた。

「と、とにかく奥へ隠れて! 早く!」

 得体の知れないその体に触れる躊躇も忘れ、強引に彼女をバックヤードへ押し入れたが、その奥にむくりと起き上がる人影があった。

「何だよ、昼寝してたのに」

「わあ!?」

 買い出しに行った筈のマスター、すなわち雪の父親だ。珍しくはないことだが、裏でサボっていたらしい。思わず叫んだ雪を彼は振り返り、その視界に雪と、彼女を捉えた。

「……!!」

 雪達は凍りついた。

 何の弁明も、どんな対応も思いつかない。

 父はどうするだろう。泰然自若な父といえども、流石にこの怪物を見て平静ではいられまい。叫び、狼狽え逃げ出すだろうか。警察でも呼ぶだろうか。一体どうすれば――

 しかし彼の反応は予想だにしないものであった。

 驚きはしていた。だが数秒目を丸くした後、その目は鷹の鋭さで雪を見据え、ぽかんと開いた口元は確固たる意志を帯びて結ばれ、低い声で囁いた。

「雪、その御方を帰しちゃならんぞ。絶対にだ」

 穏やかに、冷静に、それでいて強く諭す声音だった。その短い言葉は、パニックの雪に思考力を取り戻させ、信頼させるに足るものだった。

 このマスターが煮ても焼いても豆腐に(かすがい)、どんな揉め事も慌てず騒がず煙に巻く、とんだ狸親父なのだ。ガラの悪い客が暴れた時だって、あれほど鋭い目をした事はなかった。

 父は何かを知っている。この事態が何であるかを知っている、むしろ待ち詫びてきた、そんな事を感じさせる含みがあった。


 からんからんとドアベルが鳴り、客が店内に入った事を知らせた。

「いらっしゃーい、ちょいと待ってねー」

 平静そのものの営業ボイスをバックヤードから投げかけ、父は襟を正して立ち上がる。そしてホールへ出ていきざま、いつもの柔和な調子で言った。

「店は任せな、客足が途切れたら閉めちまおう。話はその後だ」


 バックヤードには雪と彼女――彼女の姿ではなくなったけれど恐らくは、彼女――の二人きり。長い沈黙が彼らを支配していた。室内と、雪と、自分の肢体を交互に眺めるばかりだった彼女が漸く口を開いた。

『あ、の……』

 おずおずと漏れた声は確かに彼女のものだった。が、彼女の声に何か別の層が重なっている。耳に聞こえる声と、頭の中に直接響く声が重なっているような、自分でも理解は出来ないが、そんな状態に感じられた。

『これ……どうなってるんですか』

「ぼくが聞きたいです」

 返す雪の声も上ずっていた。どうやら、会話は通じるようだ。そして彼女も落ち着いている訳ではなく、騒ぐ事もできないほど動揺しているという風だった。

 それ以外は何もわからない、全くわからない。

 しかし雪の脳裏に断片的な記憶が浮き沈みした。父から聞いた気がする、何か非現実的な、荒唐無稽な御伽噺のような…


《もしも“巫女”に巡り会えたら、決して離すな》


『あっ』

 その時、あの光輝が再び彼女の身を包み、息を呑む雪の前で、彼女はいつものスーツ姿へと立ち戻った。

「……」

「……」

 彼女は再び自分の肢体を凝視し、そして雪と顔を見合せた。

「私ちょっと、呑み過ぎたようなので帰ります」

「ま、待って!」

 逃げるように席を立った彼女の腕を雪は慌てて掴んだ。

 震えていた。

 平静を装ってはいたが、腕を取られて抵抗するでもない。本当は引き留めて欲しい、この状況に答えが欲しい、そんな不安が伝わってきた。

「待って下さい…帰す訳にはいかない」

 諸々の現実的な都合だけでなく、なにか使命めいたものを雪は感じていた。

 再びドアベルが鳴り、彼女はびくりと一歩下がった。しかし近づいてきたのはマスターの落ち着いた声だった。

「これにて本日は臨時休業っと。さて雪、大人しくお待ち戴けたかな」

 柔らかな笑顔で入ってきた父は、彼女のスーツ姿を見るや真顔になり、ぱちくりと室内を見回した後、文字通り肩を落として落胆した。

「なんだ、戻っちゃったのかぁ~。もっとよく見たかったなぁ……

ていうか貴女、よく来る(ひと)じゃないの。こりゃたまげたね。いやいや、運命の糸ってやつは有るのかもしれないね」

 その軽い口調に雪達はすっかり緊迫感を失い、どっと疲れて座り込んだ。


「さぁてさて。私ゃ店長の桶谷(おけたに) (みつる)、こっちが息子の(すすぐ)。改めまして」

 満は茶を淹れながら、さりげなく彼女と出口との間を塞ぐ位置に陣取った。

「まずはお嬢さん、貴女は類稀な資質をお持ちだ。

特殊な手順で作られた酒に感応し、酒の精――“酒精(スピリッツ)”をその身に顕現する『酒精(さか)()ろしの巫女』の資質を」

「……巫女? スピリッツ……?」

 満は指を一本ずつ立てながら、詩でも詠むように語った。

「ひとつ、秘蔵の製法。

ひとつ、丹精込めた調合。

ひとつ、命宿る息吹。

この三つが揃った時、酒の持つ神通力が巫女を依り代として具現化する。それこそがさっきの姿、“酒精(スピリッツ)”」

「製法と調合、ってのがあのレシピか……息吹って何だ?」

「雪、お前この(ひと)に出したグラスへ息を吹きかけたはずだ」

「息を……?」

 考え込むことしばし、はたと、雪はグラスの埃を吹き落とした事を思い出した。普段はそうそう、そんな不調法はしないのだ。

「息は気、魂に通ずる。巫女と心を通わせ、思いを込めて掛ける息吹には力が宿るんだそうだ」

(心を通わせ……?)(思いをこめて……?)

 雪達は揃って眉をひそめた。その様子に満は苦笑しつつ続ける。

「うちは古くから、神社に奉納する神酒を造る神酒蔵(みきぐら)の家系だった。そして、その神酒で神を降ろす力を持つ“巫女”の家系と懇意にしていた。結婚縁組によって、その資質を連綿と受け継ぎ守ってきたんだ。

私の祖父さんの、そのまた祖父さんは巫女の酒精(さか)()ろしをしたそうだ。それが、系図に残る最後の巫女だ。彼女は子を授からずに亡くなり、巫女の血筋は失われ、酒蔵の経営も傾きはじめた。

ところが祖父さんは全くの偶然に、巫女の資質を持つ女性と巡り合った。しかもそれが分かったのは、奉納神酒以外の酒で酒精(さか)()ろしが起きたからだった。祖父さんは、どんな酒をどうすれば酒精(スピリッツ)が宿るのか研究を始めた。そして出来たのがこの店と、雪、お前に教えた秘伝のレシピだ。

その巫女の力は、娘に受け継がれなかった。巫女は再び失われたが、いつか他の巫女に出逢えた時の為にと、レシピだけが守り伝えられてきた……

ま、ざっと説明するとこんな具合だ。祖父さんから繰り返し聞かされた頃は正直お伽噺だと思ってたが、まさか本当にお目にかかれるとはね」

 さっきひそめた眉のまま、全身から疑念を発し続けていた彼女は、はたと思い至ったように背筋を伸ばした。

「私、帰らないと」

「いやいや待って待って。万に一つもない確率で巡り合えたお人なんだから」

「知りませんよ。明日も仕事なんです」

「まあ落ち着いて。必ずまた来てくれるかい?約束してくれないと、これは返せないな」

「あっ」

 この狸親父はまったく、いつの間に。後ろ手にちらりと覗かせたのは、彼女のカバンだった。席から回収してきたらしい。慌てるということがないのか、強かにも程がある。

「…………」

 唇を噛んだ彼女は二度三度、カバンをひったくろうと手を伸ばしたが、立ち位置と運動神経の不利から叶わなかった。

「……わかりました」

「じゃ、お名前と連絡先を」

「そのカバンの中にあるんで」

「いやいや、こちらにお願いしますよ」

 素知らぬ顔で伝票とペンを差し出す父は、とことん抜かりなかった。カバンの奪還に失敗した彼女は、過去最大級に嫌そうな顔でペンを取った。

「……御杯(みつき)(かおる)です」

 香る、尊き杯。

 出来過ぎなほど、それは彼女の資質と宿命を匂い立たせる名前だった。


 香を見送った雪達は、いつもの閉店作業を始めていた。

「…帰しちゃって、よかったのか」

「そりゃ気になるけど、無理に引き留める事もできないしな。そもそも、ご本人がその気になってくんないと成り立たないんだ。連絡先はもらったし、これで二度と来てくんなきゃ、この縁は最初から無かったってことさ」

「僕、何もかも訳が解らないんだけど……。よくそんな、当然の事みたいに進められるな。親父は信じられるわけ?巫女だの、スピリッツだの」

「んー、見ちゃったからにはなぁ。酒ってのは古代から神事や儀式につきものだろ、それくらいあっておかしくないのかもな。なにせ蒸留酒を『(スピリッツ)』って云う位だから」

「駄洒落かよ」

 なんだか頭が痛くなってきた。雪はこめかみに手をあて、深く息をついた。


 自宅の玄関を後ろ手に閉め、香は深く息をついた。

 今夜の出来事は一体何だったのか。見たもの、聞いたこと、何一つ受け入れられない、信じられる訳のない情報が頭の中をぐるぐると巡る。

 忘れろ、忘れるんだ。

 酔っていただけだ。

 二度とあの店に行かなければいいんだ。

 でも……

 私にしかできないことが、あるとしたら?

 香はぶんぶんと頭を振り、早足で部屋へと上がっていった。はらりと、カバンから「ヘルメティカ」の伝票が舞い落ちた。


挿絵(By みてみん)

第二章「スウィート・マティーニ」へ続く


酒精しゅせいとは一般的には食品添加物としてのエチルアルコールを意味します。本作品では読みを変え造語として扱っております。

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