第七話
完全無欠。
国内外で通ずる華やかな経歴を持ち、日本屈指の一流企業、美門ホールディングスの専務を務め、創業一族の御曹司である美門光政を端的に表すならこの言葉だと、秘書の工藤翔一は思っていた。
だがさいきに、工藤はそんな上司への認識を改めなければならないかもしれないと考え始めた。
「…………」
その光政と言えば、椅子に深く腰掛けて頬杖をついて眉間に深いシワを刻んでいた。四十も目前だというのに、衰えるところを知らぬ光り輝くような麗しの顔に厳しい表情を浮かべ、とある書物に目を通していた。
それより先に目を通してほしい書類が山ほどあるのだが、一向に聞き入れてもらえない。せめてもの抵抗にと机の上に未決済の書類を積み上げるものの、見向きもしない。結局これだけ溜め込んでも後であっさりと処理するし、本当に優先順位の高い仕事はこなしてくれるので問題はないのだが、その景観に問題があった。
工藤がもうしばらく様子を見るかと踵を返そうとした時、光政に呼び止められた。
「工藤」
「はい」
「私にはこの男の良さがさっぱり分からないんだが」
相変わらず厳しい表情で読んでいた書物を閉じる。
麗しの御曹司がお読みになっていたのは、今若い女性に人気の少女漫画だ。もちろん恋愛モノだ。
「告白もろくにせず、独占欲で主人公を縛り付けながら昔の女になびく男のどこが良いのか全く理解できんし、そんな男を選ぶ主人公の思考も理解に苦しむ。側で支えていた幼馴染の男の方がよっぽど有益だと思うんだが」
身もふたもないが、彼の言っている事はあながち間違いではない。工藤もその少女漫画を読んだ事があるのだが、幼馴染の男の方が主人公のことを考えて献身的に行動している。なんでそんな女々しい男が良いのか。結局は顔なのか、とやさぐれたものだ。
だが、社会通念と乙女心というものは、いつの世もイコールで結ばれないものである。
「恋愛と結婚は別物と言いますからね。恋多き女は魅力的ですが、結婚には向かない。彼女は恋愛的に彼に惹かれているわけで、結婚相手としては見ていないと思います。でも、そういった物語に於いて、恋愛的に魅力な異性とハッピーエンドを迎えられる、恋を貫く、というのが幸せの定義とされているのかと」
工藤の言葉になるほど、と真剣に頷く光政。
今年の春、美門光政は運命の出会いを果たした。
鷹の式神を連れた陰陽師と名乗る女。窮地に陥っていたとはいえ、あの美門光政が初対面の通りすがりの女に己の運命を託したのだ。
今では社会的地位を得た陰陽師だが、光政はああいった手合いは全く信用しない人種だった。どういう風の吹き回しかと工藤は我が目を疑った。
しかし、光政の人を見る目はさすがだと言わざるを得なかった。彼女の手際は鮮やかと言うより他無かった。
そして彼女は名前すら名乗らず、光政や工藤、周りのギャラリーさえも置き去りにして、目にも止まらぬ速さで飛び立ってしまった。
そして光政はあらゆる手を尽くして彼女について調べ上げた。
天下無敵の美門光政を助けたのは、陰陽師派遣会社の最大手であるあるかなコーポレーション所属の陰陽師で、名を高遠千早と言う。女だてらに要人警護ではかなり名を馳せていたようで、光政の知人も何人か彼女の世話になっていた。
知人の誰もが彼女の異様なまでの第六感について語った。
陰陽師は常人よりも第六感が鋭く、高遠千早の場合はそれが突出して優れているらしい。
まるで全てを見通しているかのような彼女を、業界の人間はいつからか「ホークアイ」と呼び始めた。体術なども申し分なく、男よりも軽い体を生かした高い機動力も空の覇者である「鷹」の名を冠する所以の一つでもあるらしい。
そんな光政とはまた違う意味で完全無欠の高遠千早。そんな彼女に光政はあっさり心を奪われてしまった。
まるで映画やドラマのような展開だが、ヒーローとヒロインの性別が逆転しているような気がする。大丈夫なのだろうかと工藤はひっそり思っていた。
彼女について調べた後はどうやって再会を果たすか、光政はずっと悩んでいた。運命的な再会を演出しようとしていた矢先、天は彼に味方した。
会議で訪れていたホテルに高遠千早がいたのだ。しかも何か困ってる雰囲気。これ幸いと光政は彼女に声を掛けたが、なんと彼女は光政のことについて覚えていなかった。
1度目にしてしまえば、忘れられることなどまず無かったあの美門光政が、だ。
しかしがっかりしている暇はなく、光政は困っている様子の彼女に手伝いを申し出ると、彼女は依頼人の窮地を救いたいと言った。
訪れていたホテルは何度か光政が私的にも使ったことがある為、多少の無理は利くだろうと思ったし、ホテル側もあの美門の御曹司に恩を売っておきたいだろう。この人の近くにいると世の中大抵のことは金でどうにかなると実感させられる。
スィートルームに予約を入れ、高遠千早が探す依頼人の部屋を割り出し、部屋に突入を仕掛けた。場は完全に彼女の独壇場であった。大の男二人をたやすく制圧し、あっという間に場を掌握した。
だが、部屋から出てきた彼女は妙な動きをしており、心配した光政が声を掛けると「スカートのスリットが破けた」とつるりと口を滑らせて顔を真っ赤にしていた。
先ほどまでの無双ぶりはどこへやら。
これが世に言うギャップかと、工藤は心の底から感心した。
それでも光政は冷静を欠いたりせず、自分の上着を彼女に貸し、次に繋げる布石としたのだ。
だが、高遠千早は光政の予想に全く嵌らない、どこまでも規格外の女だった。
上着を返す為にミカドホールディングスの本社にやってきたらしいが、生憎その日光政は海外出張で席を外していた。受付嬢に上着と菓子折り、そして光政への謝辞を託して、その場を後にしたらしい。
普通の女なら、些細な口実を作って光政に会おうと必死になるものだが、ここまであっさりした女が今までいただろうか。否、工藤が秘書になってからそんな女は一人もいなかった。
申し分のない才能とそれを証明する社会的地位。そして類稀なる美貌の所為で、今まで女に追い掛けられたことは星の数ほどあれど、女を追いかけたことなど一度たりともない光政。女なんて黙って突っ立っていればいくらでも寄ってくるだろうに、何故、よりにもよってあんな枠外の物件に手を出そうとするのか。
可愛らしい小鳥ではなく猛禽類。
しかも高遠千早は今年24歳、光政は36歳。二人とも社会人なので一応問題はないものの、犯罪臭が仄かに香る年齢差である。
光源氏計画とも取られかねないし、実際光政は世の女性たちの間で「今様源氏」と呼ばれているので、まさにその通りである。
だが、あの女として規格外の高遠千早が、男一人に大人しく育てられるようなタマなのだろうかと首を傾げてしまうが。
鷹は非常に誇り高い生き物だ。人の手に懐かせるのは至難の技だと言う。
鷹匠は鷹を手懐ける為に主従関係を結ぶが、鷹が人を主人と認める為には人の手から食べ物を食べさせなければならないらしい。だが、鷹の信頼を得られなければ、食べ物を食べることなく餓死してしまう。
生きることよりも誇りある死を望む生き物。
そんな気難しい生き物と重ねられる高遠千早を、果たして光政は手に入れることができるのだろうか。
「専務」
険しい表情のまま、光政が少女漫画の次の巻に手を伸ばそうとした時、工藤はスッと愛用のタブレット端末を差し出す。
「彼女のことを理解したいのなら、少女漫画よりこちらを読むべきかと」
画面に表示されていたのは、青年誌に掲載されている戦国時代の軍記漫画。非常な現実にやり切れぬ思いを抱えながらも、義を貫く男たちの熱い生き様が反響を呼んでいる話題作だ。
「……どう見ても恋愛ものには見えないんだが」
画面に表示されているのは単行本の一巻の表紙だ。泥にまみれた主人公の武将が雄々しく雄叫びを上げている迫力の画である。
光政は工藤の意図を掴みあぐねて眉間にシワを寄せている。
「これで中身が恋愛ものだったら事故物件ですよ」
もちろん作中に出てくるのはたくましい筋骨隆々の男ばかりだ。当たり前だが心ときめく展開など皆無である。
彼女について工藤は、たった一つ自信を持って言えることがある。
高遠千早は絶対、恋愛もの枠ではないと言うことだ。