備前 奏の方程式2
意外な話しだが、備前 奏の部屋は、普段の堅苦しい言動に反しファンシーなグッズで埋まっている。
1LDKの玄関を開いて最初に目に付くのが、右手の靴箱の上にある子猫のぬいぐるみの隊列。前衛が五匹の後衛が三匹。そして、それらは、そのつぶらな瞳で来た者を見上げるよう絶妙な角度で配置されていた。
そして、靴を脱ぎ居間にたどり着けば大小様々なぬいぐるみが出迎えてくれる。
背の低い食器入れの上には特大の熊が無意味に幸せな笑顔を浮かべ、二つある白のソファーには等身大の犬と猫が二足歩行で腰を下ろしている。
「ここまでくるとファンシーというよりファンキーだよね」
「私の部屋に文句をつけに来たのか?」
そう言って奏はブレザーの上着をおもむろに脱ぎ、ソファーの端に引っ掛ける。
「何か飲みたいなら言えばいい。冷蔵庫に入っている」
「ごめん、言えばいい、の意味につながりが感じられないんだけど」
士郎の言葉を無視しつつワイシャツのボタンに指をかけたところで、
「奏ちゃん!」
「ん? なんだ士郎」
その間にもボタンを外す作業は続いており、左右に分かれていく白い布の隙間から透き通るような肌と純白の下着が覗き、
「うわあぁぁーーー! ダメダメダメ!」
慌てて彼女の前に駆け寄ると、そのままボタンを外し続ける両の手を掴んで止める。
「士郎突然なにをする」
「何しようとしたかわかってる? 常識と羞恥心って言葉知ってるの?!」
「一つ目の質問は簡単だ、答えは着替え。そうでなければボタンを外す必要はないからな。そして、二つ目の質問は愚問だ。花も恥らう十七の乙女に何を言う」
「だったら僕の事意識してよ!」
真っ赤に染まっているのは奏ではなく士郎の方だ。普通ならば立場は逆であろうに。
「今更何を。一緒に湯を共にした仲ではないか」
「小学生の時の話しだよ!」
「………士郎」
とここで呆れたような奏の声。
「そこまで言うのならばいつまでも私の手を握っているのはどうかと思う。それに私よりも身長の低い君がその姿勢でいるとシャツの切れ間から覗く私の素肌が………」
「ゴゴゴゴゴゴメン!」
慌てて手を離した際に、それまで押さえつけられていたシャツがはだけへそまであらわになってしまう。そして、かすかに視線を上げれば隠そうともしない胸の谷間が目に入り、
「うわぁぁぁーーー!」
士郎は、これ以上はないと断言して構わないほど顔を染め上げ、そのまま逃げ出すように玄関から出て行った。
そして、それから十分ほど時が流れてから、士郎は着替えの終わった奏の部屋に戻ってきた。
「士郎、君に必要なのは落ち着きだと思う」
「ごめん、落ち着きだけが全てじゃないと思うんだ」
向かい合わせに配置されたソファーの空いてる方に腰を下ろし、改めて奏と向き合う。
着替えたと言ってもノースリーブのグレーカラーカットシャツで下はジーンズ地のスリムパンツ。露出度だけなら前よりも増している。
「奏ちゃん、お願いだから着替える時は事前に言って」
「構うことはない、私と君は付き合っているのだから。夫婦と呼んでも相違ない」
いつの間にか握られていた炭酸飲料の缶をあおりながらさらりととんでもない事を口にする。
「相違あり過ぎて突っ込みどころ満載だね。言っとくけど、皆は皮肉や嫌味で言ってるんだから真に受けないで」
「そうだな。私達の年齢では結婚も出来ないし、接吻はおろか婚前交渉もない。付き合っているというよりもプチ付き合っているが正式な呼称だな」
「間違ってもクラスの中で言わないでね。ジュダルあたりがうるさいくらいが騒ぎ立てて、他のクラスまで飛び火するから」
年齢に見合わぬ疲れを感じさせる吐息をついてうなだれる。
「ん? 先日ちょっとした事故で唇を重ね合わせそうになった事件を話した時のことか?」
「ごめんて言ってばかりだけどごめん。会話という言葉の意味が揺らぎ始めたから本題に入ってくれないかな。聞きたくないけど」
「君は本当に奇妙な事を言う。なんだったら私一人で計画を進めてもいいんだが」
途端、士郎は己の肩に今まで以上の重みがかかったような錯覚に襲われた。
「んーと、奏ちゃんを一人で行かせるのは、安全装置のない核ミサイルを持たせるのと変わらないから、全力で止める為に教えて」
「その遠まわしで意味のわからない言葉にあえて簡潔極まりなく答えよう」
奏は持ったままの缶をテーブルに置くと、大きく頷き右手を上げて窓の外を指差した。
「壁を越える」
その先に広がるのは授業を終え帰宅する少年少女達の姿と落ち行く太陽。そして、遥か彼方で何もかもを被い尽くした壁と呼ぶにはおこがましい無機質のカーテン。
奏は士郎を視界に収めたまま、士郎は彼女が指差す先を呆然と見詰めたまま。そして、奏はもう一度言った。
「壁を越える」
「きっと現代語の意味がまるっきり変わったんだと思うけど、新しい現代語の辞書の中では、壁を越えるって言う言葉はなんて意味なのかな?」
壁、それは学園都市全土をおおう壁ならぬ巨壁である。そして、それは外からの害悪を阻むための防波堤というよりは、その中で生活する少年少女を束縛する刑務所の壁と言った方がしっくりくる。無論、一般の生徒でなく奏のような特殊な人間だけが一方的に思っている事だが。
「ふむ、私の中で壁を越えると言う言葉は、言葉の通りそのままだったと記憶している。当然、同じ言葉でも裏の意味を持たせるなら話しは別だが、裏も表もなくそのまま言ったつもりだ」
「余計問題だよ!」
物心ついた時から学園都市にしかいたことのない彼等は、当然の事ながら『外』を知らない。そして、当然のことなのだから知ろうとはしない。極一部を除いて。
「この前の襲撃も相当危険度高かったけど、今回はダメ! 絶対ダメ!」
学園都市の扉は年に一度だけ開くと言われている。卒業生である少年少女はその扉をくぐって初めて外の世界と出会うのだ。とても近くであまりにも遠い世界と。
「無論、今日明日にでもすぐ出ると言っているわけでなく・・・」
「そ、そうなんだ。安心したよ」
「今日と土日を使って、壁から展開されている防護障壁を解析し分解。そして、来たるべき時に備えるつもりだ」
「結局はそういうことなの?!」
とここで、奏は大きく息をつき、窓の向こうに広がるオレンジがかった空を見詰める。
「私は見てみたい。ここではない空を。果てなく広がるという海を」
「・・・それは」
「知らない大地を踏みしめたい。ここではないどこかへ行ってみたい」
学園都市に住む少年少女は、卒業の日まで外の世界を知らない。というよりも知れない。そういうことになっている。だが、言い方を変えるなら、卒業の日まで待つことが出来れば確実に見ることが出来る。知ることが出来る。
「目的もなくただ待つだけの日々など耐えられない。そんなのは死んでいるのと変わらないじゃないか。ならば私は外を見る。見た後に、自分の進む本当の道を見つける」
奏はたまたま戦闘学科に所属しているだけだ。別に深い思い入れがあったわけでもなく、進路指導試験で向いていると判断されたため入っただけの話し。
「でも、やっぱり危険だよ。壁を越えようとする人たちは、守護者……ゲートキーパーにやっつけられちゃうんだよ?」
まるで自分のことのように心配のまなざしを向ける少年に、奏は屈託なく微笑んで見せた。そして、言う。
「それは大丈夫だ。あの化け物は君が倒すという『公式』が成り立っているのだから」
「はぁっ?!」
思いがけない自分の役割に士郎はまたもや身を乗り出したところで、奏はその頭を両手で包み、無防備な額に唇を重ねる。
「っ!」
「士郎」
一瞬何が起こったのかわからなかった士郎だが、奏の呼ぶ声で我に帰り、たちまち頬が染まっていく。そして、その頬を包む細い指先を慌てて払ってソファーに腰を落ちつけた。
「君は私が好きだ」
疑問系でなく気持ちが良くなる程の断定だ。
「う、うん」
「よろしい。そして、私も君の事が好きだ。ん? なんだその顔は、疑っているな? 君のような弱気で要領の悪い男が、触れれば折れてしまいそうな清楚で儚い傾国の美女に好きだと言われるのは、あまりにもあり得ない現実だと疑っているな?」
「好きっていう概念も信じられなくなってきたよ」
「何が「も」なのか理解できないが、話しの続きだ」
奏自身もソファーに深く座り直すと、艶然とした微笑を浮かべたまま口を開く。
「君の好きな大切な女性が一人で壁を越えようとしているとする」
「てゆーか越える気満々じゃない」
「そこで、ゲートキーパーという科学と魔法と他様々の技術の集大成である自動人形が立ちはだかる」
「知ってる? クラスの吹雪が禁猟区で狩りしてる時見つかって一緒にいたアレフも半殺しにされたそうだよ。全治三ヶ月だってさ」
士郎の突っ込みに構うことなく奏は続ける。
「か弱いその少女は、自動人形の凶刃によって命を落とそうとしている」
「壁を越えるのは最大の禁則事項だからね」
その禁則事項は辞書ほどの厚さを持つ生徒手帳にびっしりと書き込まれており、その禁じられた行為を運悪く見つかった生徒は、守護者とやらに見合った罰が与えられる。軽いものは便所掃除から、重いものは死まで。
「だが、その場に少女と深く愛し合った少年が駆けつけたとする」
「愛し合ったって………鎖でがんじがらめにされた愛だろうけど」
「気のせいだ。とにかく少年は駆けつけた。そして、その少年は自分の愛した少女を見捨てることが出来るのだろうか? 否! 少年は己の命を賭してでも愛する少女を守るだろう」
「命を賭してって………僕のウェイトやけに重くない? それに愛する少女って、奏ちゃんが言った通り僕達はプチ付き合ってるっていう程度じゃないか」
士郎は何度目か数えるのもバカらしくなるほどの溜息をつく。だが、それもそこまでだった。
「そうか」
言うなり奏はテーブルを飛び越え、犬の人形を蹴り飛ばし、一瞬で士郎を押し倒す。
「!?」
突然のことに理解が追いつかなかったが、士郎は己の状況だけは理解できた。見上げた先にあるのは馬乗りで見下ろす少女の美貌。そして、その口元の薄い笑みは先程よりも艶やかさが増している。
「なら、既成事実を作ってしまおう」
「はいっ?!」
「ふむ。それはつまり了承ということだな?」
奏は返事も待たず、己の胸元を隠す薄い布のボタンを外していく。
「ちょっ、ストップ!」
「ん? 君は『はい』と言っただろう?」
「言ってないよ!」
「まあ、この際、その場の雰囲気に流されたという建前を理由に続行する」
「建前って言ってる時点でダメじゃない!」
はだけていく胸元を士郎が抑えようとするのを察知したのだろう。奏が両膝を使って腕の動きを阻止する。
「気にするな」
「気にしてよ!」
無論、気にするまでもなくシャツのボタンを全て外し、豊かな胸を隠す黒い布地が嫌でも目に入り……ここであることに気づく。
「下着の色が変わってるんだけど………」
「勝負下着だ。無論、パンツの方も黒できわどいぞフフフ」
「フフフじゃない!」
怒鳴りながらも、体の各所に絶妙な束縛がかかっているため、逃れようにも逃れられない状態だった。
「私としても初めての経験だから、君の期待には応えられないかもしれない」
「僕の期待は離してもらう事だってば!」
「そう言っても身体の方は正直だぞ?」
「官能小説のセリフを地で言わないでよ!」
やはり構いもせず、両の手で士郎の顔をはさみこむ。そして、交わりあった黒の双眸がゆっくりと遠から近へ近づいていく。
「奏ちゃんストップだってば! こういうことはもうちょっと大人になってから………」
下着に包まれた胸元が士郎の胸板に触れ、そこで無力な少年が更に叫びわめく。
「しかし、心から愛し合わなければ、士郎は私の事を助けに来てくれないのだろう?」
「心とか愛とか依然に行動のみじゃないか!」
「だから既成事実と言っただろう?」
「僕の意志を尊重してよ!」
そして、奏は瞳を閉じ、紅を塗らずとも鮮やかな唇が引き付けられるように迫っていき、
「わかったよ! 何でも手伝うから止めてってば!」
「……………。」
互いに触れ合う寸前で静止する。
「本当に?」
「手伝うよ、だから離れてってば!」
その瞬間、怪しい笑みから一転、にっこり笑うと唇にではなく頬に口付けし、それから士郎を解放する。
「そうか。君ならきっとそう言ってくれると信じていた」
しゃあしゃあと言って己のソファーに戻ると今度は言われずとも、はだけたシャツのボタンをとめていく。士郎はそれを見ながら、ある可能性を思い浮かべる。
「………もしかして最初から最後まで確信犯?」
「ん? わざと君の脳内麻薬分泌を起こさせた上で部屋から出させ、勝負下着に替えてから露出の高い服を着用し、身体と身体の触れ合いに興奮していた君の劣情に付け込んで私の願いに同意させた事を言っているのかな? それは正しい推測だ。君も私の描く『公式』を理解しつつあるということだね」
士郎は口を開けたまま呆然とした。しかし、それも一瞬、テーブルを両手で叩き、叫ぶ。
「興奮したって・・・それは奏ちゃんの方であって僕は違うし、ええとそうじゃなくて……そう! そういうことならこの話しは無効だよ!」
「私もそう言うと思ってだ」
言うなり立ち上がり、壁にかけてあったパンダのぬいぐるみに手刀を叩き込んだかと思えば、引き抜いた手には一枚のカラー写真が挟まれていた。
「フフフ、良く撮れているだろう?」
「これなにって、ええぇぇぇーーーー!」
奏の放った写真を受け取り、士郎は絶叫した。なぜなら、その写真が映していたのは、シャツのはだけた奏の胸元で両の手を握る士郎の姿だったからだ。
「なんだよこれ!」
「君は写真すらも知らない原始人なのか?」
「そうじゃなくって!」
握り締めていた写真を渡してきた本人に突きつけて、
「何でこんな写真撮るんだよ!」
「簡単な事だ。約束を反胡しようとする不届き者に現実を知らしめてやるためだ」
奏は言って両腕を組み大きく頷く。
「例えばとある少年は、己の卑小さの余り、最愛の少女の元から去ってしまう」
「最哀の間違いじゃない?」
「だから、花のように可憐な少女は、少年との甘い蜜月の日々に映した写真を大事にするんだ」
パチンと指を鳴らすと、周囲の人形が、一斉に写真を吐き出していく。それは、ちょっとした怪奇現象じみていて、ある意味背筋が凍らされる現象だった。
「そして、少女はその写真を他の人間に見せて、自分の愛情を確かめようとする」
「ごめん、意味わかんないよ」
意味はないが奏は頷く。
「そしてこう言う。彼は私の乳房に触れ、それどころか身体の自由を奪い、怯えて何も出来ない私を陵辱したと………」
「さっき甘い蜜月とか言ってたじゃないか! それに、自由を奪われたのは僕の方で………」
言い続ける士郎の口を手で遮り、奏が代わりに言葉を続ける。
「司法局はそう思ってくれない。腕のいい弁護士を雇うことだ。しかし、それが嫌なら私の願いは聞いてくれるな? ちなみに、拒否したら全ての写真をクラスでばら撒く。すると不思議なことに、私が訴えなくとも君は法廷に立たされ、会った事もない証人達が君の人柄を語るだろう。それに………」
もはや、そこから先は聞こえていない。目の前が暗くなっていくのを自覚しながら、士郎は頷くことしか出来なかった。
ちょっと投稿時間が変るかもしれません