第一話
長時間の移動で凝り固まった肩を鳴らしながら、高遠千早は東京駅構内を闊歩していた。
東京駅は常に混み合っているものだが、春先の行楽シーズンとなるとより一層混み合う。千早は押し寄せる人波を器用に縫いながら、新幹線の乗り場を目指していた。
千早とすれ違って行く人は、すれ違う瞬間に千早を二度見する。
千早自身は何の変哲も無いシンプルな黒のパンツスーツ姿で、働く女の典型的服装をしているが、その肩には立派な若い鷹が止まっているからである。
「はぁー、この季節は本当人が多いな」
「老いも若いも皆桜が好きだからね」
鷹の名は若宮。陰陽師である千早が使役する式神だ。
一昔前までは怪しげな占い師のような存在でしかなかった陰陽師という職業だが、2020年の現在では国家資格として認定されている職業だ。今や医者や弁護士と肩を並べるほどになっている。
というのも1970年、日本は八百万の神々による未曾有の大災厄を経験したからである。その当時、神々の怒りを鎮め、異形のものたちを調伏したのが民間で生活を営んできた陰陽師だ。
これを機に陰陽師は国家資格として認定され、今日に至る。
戦闘職種の陰陽師は式神を従えていることが多いのだが、陰陽師が生活に浸透した現在でも獣姿の式神は未だに驚かれる。若宮も人型になれるのだが、今日は人が多いところを通るので獣姿で千早の肩に止まっている。
「新幹線の時間までまだ時間がありそうだからなんかつまめるものでも買おうか」
「俺はビールとあたりめな」
腕時計を見ながら提案すると、若宮がすかさず自分の希望を述べる。千早はうんざりとした表情を浮かべながら口を開いた。
「あのね、家で飲むのは良いけど外で飲むのはやめてよ。若宮のせいで何回私が警察のお世話になりかけたと思ってるの」
若宮の人型の姿は、小学校低学年の男の子くらいだ。だが、実年齢は100歳を超えている。そもそも若宮は人間ではないので人間の法律は適応外だが、小学生くらいの男の子が缶ビールをあおっていれば善良な市民は思わず声を掛ける。その度に事情を説明し、謝られるのは千早であった。
「ん?」
絶えず人が流れている場所の中で人垣ができている。その人垣が気になった千早は、進行方向を変えた。
「なんか空気が淀んでるな」
「嫌な空気ね」
近付けば近付くほど肌を焼くような感覚がする。野次馬をかき分けて行けば、床にしゃがみ込んでいるスーツ姿の男性がいた。
「専務! 大丈夫ですか!?」
連れと思われる、若い男性がしゃがみ込んでいる男性の背中をさすりながら懸命に励ましている。周りの人は心配そうに眺めているだけだ。
「大丈夫ですか?」
男性の近くに膝を付いて声を掛けると、連れの男性が藁にもすがるような表情をして千早を見つめ、しゃがみ込んでいる男性ものろのろと顔を上げた。
顔から血の気が失せ、紙のように真っ白になっていたものの、思わず息をのむほど美しい男性だった。まるで西洋絵画に出てくるような圧倒的な美貌。そりゃあ人垣もできるか。と千早は納得した。
「看護師さんですか!?」
「いえ、陰陽師です」
切羽詰まった様子で千早はにっこりと笑って、国家資格を持つ陰陽師の証である上着の襟につけている桔梗の花をデザインしたバッジを見せる。
予想外の答えだったようで、連れの男性はぽかんとした表情を浮かべているが、バッジと肩に乗っている若宮を見て納得したようだった。
「この方には呪詛がかけられています。このままでは危険です」
「呪詛!? まさかそんな……!」
「事は一刻を争います。このまま呪詛を祓います。すみません、皆さん少し下がっていただけますか!」
いくら緊急事態とはいえ見ず知らずの人間に、はいそうですかと全てを託せるはずもない。二人のどちらかが決断した時、すぐに動けるように先に場所だけ確保しておく。
「彼女に任せよう……」
決断するまでにもう少し時間がかかるとは思えたが、意外と早く本人が決断を下した。汗の滲んだ顔で苦痛に歪みそうになる表情をねじ伏せ、クッと口角を持ち上げて彼は千早に微笑む。
「申し訳有りませんが、お願いします」
頭を下げる男に、連れの男性は目を丸くさせていた。
「はい」
千早はしっかりと頷き、両手で男の手を取った。
そして静かに目を閉じて意識を自分の手のひらから男性の手のひらへ伝わるように強くイメージする。
「天を我が父と為し、地を我が母とする。六合中に何斗、北斗、三台、玉女在り」
周囲の空気がゆっくりと動き出す。それに合わせて千早の短く切りそろえた髪が揺れる。言霊を重ねるごとに風が強さを増していく。
「左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後ろに玄武。前後扶翼す。急々如律令……!」
言霊を結ぶと風は治まった。男性は今目の前で起こったことに目を丸くさせている。その顔には驚きの色だけで、さっきまでの具合が悪そうな様子は綺麗さっぱり消え去っていた。
「ご不快なところなどは残っていませんか?」
「……全くない」
何が起こったのか分かっていないようで、男性はぽかんとしている。
「それは良かった」
にっこりと笑って手を離した。
男性が口を開こうとしたが、先に肩に止まっている若宮が嘴を挟んだ。
「おい、新幹線の時間やばいんじゃないのか」
「えっ嘘」
若宮の指摘に、千早は慌てて腕時計を確認すると、若宮の言う通り予約を取っていた新幹線の発車3分前だった。
「嘘言ってどうすんだよ。俺までどやされるのはごめんだぞ。さっさと走れ」
「すみません! 次の仕事があるので、失礼します!」
「っ、せめてお名前だけでも教えて頂けませんか」
「いえ! 名乗るほどの者ではありませんので!」
未だ膝をついたままの男性に向かって勢いよく頭を下げて踵を返した。
必死に走ったお陰かなんとか新幹線に乗ることができ、千早は安堵の息を吐いた。
「いやーそれにしてもおっそろしいくらいに綺麗な顔した兄ちゃんだったな」
新幹線の席に着いたと同時に、若宮は獣姿から人の姿を取って窓際の席に座る。こざっぱりと髪を切りそろえ、パリッと糊の効いた真っ白なシャツに短パンという、どこぞの私立小学校の制服のような出で立ちになる。
「ね。綺麗すぎて人間に見えなかった。最初はこっちに降りてきた神様が困ってるのかと思ったし」
鞄の中を軽く整理して座席の角度を調整し、ようやくひと段落した。
「あー疲れた……」
「ちょっと寝ておけ。着いたら教えてやる」
「そうする」
若宮の言葉に甘えて千早はスッと目を閉じる。数十秒後には眠りに落ちていた。
それからどれだけ時間が経ったか分からないが、なんとなく妙な気配を感じて目を開けると。車内販売の人に酒を注文する若宮と、困った表情をした乗務員がいた。千早が乗務員に謝り倒したのは言うまでもない。
この数ヶ月後、高遠千早は自分の生き方を大きく変えることとなる。