第9話
市場はいつも通りの賑わいだった。買い物を終えたエレナは、一刻も早くこの喧騒から抜け出そうと、ズキズキと痛むこめかみを押さえながら通りを歩いていた。
(ダメ、気持ち悪い……早く家に帰ろう。でも無理してでも来て良かった……)
体調は最悪だったが、街に出て来た甲斐はあった。エレナは探していたレースとリボンを手に入れることができた。それはもう奇跡に近かった。フラフラになりながらドアを開けてなんとか店に飛び込んだエレナの目に飛び込んできた、棚の上できらきらと光るレースと、艶やかなリボン。良かった、まだ残ってたと思わず床にへたりこんで涙ぐむエレナに、生地問屋の主人のマーサは商品を包みながらこう言った。
「運が良かったね、エレナ。このレースは職人が織るのを止めちまったから、もうこれで終わり。この先入荷はないんだってさ」
売り切れずに残っていたのは、長さが中途半端で、ドレス一着分の装飾にはもう使えないからだった。だがエレナのドレスの不足を補うには十分だった。マーサとしても、半端に残ってしまった在庫を処分できるので、お互い願ったり叶ったり。エレナは嬉々として店を後にした。
さあ、これで用事は済んだから、早く帰って続きを縫おう、と顔を上げたエレナは、周りを見渡してげんなりした。エレナの家は生地問屋のまるっきり反対方向なので、この市場のある大きな広場を突っ切って街の向こう側に渡らないと帰れない。今でさえ頭痛とめまいで立っているのもやっとなエレナに、その距離はあまりにも遠く感じた。
……この広場ってこんなに広かったっけ、と首を傾げたエレナはふと気づいた。いつもはヴィクトワールが隣にいてくれたからだ。常に辺りに目を配り、エレナの苦手な気性の荒い馬や、そこここで勃発する喧嘩の怒鳴り声からさりげなく遠ざけてくれた。だからエレナは安心して市場で買い物を楽しむことができていた。
(でも、もうこれからはこういう場所にも一人で来られるようにならなきゃね)
エレナは気を取り直して歩き始めた。その時、ふと道の向こうからやってくる数人の女性と目が合った。その瞬間、エレナの眉間と鼻にぐっと皺が寄った。
(うわ、よりにもよって、一番会いたくない人に会っちゃった……)
とっさに踵を返して路地に逃げ込もうとしたが、間に合わなかった。意地悪そうな声をかけられて、エレナの背中がビクッと跳ねた。
「あらあ、エレナじゃないの。こんな時間にこんな所で何をしてるの?」
(うう……)
聞こえないふりをしてそのまま雑踏に紛れ込んでしまおうかと思ったのに、いつの間にかその声の主はもうエレナの正面に回り込んで、腕組みしながら立っている。エレナは仕方なく、愛想笑いを浮かべながら挨拶を返した。
「……こんにちは、テオドラ先生。ご無沙汰しております」
「ほーんとにねえ、最近ちっとも見かけないと思っていたけど、まだ生きてたのね。あの街外れの貧乏たらしい工房で細々と商売を続けてるんですって? まったく、あたしに挨拶の一つもなく、この王都でドレスメイカーを名乗るなんて、あなたも随分偉くなったものねえ?」
「お蔭様でなんとか」
いかにも上質の生地で仕立てられた派手なドレスを身に纏い、大きな羽飾りのついた帽子を被った、立っているだけで人目を惹く女性と、その取り巻きのお針子たち。テオドラは王都で一番大きなメゾンのオーナー兼デザイナーだ。そして、エレナのかつての雇用主であり、天敵である。と言ってもエレナ自身はテオドラに何ら敵意は抱いていないのだが。
五年前、記憶を失ったエレナにドレスを作る才能があることに気づいたヴィクトワールの口利きで、エレナはテオドラのメゾンに住み込みのお針子として雇われた。最初こそテオドラはエレナの仕事ぶりを賞賛し、将来有望な弟子として可愛がっていたが、やがて一部の顧客がエレナを指名するようになると掌を返したかのようにエレナを敵視し始め、ドレス作りとは無関係な雑用ばかり押し付けるようになった。そしてついに、エレナのデザインしたドレスを自分の新作と騙って発表した。
あまりの理不尽な扱いにエレナが辞めたいとテオドラに伝えると、テオドラは激怒し、反対にエレナが自分の顧客を横取りしたと難癖をつけてクビを言い渡した。その日を限りにエレナは職を失ったどころか、数か月分の給料も退職金も払ってもらえなかった。困り果てたエレナが仕方なくヴィクトワールに相談すると、彼は何も言わず街外れの小さな店舗付き住宅を見つけてきてエレナを住まわせ、店の改築費用も貸してくれた。利息なし、ある時払いの催促なしという条件で。その後、テオドラの顧客だったカルデローニ伯爵夫人がエレナのドレスを贔屓にしてくれるようになり、その伝手で何軒かのお得意様がつくようになって、ようやくエレナはドレスメイカーとして独り立ちできた。
そんないきさつはあったが、エレナはテオドラに対して恨みとか憎しみとか、そういった感情は抱いていない。なぜなら、いちいち相手にするのが面倒臭いからで、そんなことに頭を悩ませる時間があればドレスを作りたいからだ。だがテオドラはいまだになぜかエレナを目の敵にして、顔を合わせるたびにネチネチと因縁をつけて来るので、エレナはほとほと困り果てていた。そんな相手に、今ここで出会ってしまったとは、今日は厄日なのか吉日なのか、もう自分でも分からない。エレナの頭の中にあるのはただ一つ、とにかく一刻も早くここから立ち去りたいということだけだった。
「テオドラ先生もお元気のようで何よりです。急いでますので、失礼します」
「ちょっと待ちなさいよ」
「……っ!!」
そう言ってエレナはテオドラの横をすり抜けようとしたが、次の瞬間、テオドラに肩をがしっと掴まれて後ろにのけ反った。
「あんた、その包みに入ってるものは何?」
「……は?」
テオドラの刺々しい口調に目線を落とすと、手に持っていた紙包みの端から、さっき買ったばかりのレースが覗いていた。マーサの麻ひもの結び方が甘くて、いつの間にか少し緩んでしまっていたらしい。とっさに両手で包みを押さえながらエレナは答えた。
「何って……レースですが、それが何か?」
「何かって……そのレースはね、あたしが新作で使いたくて探してたものなのよ! それをなんであんたみたいな三流デザイナーが持ってるの!?」
「そんなこと言われても、先生がどのドレスにどのレースをお使いになるかなんて、私に分かるわけないじゃないですか!」
「生意気に、口答えするんじゃないわよ! ちょっと、どこで買ったの、そのレース? 言いなさい、マーサの生地問屋?」
「え、まあ、そうですけど……で、でももう完売で……入荷はないって……」
「……なっ……んですってえ!?」
あまりの剣幕にどもりながらではあるが、それでもエレナは親切に、もうレースは残っていないことを伝えてあげた。するとテオドラの意地悪そうな切れ長の目が更にキィッと釣り上がった。




