永遠の少年
よくわからない習作を発掘した。
ウルリーカの一日は、まずご主人様であるシュレインを起こすことから始まる。
「……ご主人様、起きてください」
ウルリーカが幾度か声をかけても、シュレインはぴくりともしなかった。いつものことと思いながらも、内心ため息を吐きたい思いで、シュレインの華奢な肩に触れ、揺する。
「ご主人様!! いい加減に、起きてください!」
「……」
白い瞼は未だ閉じられている。この時ばかりは、まるで人形のように美しい顔が少しばかり憎らしい、とウルリーカは思った。無反応を決め込むシュレインに毎朝呆れつつも、ウルリーカはゆっくりと口を開いた。
「シュレイン様、起きてください」
かつてように名前で呼ぶすると、ようやく満足したのだろうか、シュレインの白い瞼がゆっくりと開いて、そして薔薇色の唇を至極愉快そうに歪め、微笑みを浮かべた。
「やあ、お前も朝から強情だね。初めから名前で呼べばいいのにな? ウルリーカ」
シュレインの肩に添えられていたウルリーカの手を取るなり、シュレインは満足げに歪めている口元に持っていき、眉を顰めるウルリーカに挑戦的な視線を差し向けた。
ウルリーカは現在18歳(推定)である。朝から頑固な態度を決め込んでいたシュレイン・エンストレームの侍女をしている。
ちなみにウルリーカとは、12年前にシュレインに拾われたとき、シュレインによって名付けられた名である。当時のウルリーカはおよそ6歳頃の幼い子どもだった。細雪の降る寒い冬の夜、エンストレーム家近くの道端に転がっていたのを偶然シュレインが目を留め、そのままエンストレーム家に迎え入れられた。当時のウルリーカには、そのとき何故そんなところに転がっていたのかは分からない。
ウルリーカには、そのときの記憶どころか、シュレインに拾われる以前の記憶が一切なかった。それは、今も同じである。年齢どころか、自分の名前すら、ウルリーカは覚えていなかったのである。
気まぐれなのか親切なのかは不明だが、そんなウルリーカを気に入ったらしいシュレインは、凍えていたウルリーカを温かい風呂に入れ、これまた温かく大変おいしい食事を振る舞った。もちろん、それらを手配したのはシュレイン自身ではなくエンストレーム家の侍女の女性たちだが。
その後、すっかり元気を取り戻したウルリーカが、自分の名前すら答えられずにいたことを不憫に思ったのか……いやシュレインのことであるから、おそらく単なる気まぐれにすぎなかったのだろうが、そのまま身元も分からぬウルリーカをこのエンストレーム家に迎え入れた。
そのときのウルリーカの服装や全く荒れていない手などから、ウルリーカは実はそれなりに裕福な家の娘ではないかと思われた。しかしここらで子どもが行方不明になった家などどこにもなく、エンストレーム家が手を尽くして情報を集めたが、ウルリーカの身元が結局明らかになることはなく、そのままエンストレーム家で引き取ることになっていた。
その後、シュレインはウルリーカの処遇を、まるで養女のように取り扱い、高等なマナーや教育を惜しみなく施した。しかし、あくまでウルリーカはエンストレーム家の養女ではない。
この国では、16歳から成人となる。ウルリーカには記憶がないため、正式な誕生日は不明であるなので、あの日以来、シュレインに拾われた日をウルリーカの仮の誕生日としていた。そしてシュレインから拾われた日から10年目の日、推定16歳の誕生日として、ウルリーカは侍女としてシュレインに誠心誠意尽くし、必ずや御恩を御返しすことを心に決めたのであった。
そんなウルリーカの一日の仕事は、シュレインを毎朝起こすこと、シュレインにお茶を淹れることくらいで、あとはシュレインに呼びつけられたときに、命令に応じることくらいである。
「ご主人様、お茶をお持ちいたしました」
ウルリーカが侍女として働き始めて、2年経つ。侍女として、慣れたといえば慣れたかもしれない。が、相変わらずシュレインは、ウルリーカが侍女仕事することをあまり快く思ってはいないらしく、ご主人様ではなく昔のように名前で呼ぶことをウルリーカに求めていた。しかし、他の侍女たちがシュレインのことを名前で呼んでいるはずもなく、ウルリーカだけが特別なのはどうもいけないと、あくまでけじめをつけたいと、ウルリーカは頑なにそれを拒んでいるのだが。
シュレインは、今も相変わらずウルリーカに対し過保護がすぎるのだ。ウルリーカとしては、あまり甘やかさないでほしいと思っている。
「ああ、ウルリーカ。お前の淹れる紅茶も、少しはマシになって来たな。牛の歩みのような進歩だ」
「……ありがとうございます」
「ははっ、少しは言い返せよ。近頃のお前はどうも少し面白みに欠ける」
「そうでしょうか。申し訳ございません」
ウルリーカが慇懃に礼を取ると、カップに口をつけながら、シュレインは片眉を上げた。相変わらず言葉は辛辣だが、ウルリーカがどれほど失敗をしようと、シュレインがウルリーカの失敗を咎めたことはない。カップの中身をゆっくりと飲み干すと、シュレインは頬杖をつきつつ、ウルリーカのことをにやにやとしながら眺めた。
「侍女服姿のお前もなかなかそそるが、しかしだなウルリーカ。お前には、私がお前のために贈ってやったドレスを着て、私の隣にいてほしいのだが。未だ考え直す気はないのか?」
「勿体ないお言葉をありがとうございます。しかし、何度も申し上げておりますとおり、そのようなつもりは一切ございません」
ウルリーカがいつものセリフを吐くと、わざとらしいため息を吐きながら、シュレインは冷たい視線でウルリーカのことを射抜いた。
「私の背丈を超したあたりから、お前は随分と強情になったな?」
ウルリーカは、その言葉に返す言葉が見つからず沈黙した。
シュレイン・エンストレーム。ご主人様のフルネームである。エンストレーム家はこの国唯一の公爵家で、ご主人様自身は前王の弟にあたるらしい。因みにエンストレーム家には、現在ご主人様以外には家人はいない。
今では全く公の場に姿を現さないので、ごく僅かな者しか知らないことであるが、ご主人様の容姿は実は子どもである。外見年齢はおよそ12歳頃と思われる。だが、それはご主人様の実際の年齢ではない。実年齢が一体いくつであるのかは知らない。
少なくとも、12年前にわたしが初めてご主人様に出会った日には、ご主人様は今の12歳ほどの容姿をしていた。そしてこの12年間、ご主人様の容姿は全く変化していない。あの日のまま、まるで命の時計の針を止めているかのように、あの日と変わらぬ姿を留めている。
初めてご主人様を見たときに、なんと美しい少年なのだろうと思った。闇夜のような深い漆黒の髪、それに対してさながらアメジストのような繊細さ宿した紫の瞳。白い肌は、あの夜の細雪のような白さと儚さを秘めている。少女のような薔薇色の頬と、ぷっくりとした愛らしい唇。長い御髪を後ろで一つに束ねていることもあり、少年的美しさを持ちつつも、どこか少女のようなかわいらしさを持っている。このように美しいひとを、わたしは今まで見たことがない。
「……わたしは」
「言わずともよい。お前の気持ちは分かっている」
ご主人様の瞳がすっと細まって、ほんの少し困ったような表情がわたしの心を一瞬にして捉えた。わたしは、その瞬間に子どものように泣きそうになった。
わたしはずっと、早く大人になりたかったし、けれど同時になりたくはなかった。ご主人様は初めて出会った日から、全く変わらないのに、わたしだけが大人になってゆく。だが、それは見た目だけで、今でもわたしはこの方に何から何まで甘え切っている。ご主人様に望まれてもいないのに、それでもわたしはご主人様のお役に立ちたかった。不遜にも、恩返しをしたいと思った。一生掛かっても返せるかどうかも分からないのに。侍女の真似事をして、ご主人様を困らせて、それなのに。
「ウルリーカ」
ご主人様の声が、わたしを甘やかそうとする。誘惑する。かつての幼い頃のように、呼ばれるままに駆け寄りたい。そしてその手で撫でてもらいたい。抱きしめてもらいたい。幼い頃のように。
でも、それはもう許されないことなのだ。だって、わたしはあなたに何もしてあげられない。
「おいで、ウルリーカ」
だからどうか、甘い誘惑で弱いわたしを惑わせないで。
ウルリーカが、シュレインよりもまだずっと小さな女の子だった頃の話だ。いつだったか、ウルリーカはシュレインに尋ねたことがあった。
「シュレインさまっ! シュレインさまっ!!」
「なんだ、どうしたウルリーカ?」
「あのね……っ?」
「怒りはしないから、何でも言ってみろ。ほら、ここに来るといい」
「はいっ! あのね、シュレインさまっ」
「うん?」
幼いウルリーカは、呼ばれるままシュレインの膝の上に座って、ウルリーカのぴょんぴょんと跳ねている癖っ毛の髪の毛を撫で付けるシュレインのことを見た。まるで父のような、あるいは兄のような、ウルリーカにとって世界で一番大好きなひとである。
「どうして、シュレインさまは、背が伸びないの? わたしがここに来てから、シュレインさまの背があまり変わってない気がしますっ」
「ふっ! これまた直球で来たな。ウルリーカの愚直さは果たして欠点かあるいは美点か」
「ぐちょく?」
「うん? まあ、かわいいって、意味だな」
「ほんとう!? ウルリーカ、かわいいんです?」
「……まさに、そういうところだな」
くつくつと喉を鳴らして、愉快げに笑うシュレインの髪を、先ほどのシュレインの所作を真似るように、不思議そうに目を丸くしたウルリーカが撫で付ける。そんなウルリーカにいとおしげに目を細めたシュレインは、ウルリーカのつるりとした額にそっと口付けた。
「私の背は伸びない。永遠にこの子ども姿のまま変わることができないんだ」
「えっ、ずっと子どものままなのですか?」
「そうだな……いつかウルリーカも私より先に大人の姿になってしまうだろう。それにしても、まだまだ先のこととはいえ、いつかお前に身長を抜かれるというのはなんだか大いに癪だな?」
「どうして、シュレインさまは、大人になれないのですか?」
「……っふふ」
穢れなき純粋さを宿した、ウルリーカの円な瞳は吸い込まれそうなほどに美しい。ウルリーカの愚直さを、シュレインは愛している。ウルリーカを腕の中に抱き込み、ウルリーカの頭の上に頤を乗せた状態で、シュレインはウルリーカからは見えないことをいいことにひっそりと悲しい目をして言った。
「昔、愛した女の死の瞬間に呪いを受けてな。それ以来、この姿のままだ」
シュレインは、不死ではないが不老だった。何年、何十年経っても、少年の姿のまま変わることはない。永遠の子ども。大人になることはできない。少年の姿のまま時を止め、ひっそりと隠れるようにして生きている。解けない呪いは、今もシュレインの肉体を、心を苛んでいる。
「……どうしたら、その呪いは解けるのですか」
シュレインに抱きしめられたままのウルリーカが、シュレインの胸元でくぐもったような声で問いかける。
「……内緒だ」
ふだんのシュレインからは想像もつかないような、ずいぶんと弱々しい声で、絞り出すようにして、そう囁いた。ウルリーカの幼い心は、そのとき初めて切ないという感情を知った。心がじわじわと苛まれて、呼吸が止まる。初めて覚えた切なさに、ウルリーカは訳もわからず泣きたくなった。
「……シュレインさま、わたしずっとあなたの傍にいます」
「ウルリーカ」
「だから……ひとりぼっちみたいに、悲しまないで」
ウルリーカが、シュレインを慕う気持ちは、切実なただひとつの真実だった。ウルリーカの幼い拙さも、それは何より価値のあるものだった。少なくとも、その日、その言葉を受けたシュレインは確かに、穏やかな微笑みを浮かべて笑っていたのだから。
「ウルリーカ」
大人になるという残酷さ。変わってしまうこと、忘れられることへの恐れ。かつて、置いていかれてしまうと思っていたのはウルリーカの方だった。けれど今、早足で大人になって行くウルリーカの方が、シュレインのことを置き去りにしていっている。
「お前が心から慕う相手ができたら、そのときは私に言うんだよ、必ず」
ウルリーカを撫でるシュレインの手は、幼き頃の記憶より何一つ変わってはいない。変わってしまったのはウルリーカの方だ。
「……はい」
彼は兄であり、父であり、ウルリーカが世界で一番心から慕う相手である。けれど、あまりに時間の流れが違いすぎる。いつか忘れられるんだろうか。いつか置いて行くのだろうか。猛スピードで襲いくる変化の荒波の中で、その手を取り続けることがいかに難しいのか。そのことを、もう知ってしまっている。
シュレインの呪いは、もう二度と解けないかもしれないと、いつか彼が言っていた。愛する女を喪った時点で、もはやほとんど不可能になってしまったのだ。ならば、彼はこのまま時の流れから永遠に切り取られたまま、様々な人から忘れられ、置いて行かれるのだろうか。
「ウルリーカ」
この幼い愛は、きっと何度やり直したとしても、恋にはなれなかった。