第十一話
閉じた瞼の裏が明るい。
ぼんやりとしている記憶を手繰り寄せながら、瞼をゆっくりと持ち上げる。
目がしっかりと開いたと同時に、朧げだった記憶が一気に蘇った。
「っ!」
一瞬で跳ね起きると、自分が寝ていた場所は見たことがない部屋だということに気づく。着ている服も、花代子から借りたワンピースではなく病院服で、左腕には点滴の針が刺さっている。
血を吐いたところまでは覚えているが、そのあとの記憶がどうもはっきりしない。光政の顔がちらつくが、それがなぜなのか全く分からない。
ベッド横のテーブルには千早の携帯が置かれていたので、手に取って日時を確認すると、意識を失っていたのは半日程度だと分かった。
混乱を極める頭で懸命に記憶を整理していると、ゆっくりと引かれた。
「お。起きたか。気分はどうだ?」
部屋に入って着たのは若宮だった。
「若宮! ここはっ……!」
「櫻院総合病院だ」
若宮はベッドの近くに置かれていた椅子を引き寄せて座る。
「たまたま近くを通りかかった美門光政がここへ運び入れてくれた」
ついこの間も聞いた名前。こんなにも偶然が重なるものなのかと千早は眉根を寄せた。
「綻びかけた術は修復されたが、無茶をするとまた綻ぶぞ。周りに迷惑を掛けたくなけりゃちゃんと加減を覚えろだと。そうでないと命の保証もできんと医者がおかんむりだったぞ」
「深緒様は?」
「吉田さんと上野がついてくれてるから心配すんな」
ついつい昔の感覚に引きずられていた。有事の際に熱くなって加減を見誤ってしまうとはまだまだだなぁ、と千早はため息を零した。
「とにかくあと三日は経過観察の為に入院だ。俺は必要なもん家から見繕ってくるから、大人しく寝とけよ」
若宮が腰を浮かした時、病室の扉がノックされた。
「どうぞ」
千早の代わりに若宮が返事をすると、部屋に入って来たのは光政だった。
「じゃあ俺は行くな」
若宮が立ち上がって光政と入れ違いに部屋を出て行く。起きた千早の姿を見た光政は、穏やかな笑みを浮かべた。
「気がつかれましたか。気分はどうですか? ああ、無理はなさらないでください。そのままで」
居住まいを正して礼を言おうとした千早を止め、光政は若宮が座っていた椅子に腰を下ろす。
「本当にありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまって、お恥ずかしい限りです」
「迷惑だなんてとんでもない。高遠さんのお役にたてて何よりです」
光政は春の陽光のような晴れやかな笑顔を浮かべた。
会社から自宅へ戻る車内で、光政はいつもの道から車が逸れていることに気づいた。
「何かあったのか」
「はい。この先の駅で騒ぎが起きたようで、混雑しそうなので迂回しようかと」
この時、何故か妙な違和感が体を走った。喉に魚の小骨が刺さったようなもどかしい感覚。
「騒ぎの内容は分かるか」
「どこかの神が癇癪を起こしてこの先の駅の構内で災厄が起こったそうです」
助手席に乗っていた工藤が光政の問いに答える。騒ぎの内容に人外の者が関わっていると聞いて違和感はより大きくなって行く。
「騒ぎが起こっている駅へ向かってくれ」
「え?」
「良いから」
戸惑う運転手に重ねて指示を出す光政。
駅近くに到着して車から降りると、周囲の雰囲気は常とは異なってざわついていた。騒ぎの中心の方へ向かって歩いて行くと光政は小さく息を飲み、その原因を追って理解した工藤は違う意味で息を飲んだ。
竜巻が通った後のような荒れ果てた構内で、うずくまっている女性の名を懸命に呼んで励ましている少年の姿。
高遠千早とその式神だった。
光政は迷わず二人の元へと向かい、呆気に取られていた工藤は慌てて跡を追った。
「本当に何から何までお世話になりっぱなしで……なんとお礼を言って良いのか」
「とんでもない」
光政は爽やかに笑って首を緩く左右に振る。
「精密検査は受けないと聞きましたが、これを機に受けてみてはいかがでしょうか。憂いを断つことに越したことはありませんし」
「お気遣いありがとうございます。ですが、倒れた原因はわかっておりまして」
千早は少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「私は半年前の任務中に敵の呪詛を受けました。今は呪詛を封ずる術を掛けていますが、大きな術を使うときは呪詛を抑え込む力が緩んでしまうので呪詛の影響を受けてしまうんです。未だ力の加減ができなくてお恥ずかしい限りです」
千早が占術課に異動してきた最大の理由がこれだった。
案件のほとんどが人命に直結する調伏課に居れば、千早は早々に命を削ってしまうだろうと上層部が判断し、結果、千早を占術課に配属することを決定した。
使用する術は制限されても、千早の広い視野と鋭い第六感は健在している為、占術の分野で行かせないかという考えもあったらしい。
呪詛を受けて保護されながらなんとか立っている状況を、千早はできれば光政には知られたくなかった。
だが、ここまで迷惑をかけてしまった今、このことを話さない訳にはいかない。
光政は静かに千早の話を聞いていたが、話が進むうちにどんどん眉間に深いシワを刻んで行く。
「そして今回、神の暴走を抑え込むために大きな術を使ったんですか」
「あの場ではこの選択が最適だと思ったので」
少し怒気を纏う光政に、千早は少し困った表情を浮かべた。
「ある程度の暴走は予想していましたが、まさかあれ程とは正直思っていませんでした。今回の件は完全に私の落ち度です。ですが、後悔はしていません」
災いというのはある日突然降ってくる。それは今かもしれないし、明日かもしれない。その来たるべき日の為に後進を育てることこそが千早の為すべきことだった。
光政は小さく息を吐いて、千早を静かに見据える。
「あなたは無理をしすぎる。駅で倒れているあなたをみた瞬間、私は心臓が止まるかと思いました」
迷惑を掛けてしまったとは思ったが、まさかそこまで心配されていたとは露ほども思わず、グゥの音も出ない。
「本当に申し訳ありません……」
「あなたが無理をして人間がいることを覚えるべきだ」
「はい」
仕事で叱り飛ばされることはよくあったが、穏やかに諭されるような怒り方をされたのは久しぶりだった。
それに懇願されるように言われ、非常に罪悪感を刺激されてしまい、素直に返事をしてしまう。
一度ならず二度も窮地に陥った場面で助けてくれて、親身になって怒ってくれるとは、なんと義理堅い人だろうかと千早は感心しっぱなしだった。
「あと3日は入院が必要だと聞きましたが、何か困ったことがあれば気軽に言ってください」
しかもまだ世話を焼こうとする献身ぶり。
光政の申し出を千早はとんでもないと固辞しようとしていたのだが、あることを思いついて、恐る恐る口を開く。
「では、お言葉に甘えて一つ、お願いしてもいいでしょうか?」
千早の言葉に少し驚いたように目を丸くさせたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべ、先を促す。
「何か私にできる仕事をいただくことはできませんか。今のこの身では大したことはできませんが、できる限りお力になれるよう努めます」
次こそ光政は鳩が豆鉄砲を食らったような、ぽかんとした表情を浮かべた。
数秒そのままぽかんとしていたが、やがて気を取り直していつもの余裕の笑みを浮かべる。
「では、一つだけお願いしても良いですか」
「はい」
「退院したら私と食事に行ってくれませんか」
次は千早が豆鉄砲を食らう番だった。言葉の意味を考えるのに数秒掛かり、千早はなんとか返答を絞り出す。
「……私は何でも構いませんが、美門さんはそれで良いんですか?」
「はい」
光政の真意が分からず、不審なものを見る目つきで 光政を見つめる千早。
「今まで陰陽師の方とあまり関わったことがないものですから、色々とお話を伺って見識を広めたいんです。ホークアイと呼ばれたあなたなら、話題には事欠かなさそうだ」
なんだか腑に落ちないが、本人がそう望んでいるのならそうするしかない。
「分かりました。ご期待に応えられるか分かりませんが」
「ありがとうございます」
光政は実に嬉しそうだが、千早の頭上にはハテナマークが乱舞していた。
話もまとまり、そのあと2、3たわいもない世間話をしたあと、工藤が遠慮しいしい光政を呼びに来た。光政は顔をしかめながらも、また来ますと言って部屋を後にした。
そして夕方には頼子と上野を従えて深緒が見舞いにやってきた。
「……体の具合はどうなの」
小さな唇をツンと突き出して斜め下を睨みつけながら、バツが悪そうに深緒が問い掛ける。
「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
「心配などしていないわ」
少し落ち込んでいるようだが、元気そうで何よりだ。
「もー本当どうしようかと思って焦りましたよー。そこに美門さんがドラマみたいに登場して颯爽と千早先輩連れて行っちゃうもんだから、俺の方がマジ惚れるわーって思いましたね」
「なんであんたが惚れるのよ」
「やだなぁ。ものの例えですよ。俺と美門さんがそういう仲になっちゃったら、世の女性が悲しんじゃうからそんなことにはならないっスよ」
上野は清々しいくらいいつもの調子に戻っていた。女3人の冷めた視線さえ何のそのである。
「……千早」
上野のどうでも良い喋りが数分続いていたが、ふと喋りが途切れた時にずっと黙っていた深緒がゆっくりと口を開いた。
「明後日、もう一度斎藤殿に会ってくるわ」
深緒はもう覚悟を決めたのだ。失った恋と向き合う覚悟を。
「病み上がりで申し訳ないけれど、付いてきてもらえないかしら。あなたが良いの」
千早は座ったまま深く頭を下げた。
「謹んでお受けします」
それから2日後、千早が退院したその足で深緒と千早、そして上野は、斎藤の会社近くの公園で斎藤が来るのを待っていた。
日が暮れかけた夕方。晴れた秋の淡い水色とあたたかな茜色が美しいグラデーションで混じり合っている。
今日も前回と同じで千早と上野はカップルを装って、少し離れた場所で見守っていた。
「千早先輩! マフラーは!? 手袋は!?」
今日は公園ということで千早は自分の普段着でやってきたのだが、シンプルなニットにジーンズ、薄手のコートという装いで、上野が先ほどから色々と口煩い。下に保温効果の高いインナーを着ているのでそこまで寒くないのだが。
先日湯たんぽを務めていた若宮は、現在上空を優雅に旋回している。
「もし千早先輩が体調崩したら俺が社会的に抹殺される気が……」
「? そんなことないわよ」
「…………」
上野が半眼でじとりと恨みがましく千早を見つめる。
何をそんなに怖がっているのか千早には理解できず首を傾げていると、仕事が終わった斎藤が小走りで深緒の元にやってくるところが見えた。
「遅くなってごめん!」
「いいえ」
息を切らしながら謝る斎藤に深緒は緩く首を左右に振る。
「今日はわざわざありがとうございます」
いままで斎藤と会った時の深緒とは雰囲気が違っていた。斎藤もそれに気付き、すっと背筋を伸ばした。
「今日はお伝えしたいことがあるんです」
深緒は揺るがぬ瞳で斎藤を射抜く。
「私はあなたのことをお慕いしておりました。声を掛けていただいたあの京都の夜から」
斎藤が小さく息を飲んだ。そしてためらいながら口を開いた。
「ありがとう。深緒ちゃんの気持ちは嬉しい。でも、俺には裏切れない人がいるから」
ほんの少しだけ、深緒の口元が震えるが、きゅっ、と口を引き結んで美しい笑顔を浮かべた。
「……二心のない誠実なあなただからこそ、好きになりました。その想いを簡単に曲げられては困りますわ」
深緒は美しい所作で深く、斎藤に頭を下げる。
「これからあなたの歩む道に幸多からんことを、お祈りしております」
精一杯の強がりだとわかったが、これほど美しい強がりを見たことがなかった。
深緒はずっとその場に立って、斎藤の背が見えなくなるまで見送った。
「深緒様」
後ろからそっと名前を呼ぶが、深緒は微動だにせず、斎藤が去った後をずっと見つめている。
「本当に、恋とは複雑怪奇なものね」
「はい」
「……私には何がいいのか全く分からないわ。傷ついて、失って、何一つ良いことなんてない。でも、不思議と気分が良いのよ」
「はい」
万が一婚約者を捨てて自分の元にやってくるような男だったら、最初から好きになどなりはしなかっただろう。恋は手に入らなかったが、これで良かったと心のどこかで安堵しているのかもしれない。
今は悲しみが勝るけれども。
「深緒様、何か美味しいものを食べに行きましょうか」
千早の提案に、深緒はキョトンとした表情で千早の方へ振り返った。
「おいしいものとお酒を飲んで、悲しい気持ちは吹き飛ばしてしまいましょう。楽しかったこと、嬉しかったことだけを持っていれば充分です」
報われなかったことは事実だけ残ればいい。
「……そうね」
深緒は泣きそうな笑顔を浮かべて頷いた。




