8-4 笑顔を忘れずに
「・・・・・そろそろ始めましょうか」
家を出て五分も歩かないうちに、シトリスは足を止めた。どこか遠い所に籠って修行と思っていただけに、少し意外だ。
「これからはお二人には別行動を取ってもらいます。暫く戻ってくることはできませんが、よろしいですね?」
「構わないけど、一つだけ。シューミルはこれを持って行って」
「はい。ありがとうございます」
夏芽さんからお守りとして貰った短剣を渡しておいた。短剣スキルもあることだし、これはシューミルが持っている方がいいだろう。それ以外にも幾らか渡しておこうと思ったが、〈身体収納〉で取りだしたものを渡してもシューミルは荷物入れを持たないので、嵩張るだけだろうとやめておいた。そもそも必要な物資は向こうで調達できると言っていたので問題ない、と思いたい。
「それでは開始しましょう」シトリスがパチンと指を鳴らす。
一瞬で視界が歪み。深い藍色の世界に変わった。
目の前には、シトリスが浮かんでいる。それ以外には何もなかった。
「先日定例報告会の際に使用した空間と同じ、魔力により構成された空間です。あなたは今からここで、百人の私を殺してください。最初の目標はこの私です」
シトリスは目を瞑って宙を漂っている。敵意は見受けられない。
〈身体収納〉で剣を取り出し、構える。が、シトリスはそのままで、攻めてくる様子は全くない。
「はぁ、あなたは甘いのですね。私はシトリスの分身です。面倒なので躊躇わずに殺してくださいまし」
呆れたように息を吐き出しながら、そうおどけてみせる。目は瞑ったままだ。
ユートはシトリスの方まで走り、剣で袈裟切りに――したつもりだったが、手ごたえは無かった。
「殺意が不十分です。仕方ないので動機を追加してあげましょう」
いつの間にか後ろに回り込んでいたシトリス。振り向いたユートに、目を瞑ったまま正確に回し蹴りを叩き込む。
ユートは大きく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。が、痛みは無かった。
「ここでは痛覚は最小限に、治癒力を最高に引き上げてあります。疲労も存在しません。存分に痛めつけて、存分に痛めつけられてください。そしてもう一つ、制限時間を追加しましょう。私を一時間のうちに、一人も殺せなかった場合、ペナルティーを課しましょう。あなたではなく、あなたの従者に」
シューミルを人質に取ると堂々と宣言する。
「ああ、別の世界にいるので、ここを探しても見つかりませんよ。再会するには方法はただ一つ、訓練を終了させる、つまり私を百回殺すことのみです。それでは、あなたが最初の私を斬り殺した所から、開始」
砂時計を宙に浮かべ、ふふっ、と笑う。目を瞑ったまま手招きするシトリスは、中学生くらいの風貌の女の子だが、人を惑わす魔性を含んでいた。
ユートは剣を構え、走り出す。今度は気の抜けた袈裟斬りではなく、気迫のこもった、剣筋のぶれない突き。シトリスはそれを笑顔のまま受け入れた。
左胸に剣が突き刺さると同時に、シトリスの輪郭が歪み、黒いどろどろの何かに変わってしまう。それと同時に、砂時計が回りだし、砂が零れ始めた。
「始めましょうか。二番目の私からは、そう安々とは殺されませんよ?」
黒いヘドロがずるずると動き出し、距離を取ったところで再度、シトリスの形に戻る。見開いた目は、赤く煌々と輝いていた。
ユートはぐっと、柄を握りなおす。
それが、仇となった。
「おやおや、早速気を抜きましたね?」
光る双眸が揺れたかと思うと、一瞬で距離を詰められる。魔法を使ったわけでもなしに、とうに人間の限界を超えていた。
鳩尾に痛烈な一撃。怯んだ隙に足をかけられ、転んだところを踏みつけられる。
肺の中の空気を吐きだしてしまい、呼吸がうまくいかなくなる。痛みは無いけど、苦しかった。
「体へのダメージや痛覚が無くても、苦しみは残ることを忘れないように。立ちなさい」
シトリスはそれ以上の追撃を加えず、素手のまま距離を取った。いつの間にか手を話してしまっていた剣を拾い、構えなおす。ユートは反撃をすべくシトリスに向かって走り始めた。
もう一度、突きを繰り出す。
「同じ手は通用しませんよ」
「わかってる!〈身体収納〉〈連鎖する四肢〉〈身体収納〉」
突き出した剣を身体収納で回収、連鎖する四肢で生成した新たな腕からもう一度身体収納で剣を取り出し、潜り込むように躱そうとしたシトリスの背に突き刺す。
「ふむ・・・・まぁ及第点ですね」
そう言いながら、二人目のシトリスも黒に溶けた。
「油断と慢心、生半可なものと同じ手は認めません。それでは三人目、開始」
ユートは地を蹴り、次のシトリスを殺すべく剣を振った。
三人目のシトリスも、四人目のシトリスも、その妖艶な、全てを見透かし嘲笑うような笑みを、崩さない。




