現の国のアリス
「白うさぎ……?」
爽太の突拍子のない言葉に少し唖然としてしまった。
「本当にいたんだよ!」
「爽太君、どこで見たのかしら?」
先生が聞くと、爽太は元気よく答えた。
「森だよ。あそこの!」
「森かぁ。誰かのペット、とかかな」
爽太から受け取った洗濯物を干しながら答えると、納得しなかったのか爽太は少しムッとしながらいった。
「でも首輪ついてなかった。やせーだよ。やーせーい!」
「うーん……」
首輪が外れて脱走したのか、あるいはそもそも付いていなかったのか。
どちらにせよ小学生に理屈はあんまり通用しないしなぁ。
「あ、白うさぎ!」
爽太が勢いよく指差した先には白うさぎがいた。
指差されたのに驚いたのか、動きが止まっている。
「ねぇ、啓にーちゃん捕まえて来てよ!」
「えっ」
「だって野生かペットかわかんないの嫌じゃん。ね!」
「でも、洗濯物が……」
「もう終わるから、有栖君いってもいいわよ」
「ほら、先生も言ってるし!」
「仕方ないなぁ、わかったよ」
「有栖君、気をつけてね」
先生が少し心配そうに言った。
「はい」
「啓にーちゃん、ありがと!」
爽太の頭をなで、振り返ると、白うさぎは体をびくりとさせ、逃げ出した。
「あっ……じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃーい」
爽太の声を背に白うさぎを追いかけて森に入った。
すぐ捕まえられると思ったが、足場の悪さと白うさぎが意外にも速く、なかなか追いつけない。
白うさぎは疲れを知らないように自由自在に跳ね、駆けていく。
白うさぎがひときわ大きく跳ねた。
「?……うわぁあっ!」
出した左足は地面につかず、かなりのスピードで僕は穴に落ちていった。
一緒見えた空は青くて、とても綺麗だった。
ー
木の匂いがする。
「ぅ……ん?」
目を開けた先には草原が広がっていた。
奧の方に森があるのが見える。
右を向くと、白いうさぎの耳の生えた子供が背を向けて立っていた。
「白うさぎ?」
「あ、起きたんですね」
こちらをみた子供は少年とも少女ともつかない出で立ちをしていた。
貼り付けたような笑みを浮かべていて、少し気味が悪い。
上体を起こして立とうとすると、服が白と青を基調にしたものに変わっていたことに気がついた。
なんだか訳がわからない。
「おはようございます。そして、この世界へようこそ、アリス!」
「えっと……君は誰なんだ?それにここはどこ?」
「私は白うさぎです。ここは、あなたの世界ですよ、アリス」
名前が見た目そのままなのはいいとして、僕の世界というのがわからない。
それに、笑顔がブレずに、口だけ動いているようで、気味が悪いというより最早怖い。
これは、 夢、なのかな。
「ね、白うさぎさんは、どうして僕の名前を知っているんだ?」
「あなたがアリスだからです。それより時間がありません。ついてきてください」
それだけ言うと白うさぎは小走りで森の方へ向かっていった。
まるで、さっきみたいだな。
白うさぎについていくと、森の中に少し開けた場所があった。
開けた場所には、長く大きいテーブルがあり、そこには美味しそうなお菓子とティーセットが置いてあった。
そしてハットを被った青年と、茶色のうさぎの耳が生えた髪の長い少女がすわっていた。
「やぁ、帽子屋に三月うさぎ」
「おぉ、白うさぎ、久しぶり だな!」
「……おはよう」
「ん?白うさぎ、君の隣にいるのは誰なんだい?」
「彼はアリスですよ。そう、アリスなのです」
「えっと、おはよう……?」
訳のわからない状況だけど、悪い人達ではなさそうだ。
表情も白うさぎよりは豊かだし。
というか、白うさぎはなぜ僕の名前を二回も言ったんだろう。
「アリス……?アリスだって?」
「ほ、本当にアリスなの!?」
帽子屋と呼ばれた青年は訝しげに、少女は少し身を乗り出し、目を見開いて聞き返した。
「はい、その通りです」
白うさぎは貼り付けた笑顔を絶やさず言った。
「む……? いいや? ちょっと待ってくれ、このアリスはすごく違和感があるぞ」
「アリスじゃ……ないみたい」
いま合点がいった。
ここは不思議の国のアリスの世界なんだ。
白うさぎに帽子屋、三月うさぎ、それにアリス、役満だ。
ただ、夢かどうかはわからないけど。
「僕も、人違いだと思う。確かに僕は有栖だけど、アリスじゃない」
「ほらね。それにアリスは女の子だったじゃないか!」
「そう、白い肌に金髪に青い目はあってるわ。でもアリスは女の子よ」
帽子屋と三月ウサギは納得、といった表情でティーカップを手に取った。
「……いや、アリスは君だよ。アリス」
白うさぎの笑みが消えた。
同時に白うさぎの宝石のような赤い瞳と目があった。
意識が吸い込まれそうな赤い瞳と。
「ぐぅっ!?」
頭に殴られたような痛みが走る。
「アリス、大丈夫ですか?」
「ぅ……あ……」
「アリスじゃないやつ、どうしたんだ?」
酷い痛みにうずくまり、目を瞑ると、何か見えた。
鎖に、ふりふりの……そうだ、まるでアリスの……!
「う……ぁあ!」
一際強い痛みがした直後、今までの痛みが嘘のように消えた。
「はぁ……っ……はぁ……」
「大丈夫ですか?」
白うさぎはいつの間にか笑顔を浮かべ、僕に手を差し伸べている。
帽子屋と三月うさぎは心配そうにこちらをみている。
「ごめん……多分、大丈夫だ」
「あまり無理はしないでくださいね」
「うん、ありがとう」
「アリスじゃないやつ、あまり辛いなら、お茶会をしていくかい?」
「お菓子もあるわ」
頭痛の衝撃が大きく、なんだかあまりものを食べる気分じゃない。
申し訳ないなぁ。
「ありがたいけど、お腹は空いていないんだ。まだ今度お願いできるかな?」
「あぁもちろん!」
「ありがとう。それで白うさぎ、僕がアリスっていうのはどういうことなんだ?」
「言葉の通りです。それより時間がないので早く行きましょう。帽子屋に三月うさぎ、失礼します」
「あ、ちょっと……ごめん、さよなら!」
「おう、またな!」
「……さよなら」
小さな体のどこに体力があるのか、白うさぎはまた小走りをしている。
全くもって、勝手だよなぁ。
それに僕はアリスじゃないのに。
「ねぇ、白うさぎ……」
「なんでしょうか?」
白うさぎは律儀に振り返って聞き返した。
「僕はいつになったら戻れるの?」
「……それは」
「そこら辺にしといたら、白うさぎ」
「っ!」
上から低めのハスキーな声がした。
見上げると、ボーイッシュな女の子が足を組んで木の枝に座っていた。
「これはチェシャ猫さん、こんにちは」
「白うさぎに用はない。用があるのはあんただよ」
チェシャ猫はなかなかの高さがある枝から軽々と飛び降り、僕の前に来た。
「なぁ、進むのはやめたらどうだい?」
「へっ……?」
唐突な提案に虚をつかれたような気持ちになる。
「そう、あんたは今のままでいればこの後の人生を何も傷つくことなく、幸せ生きることができる。もし進むならあんたはこの後の人生を仄暗く、悲しみに溢れて生きることになる」
チェシャ猫は真剣な表情でこちらを見て話す。
でも、全く意味がわからない。
これは夢のはずなのに。
「いったい、何の話なんだい?」
「アンタの話だよ。進むことに価値はないと思うけど……」
「アリス、チェシャ猫はいつも適当なことをいうんです。 まともに取り合うだけ無駄ですよ」
「白うさぎ……」
たしかに不思議の国のアリスで出てくるチェシャ猫も訳のわからないことを言うけど、でももしそうなら、何かしらの意味のあることの筈だ。
「それに、行くあてでも?」
「うーん……」
とはいっても、確かに行くあてはないし、戻してくれるのか定かじゃない。
それに、さっきの記憶は一体なんなのか、知りたい。
「チェシャ猫、だよね?忠告してくれてありがとう。でもとりあえず進んでみるよ」
「……ふん」
チェシャ猫は鼻を鳴らしたあと消えた。
白うさぎは気を取り直して行きましょう、とだけ言うとまた小走りをし始めたので、とりあえずついていくことにした。
案外はやく森を抜けると、大きな城へ続く道がみえた。
「あれは赤の女王様のお城です。あそこまで向かいますよ」
「赤の女王……わかった」
なんだか淡々としているけれど、一応アリスのお話に沿っているみたいだ。
道の周りには様々な花が咲いていて綺麗だ。
しばらく走ると、なんだか話し声が聞こえてきた。
最初は気のせいかと思ったけれど、話し声は大きくなる一方だ。
「あら、白うさぎさん。ご機嫌よう」
「!?」
右側からいきなり女性の声がした。
「やぁ鬼百合達、こんにちは」
「えっ」
白うさぎと会話しているのはなんの変哲も無い花だった。
なんだか白うさぎが変な人に見えるけど、確かに声は鬼百合から聞こえる。
「それに、アリスよね?大きくなったわね」
「アリス……?アリスは女の子じゃなかったかしら」
「あら違うわよ。もともとアリスは男の子よ。可愛らしい男の子」
「えっ……?」
アリスがもともと男の子って、どういうことだ。
「あぁ、そうね。そうだったわ」
「ねぇアリス、もうドレスは着ないの?似合ってたのに。水色の可愛いドレスに白いエプロンを着ていたじゃない。そう、それに首にチョーカーをつけていたわよね。鎖のついた」
「ぐっ!……」
また頭が割れるような痛みに襲われた。
意識が遠のきそうになる。
またアリスの服だ。
それに鎖と……女性?
「うっ……!」
一際大きな痛みのあとまたすぐ収まった。
痛みには少し慣れたけど、途中に見える記憶は一体なんなんだ。
「アリス、大丈夫?」
「頭がいたいの?」
鬼百合達が矢継ぎ早に聞いてくる。
「あ、ありがとう。大丈夫だよ」
微笑んで返すと、鬼百合たちは少し安心したようだ。
「アリス、少し休みましょうか?」
白うさぎはやはり笑顔のまま、聞いてきた。
「ううん、大丈夫」
「わかりました。それでは行きましょう。鬼百合たち、失礼します」
「さようなら」
「ええ、また今度」
白うさぎの背中をひたすら追う。
それにしても、あの頭痛と記憶はなんなのだろう。
今度は服と鎖だけじゃなく、髪の長い女性が見えたし、それに気になるのがアリスはもともと男の子っていうことだ。
……まさか本当に僕がアリスなのかな?
そんな訳ないか。
「白うさぎ……?」
急に白うさぎが立ち止まり、こちらを振り向く。
いつの間にか城の門前にきていた。
「これから赤の女王様の元へ向かいます。正面から行きたいところですが、トランプ兵に見つかると厄介なことになってしまいます。幸い、門兵や巡回兵はいませんが……」
「確かにそうだね」
こんなに警備がゆるくていいのかな。
「なので、城の裏にある入り口に、この鍵を使って入ってください」
白うさぎが取り出した鍵は、赤い薔薇のモチーフが彫られただけの、意外とシンプルなものだった。
「あなたが裏側に歩き出したら、僕は城のなかにはいり囮になります。裏口に入ったら、左にまっすぐ進んで、突き当たりの階段を登り、大きな扉を開けると、そこに女王様がいらっしゃいます」
「わかった。けど、白うさぎは大丈夫なのかい?」
「ええ、問題ありません。行ってください」
「……わかった」
右の方に歩きだすと、白うさぎが扉を開ける音が聞こえた。
一応周りに注意しながら進むと何事もなく裏口を見つけることができた。
しかし、本当によくわからないや。
この世界は一体なんなんだろう。
鍵を鍵穴に差し込み、回す。
「やっほう」
「うわぁっ!」
振り向くと、そこにはチェシャ猫が立っていた。
「……ねぇ、あたしならあんたを戻してあげられる、だからこれ以上進まなくていいと思うんだけど」
「えっ……?」
「どう?あんたもいい加減戻りたいはず」
「う……ん……」
戻るのが一番楽だけど……進むにつれ出る記憶は何かを知りたい。
それを知ってからでも遅くはないはずだ。
「ごめん、チェシャ猫。僕はまだ進みたい」
「……」
「本当にごめん……」
「……ふん」
チェシャ猫はまた、鼻を鳴らし消えた。
少し罪悪感があるけれど、仕方がない。
気を取り直して扉を開けると、なかはとても豪華で、白うさぎのおかげか人気はない。
さっき言っていた通り左側の赤い絨毯のひかれた廊下をそっと進んでいくと、
階段を登り終えると、一際大きな扉がそびえ立っていた。
「ここか……」