天国チケット
天国チケット
妻が死んでから、部屋の音が変わった。
冷蔵庫の低い唸り、壁掛け時計の秒針、夜になると遠くで鳴る救急車のサイレン。以前からあったはずの音が、彼女のいない部屋ではやけに大きく聞こえた。
遺品の整理は、なかなか進まなかった。衣服も、化粧品も、読みかけの文庫本も、彼女が少し席を外しているだけのようで、どうしても捨てる気になれない。
そんなある夜、寝室の引き出しの奥から、小さな封筒が見つかった。
表には、彼女の字でこう書いてあった。
「あなたへ。どうしても会いたくなったときに。」
中には、薄い金色の紙片が一枚入っていた。映画の半券みたいな質感で、表面には銀の箔で文字が浮いている。
天国チケット
使用可能時間:日没から日の出まで
効力:一晩、生きたまま天国への滞在を許可する
代償:使用者は死後、地獄へ送られる
冗談にしては、あまりにも彼女らしくなかった。
もう一枚、小さく折られた便箋が入っていた。
「これを見て私を思い出して。ただ使いたいなんて思うのはダメだよ。」
その手紙を、彼は何度も読み返した。
彼女なら、こういう悪趣味な冗談を言う人ではない。けれど、だからこそ、これは冗談ではないのかもしれなかった。
彼はチケットを封筒に戻し、引き出しの一番奥へしまった。
使うつもりはなかった。
だが、人は理屈だけで夜を越えられない。
朝、二人分コーヒーを煎りそうになる。
帰宅して、ただいまと言いかける。
スーパーで彼女の好きだったヨーグルトを、無意識にカゴへ入れてしまう。
彼女の不在は、悲しみというより、日常のあらゆる場所に仕掛けられた罠だった。
使うのは裏切りだと思った。
使わないのも、裏切りのように思えた。
もし本当に天国があるなら。
もし彼女がそこで待っているなら。
もし、たった一晩だけでも、もう一度会えるのなら。
その夜、彼は封筒を取り出した。
時計の針が午後六時を回ったとき、チケットは指先で熱を帯びた。気づけば、部屋の輪郭がぼやけ、世界がゆっくり裏返るような感覚に包まれていた。
次に目を開けたとき、彼は見知らぬ丘の上に立っていた。
空は、夕焼けのまま止まっていた。
雲は桃色に染まり、風はぬるく、どこか花の匂いがした。遠くには街のようなものが見えた。白い屋根、金色の塔、静かな川。絵本の中みたいに美しい景色だった。
けれど、妙だった。
鳥が飛んでいるのに羽音がしない。
草が揺れているのに擦れる音がしない。
何もかもが整いすぎていて、まるで作り物みたいだった。
道の向こうから、白い服を着た老人が歩いてきた。
「すみません」と彼は駆け寄った。「人を探しているんです」
妻の名前を告げると、老人は穏やかに微笑んだ。
「ここは良い場所ですよ」
「…いや、そうじゃなくて。彼女を見ませんでしたか」
「皆、幸福です」
答えになっていなかった。
それから彼は、何人もの人に尋ねた。花畑にいた少女にも、川辺で本を読んでいた青年にも、広場でチェスをしていた男にも。
だが返ってくるのは、どれも似たような言葉ばかりだった。
「ここは安らぎの場所です」
「悲しむ必要はありません」
「探し物はいずれ見つかります」
なのに、誰も彼女のことは知らなかった。
彼は街を駆け回った。白い石畳の路地を、噴水のある広場を、教会に似た建物の中を、果ての見えない庭園を。夕焼けは一向に沈まず、空の色は変わらない。
妻の名を呼び続けるうちに、声がかすれた。
彼女がここにいると信じていた。
少なくとも、自分を一度は待っていてくれると思っていた。
それなのに、どこにもいない。
焦りが、やがて別の感情に変わっていった。
もしかして、彼女は自分に会いたくなどなかったのではないか。
彼だけが、いつまでも死者にしがみついていたのではないか。
あの手紙も、優しさから「使うな」と書いただけで、本当は来てほしくなんかなかったのではないか。
街の時計台が、どこかで一度だけ鐘を鳴らした。
夜明けが近いのだと、彼は直感した。
帰れば、また彼女のいない朝が来る。
歯ブラシが一本余る洗面所。
誰にも見せることのないテレビの感想。
彼女のいない人生に戻るくらいなら、いっそ。
気づけば彼は、元いた部屋の床に倒れ込んでいた。手の中のチケットは、灰のように崩れて消えた。
窓の外は、白み始めていた。
彼はしばらく天井を見つめ、それから、静かに目を閉じた。
次に目を開けたとき、天井はなかった。
代わりに、赤黒い空がどこまでも広がっていた。地面は乾いてひび割れ、遠くで火がくすぶっている。熱いはずなのに、妙に寒かった。
ここがどこなのか、考えるまでもなかった。
「やっと来てくれた」
声がして、彼は振り返った。
妻がいた。
生前とまったく同じ顔で、同じ笑い方で、けれどあの頃よりずっと晴れやかに、そこに立っていた。
彼は言葉を失った。
「…どうして」
ようやく絞り出した声に、彼女は少し首を傾げた。
「どうしてって?」
「どうして、君が…ここに」
彼女は、ああ、と納得したように笑った。
「私、天国にはいないよ」
「あなた、私を探したんでしょ?」
彼は何も言えなかった。
「ごめんね。でも、あなたなら絶対使ってくれると思ったから」
彼女は嬉しそうに近づいてきた。
「だって、あなたは優しいもの。私のこと、本当に好きだったもの」
「…何を言ってるんだ」
「だから私、喜んで地獄に落ちたの」
彼女は彼の手を取った。温かかった。ぞっとするほど、懐かしい温度だった。
「あなたなら、きっと後から来てくれるって信じてた」
その言葉を聞いた瞬間、彼はようやく理解した。
彼女は、自分を愛していたのだ。
たぶん、本当に。心から。
「…君は」
彼は手を振り払おうとした。だが、できなかった。
彼女の指は細く、柔らかく、昔と変わらないはずなのに、鉄みたいに離れなかった。
妻は、少し寂しそうに笑った。
「ひどいなあ」
そして、恋人に甘えるみたいな声音で囁いた。
「会いたかったんでしょう?」
彼はそのとき初めて、自分が天国ではなく、最初からずっと彼女の掌の上にいたのだと知った。
赤黒い空の下で、妻は幸せそうに彼の手を握りしめている。
もう二度と離れないように。
もう二度と、離れられないように。




