第四話
「恋愛ってのはどうやったらできるんだろう」
その日の夜、千早は自宅で枝豆を頬張りながら、人型の若宮に問いかけた。
千早の問いに若宮は驚いて、食べようとしていた揚げ出し豆腐を机の上にベチャ、と落としてしまった。
「なんだなんだ。ついに乙女心が芽生えたか」
「まったく」
「だよなぁ」
はは、と若宮は乾いた笑みを浮かべながら、落としてしまった揚げ出し豆腐を箸ですくい上げて口に運ぶ。
「恋愛する感情をなんとなく想像はできるけど、やっぱり今の私じゃ恋愛感情は追いきれなくて」「想像できることの方が大事だろう。他人の感情を全て理解することなんて不可能だ。だが、想像することは可能だからな」
粗雑な言葉遣いだが、美しい所作で口に食べ物を運びながら、若宮が答える。
「何事も向き不向きがある。お前はどう見ても恋愛思考じゃないしな。でも、それはそれでいいんじゃないか。違う視点から見た方が答えが分かりやすい時もある」
そして一言多いが、彼の言うことはごもっともである。
「まぁ、お前にも人並みに恋愛してほしい兄ごころはあるが」
「ええ? 若宮がお兄さんなの? 弟じゃなくて?」
「そっちかよ……あのな、お誰がお前のオムツを替えてやったと思ってる」
「若宮様です」
「分かっているのならよろしい」
若宮は缶ビールをぐいっと男らしく一気に呷った。
千早は背もたれに背中を預け、天井を見上げた。
「お客様の為っていうのももちろん本音だけどさ、やっぱり単純に経験して見たいんだよね。そんなに夢中になれる素敵なものなのかと」
恋愛に憧れはあるものの、自分を狂わせるほどの激しい感情を抱くことが恐ろしいのかもしれない。
「お前の性分なのかもな」
「ええ?」
背もたれに体重を預けてのけぞっていた千早は、姿勢を戻して若宮と視線を合わせる。
「恋は盲目ってよくいうだろ。恋愛っていうのは良くも悪くも周りが見えなくなるもんだ。お前は人のそれより優れた目を持つが故に、視えなくなることが人より一層怖いんだろうな」
「ああ、そうかも」
恋は人を狂わせる。世界中にあるどんなものよりも劇的かつ強烈に。それを知っているから、本能的に避けてしまう。
「難儀なことだな。まぁ、周りが見えなくなるのが恋愛の醍醐味なんだが」
「マジか……みんなドMだね」
危険があると分かっているのなら、危険を回避することが鉄則である。なぜわざわざ危険に突っ込んでいくのか、千早には理解不能である。
「恋愛して見たいって気持ちになっただけでも進歩だろ」
「そうかなぁ」
結局答えが出ず、モヤモヤした気持ちを無理やり飲み下すように、千早はビールを呷って机に突っ伏した。
それから何度か里佳が相談にやってきた。
通うピアノ教室も決まり、順調に通っているとのこと。
大人になってからの習い事というのは、ただ一方的に教えられる子供の頃の習い事とは違うようで、楽しんで通っているらしい。
婚活は気が向いた時に行ったら良いというアドバイスをしており、たまにパーティーや合コンに参加しているらしい。
このまま穏やかに時が流れて、いずれ里佳が自分の力で己の進む道を見つけ出して欲しい、と千早は願っていたのだが、やはり世の中はそうそう上手くはいかなかった。
「千早さん」
とある日の昼前、午後のお客様たちのカルテに目を通していた千早に、受付嬢の由奈が少し眉根を寄せながら千早に声を掛けた。
「どうしたの?」
千早が話しかけると、由奈は千早の顔色を伺いながら口を開いた。
「あの、相田里佳様から今日の夕方に予約を入れてもらえないかと今電話が入っていて……当日のご予約はお受けできませんとお断りしても、どうしてもとおっしゃられていて……」
その瞬間、ピリ、と違和感が電流のように肌の表面を走る。何か良くないことが起こる前触れだ。
「受けましょう」
「え、でも……」
「責任は私が取るから」
千早が言い切ると、由奈は不安そうな表情のまま小さく頷いて、元来た道を戻って行った。
「何かあったのかね」
「でしょうね」
獣姿で千早の肩に乗っていた若宮は羽を大きく開いて伸びをし、千早はタブレットを手にとって里佳のカルテを呼び出す。
残念ながらこの手の直感は外したことがない。
せめて大事になっていないと良いと、今は願うことしかできなかった。
予約時間の十分前に里佳はやってきた。
どす黒い空気を引き連れて。
嫌な空気は里佳の負の感情なのか、それとも何か良くないものを引き寄せてしまったのか。
お客様用の椅子に座ったきり、里佳は俯いて口を開こうともしない。待てども暮らせども口を開きそうになかったので、千早から話を切り出す。
「相田様、」
「わたしは」
だが、千早の問いかけに被せるように理科が沈黙を破った。声がかすかに震えている。
「わたしは、かわいそうな、にんげんなんでしょうか……」
切れ切れになりながらも、里佳は何があったのかを話し始めた。
今度大学の同級生が結婚するというので、仲の良かった数人で集まって食事会をしようということになった。
知り合いのおめでたい話は里佳にも嬉しいことだった。だが、複数の人間が集まることが、里佳には苦痛で仕方なかった。
主役の話が粗方終わると、話の矛先は参加者に向いてくる。皆それぞれの恋愛の進捗状況や仕事の話、結婚している子は結婚生活や旦那さんの話を披露していく。
里佳は自分に話が振られないよう、ただひたすら気配を消して友人達の話に相槌を打っていた。
「里佳は最近どうなの?」
だが、ちゃんと当番が決まっているのかと思うほど、しっかりと里佳にも話が振られた。
「えっと……最近ピアノをもう一度習い始めたよ」
今思えば何も言わずにごまかしておけば良かったものを、つい口を滑らせてしまった。
里佳も誰かに分かって欲しかったのだ。
自分は今楽しいのだと。不幸じゃないと。好きなものと向き合えて幸せなのだと、認めて欲しかった。
だが、里佳の気持ちなど、その場にいた誰にも理解されることはなかった。
「どうすれば彼氏ができるとか、もっとこうすればいいのにとか、こっちが聞いても無いのに、自分勝手なアドバイスばっかり押し付けられました。挙げ句の果てには里佳にもいい人ができるよとか慰められて」
そんなに自分は惨めな生き方をしているのだろうか。
そして、自分は今幸せなのだと、胸を張れない自分自身にも嫌気がさした。
他人の価値観に振り回されて、自分を持てない。人に認めてもらえないと、満たされない自分。自分を不幸にしているのは自分自身だと、里佳も分かっていた。
分かっていてもどうすることもできなかった。
「あなたの言う通りにしても、何にも良いことなんてなかった」
力無い声で里佳が呟く。
その言葉に千早は強く唇を噛み締めた。
「相田様、私の説明不足の所為で不安を感じさせてしまい、大変申し訳ありません。ですが、」
「もう良いです」
千早の言葉を、里佳は容赦なく斬り捨て、勢いよく立ち上がった。
「陰陽師なんて頼った自分がバカだったんです」
自嘲の笑みを浮かべた里佳は、部屋を後にした。
里佳が去った後の部屋で、千早は閉じてしまった扉を見つめ、右手で顔を覆う。
あんな言葉を、自分が言わせてしまった。
人の心など誰にも見通すことなどできないのに、全てが見通せると、知らず知らずのうちに驕っていたのかもしれない。
自分の未熟さを眼前に突きつけられ、千早は大きなため息をついた。