第五話
里佳と別れたあの日から数日経った。
「せんぱーい、まだ落ち込んでるんですか?」
給湯室でコーヒーを淹れる為に手に取ったマグカップを持ったまま、千早がぼんやりと突っ立っていると、花代子がひょっこりと顔を出す。どうやら休憩中に階下のショコラティエに行っていたようで、店のロゴが入った小さな紙袋を持って給湯室に入ってくる。
「いや、ちょっと考え事をね」
「それを悩んでるっていうんだよ」
千早の肩に乗っていた若宮が、くちばしで軽くこめかみをつついてツッコミを入れてくる。
花代子は紙袋をシンクに置いて、千早の持っているマグカップをさっと攫う。そしてテキパキと人数分のお茶を用意し始める。
「いくら陰陽師とは言っても、私たちも人間なんだからできることなんてたかがしれてますよ」
いつもの甘い口調は鳴りを潜め、淡々と言葉を紡ぐ花代子。もう千早は特に驚きはしなかった。
「自分に関わった全ての人を幸せにしようなんて、神様じゃないんだから無理ですよ。私は自分の手の届く範囲でいいと思うんです。千早先輩の手の届く範囲がどれだけなのか、私には分かりませんけど」
花代子は一見可愛らしい女の子だが、本質は非常に冷静な人間だと千早は常々思っていた。
「そうね」
出来ることと出来ないことをしっかり線引きすることは、意外と難しい。だが、それが出来ないとより多くのものを失うこととなる。
前の部署では無意識にそれが出来ていたが、職務内容が変わった今でも変わらず出来ると驕っていた。
どれだけ自分が傲慢だったのか、思い知らされた。
「まぁ、でも私や上野は冒険しなさすぎって頼子部長に怒られますけど」
ぺろっと舌を出して花代子は恥ずかしそうに笑い、千早もそれにつられて思わず笑みを浮かべた。
「あ、休憩中すみません。千早さんにお客様がいらっしゃってるんですが」
コーヒーを淹れたマグカップを持って給湯室を出ようとしたら、由奈がやってきた。
「私に?」
「はい。警視庁捜査五課の橘様という方なのですが」
「え、捜査五課って」
花代子がぎょっとした顔で千早を見つめる。
警視庁五課とは陰陽師や陰陽の術に関連する事件を取り扱う課だ。所属する刑事たちは陰陽師の資格を有しており、今日訪ねてきている橘も刑事であり、凄腕の陰陽師でもある。
「調伏課にいた時に知り合ってね。面倒なことをいつも聞きにくるのよ」
花代子に自分が持っていたマグカップを渡して、千早は受付へと向かう。
受付に顔を出すと、久しぶりに見る角刈りのおじさんが居心地悪そうに立っていた。そして鼻孔を煙草の匂いがかすめる。彼は重度のヘビースモーカーなので、煙草を吸っていなくても煙草の匂いが染みついているのだ。
「お久しぶりです橘さん」
声を掛けると、あからさまにホッとした表情を浮かべる橘に、千早は苦笑を浮かべた。
「久しぶりだな。若宮も久しぶり」
「おぅ。それにしてもおっさん、警察官のくせに挙動不審すぎるだろ」
「こんな若いお嬢さん向けの場所におっさん一人でいる時点で不審だろ」
げっそりとした表情を浮かべる橘。強面の警視庁の刑事でもこの乙女チックな場所はひどく精神力を削られるらしい。
「あれから体調は大丈夫か」
「はい。おかげさまで」
千早がにこやかに答えると、橘も嬉しそうに笑った。
「高遠にはまだまだ生きて頑張ってもらわんといかんからな。簡単にくたばってくれるなよ」
「私としては早く閻魔大王様のお膝元に呼んでいただきたいものですが」
「あっちに行ったとしても、高遠みたいな使い勝手のいい人材を遊ばせておく訳がないだろう。才能があっても辛いもんだな」
「本当に」
開き直ると、橘がぶはっと吹き出した。
このままここで立ち話をする訳にもいかないので、キリのいいところで話を一旦切って応接室へ案内する。
「それにしてもお前、すっごいところで働いてるなぁ」
「すっごいところで働いてますよ」
挙動不審なたちばなが周囲を見回しながら居心地悪そうに頷く。千早ですら未だに慣れていないのだから、橘にとっては異世界に近いのかもしれない。
「答えはなんとなく予想できるが、ここ、煙草は」
「全フロア禁煙です」
にっこりと満面の笑み浮かべて被せ気味に千早が答えると、千早の答えが待ちきれずに懐に突っ込んでいた手を渋々引き抜いた。
「さて、のんきにこんな所まで世間話をしに来た訳でもないでしょう。本題は?」
早速話の水を向けると、橘の纏う雰囲気が少しだけ鋭いものに変わる。
「いや、ここ最近若い女性を食い物にした恐喝事件が頻発していてな。話を聞いて妙に引っかかって、方々に話を聞きに回っている所なんだ」
予想していた通り少々ややこしい話の様で、千早は瞬きすらせず、橘の話にじっと耳を傾ける。
「見目の良い男をけしかけて男女関係に持ち込み、その時に部屋にカメラを仕掛けて撮った映像をばらまくと脅しをかけ、男たちの慰み者にされる」
「下衆な人間もいたものですね」
「まったくだ」
橘が眉間に深くシワを刻んでソファに沈み込む。
「ですが、事件として露見しているのなら、そこまで難しい話ではないのではありませんか?」
千早の指摘に、橘は表情を険しくした。
「それがそうもいかん。被害者全員、容疑者たちに関する記憶だけが抜け落ちている」
「声聞師の関与が疑われている訳ですか」
声聞師とは、国家資格を持たない民間の陰陽師のことを指す。医師や弁護士と一緒で、資格を持たない者が陰陽師を名乗ることは違法とされ、それを取り締まるのは橘たち捜査五課の仕事だ。「最初は二課が動いていたんだが、どうも声聞師の関与が疑わしい。正式にうちに話が回ってくる前に少しでも情報を集めとくかと思ってな」
おそらく被害者たちは声聞師によって、記憶を捜査するなんらかの術を掛けられていたのだろう。千早はふむ、と頷いた。
「分かりました。何かあったら連絡します」
「すまんが頼む」
「おいしいもの、期待してますね」
「おぅ、任せとけ」
橘がニヤリと笑って、右手の親指と人差し指で円を作って御猪口を呷る仕草を見せる。
情報はどんな分野でも重要な武器の一つだ。いつそれが自分に撮っての刃となり、盾となるかは分からない。
そんな思考に行き着いてしまう自分はつくづく恋愛の様な華やかな世界には向いていないと、千早は思い知らされて苦笑を浮かべた。
千早が恋や愛を知る日にまだまだ道のりが遠そうである。