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天国チケット

作者: 軒 昴
掲載日:2026/03/28

天国チケット

 妻が死んでから、部屋の音が変わった。

 冷蔵庫の低い唸り、壁掛け時計の秒針、夜になると遠くで鳴る救急車のサイレン。以前からあったはずの音が、彼女のいない部屋ではやけに大きく聞こえた。

 遺品の整理は、なかなか進まなかった。衣服も、化粧品も、読みかけの文庫本も、彼女が少し席を外しているだけのようで、どうしても捨てる気になれない。

 そんなある夜、寝室の引き出しの奥から、小さな封筒が見つかった。

 表には、彼女の字でこう書いてあった。

「あなたへ。どうしても会いたくなったときに。」

 中には、薄い金色の紙片が一枚入っていた。映画の半券みたいな質感で、表面には銀の箔で文字が浮いている。


天国チケット

使用可能時間:日没から日の出まで

効力:一晩、生きたまま天国への滞在を許可する

代償:使用者は死後、地獄へ送られる


 冗談にしては、あまりにも彼女らしくなかった。

 もう一枚、小さく折られた便箋が入っていた。

「これを見て私を思い出して。ただ使いたいなんて思うのはダメだよ。」

 その手紙を、彼は何度も読み返した。

 彼女なら、こういう悪趣味な冗談を言う人ではない。けれど、だからこそ、これは冗談ではないのかもしれなかった。

 彼はチケットを封筒に戻し、引き出しの一番奥へしまった。

 使うつもりはなかった。

 だが、人は理屈だけで夜を越えられない。

 朝、二人分コーヒーを煎りそうになる。

 帰宅して、ただいまと言いかける。

 スーパーで彼女の好きだったヨーグルトを、無意識にカゴへ入れてしまう。

 彼女の不在は、悲しみというより、日常のあらゆる場所に仕掛けられた罠だった。

 使うのは裏切りだと思った。

 使わないのも、裏切りのように思えた。

 もし本当に天国があるなら。

 もし彼女がそこで待っているなら。

 もし、たった一晩だけでも、もう一度会えるのなら。

 その夜、彼は封筒を取り出した。

 時計の針が午後六時を回ったとき、チケットは指先で熱を帯びた。気づけば、部屋の輪郭がぼやけ、世界がゆっくり裏返るような感覚に包まれていた。

 次に目を開けたとき、彼は見知らぬ丘の上に立っていた。

 空は、夕焼けのまま止まっていた。

 雲は桃色に染まり、風はぬるく、どこか花の匂いがした。遠くには街のようなものが見えた。白い屋根、金色の塔、静かな川。絵本の中みたいに美しい景色だった。

 けれど、妙だった。

 鳥が飛んでいるのに羽音がしない。

 草が揺れているのに擦れる音がしない。

 何もかもが整いすぎていて、まるで作り物みたいだった。

 道の向こうから、白い服を着た老人が歩いてきた。

「すみません」と彼は駆け寄った。「人を探しているんです」

 妻の名前を告げると、老人は穏やかに微笑んだ。

「ここは良い場所ですよ」

「…いや、そうじゃなくて。彼女を見ませんでしたか」

「皆、幸福です」

 答えになっていなかった。

 それから彼は、何人もの人に尋ねた。花畑にいた少女にも、川辺で本を読んでいた青年にも、広場でチェスをしていた男にも。

 だが返ってくるのは、どれも似たような言葉ばかりだった。

「ここは安らぎの場所です」

「悲しむ必要はありません」

「探し物はいずれ見つかります」

 なのに、誰も彼女のことは知らなかった。

 彼は街を駆け回った。白い石畳の路地を、噴水のある広場を、教会に似た建物の中を、果ての見えない庭園を。夕焼けは一向に沈まず、空の色は変わらない。

 妻の名を呼び続けるうちに、声がかすれた。

 彼女がここにいると信じていた。

 少なくとも、自分を一度は待っていてくれると思っていた。

 それなのに、どこにもいない。

 焦りが、やがて別の感情に変わっていった。

 もしかして、彼女は自分に会いたくなどなかったのではないか。

 彼だけが、いつまでも死者にしがみついていたのではないか。

 あの手紙も、優しさから「使うな」と書いただけで、本当は来てほしくなんかなかったのではないか。

 街の時計台が、どこかで一度だけ鐘を鳴らした。

 夜明けが近いのだと、彼は直感した。

 帰れば、また彼女のいない朝が来る。

 歯ブラシが一本余る洗面所。

 誰にも見せることのないテレビの感想。

 彼女のいない人生に戻るくらいなら、いっそ。

 気づけば彼は、元いた部屋の床に倒れ込んでいた。手の中のチケットは、灰のように崩れて消えた。

 窓の外は、白み始めていた。

 彼はしばらく天井を見つめ、それから、静かに目を閉じた。




 次に目を開けたとき、天井はなかった。

 代わりに、赤黒い空がどこまでも広がっていた。地面は乾いてひび割れ、遠くで火がくすぶっている。熱いはずなのに、妙に寒かった。

 ここがどこなのか、考えるまでもなかった。

「やっと来てくれた」

 声がして、彼は振り返った。

 妻がいた。

 生前とまったく同じ顔で、同じ笑い方で、けれどあの頃よりずっと晴れやかに、そこに立っていた。

 彼は言葉を失った。

「…どうして」

 ようやく絞り出した声に、彼女は少し首を傾げた。

「どうしてって?」

「どうして、君が…ここに」

 彼女は、ああ、と納得したように笑った。

「私、天国にはいないよ」

「あなた、私を探したんでしょ?」

 彼は何も言えなかった。

「ごめんね。でも、あなたなら絶対使ってくれると思ったから」

 彼女は嬉しそうに近づいてきた。

「だって、あなたは優しいもの。私のこと、本当に好きだったもの」

「…何を言ってるんだ」

「だから私、喜んで地獄に落ちたの」

 彼女は彼の手を取った。温かかった。ぞっとするほど、懐かしい温度だった。

「あなたなら、きっと後から来てくれるって信じてた」

 その言葉を聞いた瞬間、彼はようやく理解した。

 彼女は、自分を愛していたのだ。

 たぶん、本当に。心から。

「…君は」

 彼は手を振り払おうとした。だが、できなかった。

 彼女の指は細く、柔らかく、昔と変わらないはずなのに、鉄みたいに離れなかった。

 妻は、少し寂しそうに笑った。

「ひどいなあ」

 そして、恋人に甘えるみたいな声音で囁いた。

「会いたかったんでしょう?」

 彼はそのとき初めて、自分が天国ではなく、最初からずっと彼女の掌の上にいたのだと知った。

 赤黒い空の下で、妻は幸せそうに彼の手を握りしめている。

 もう二度と離れないように。

 もう二度と、離れられないように。



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