第7話
泣きっ面に蜂、二度あることは三度ある、いや違う、好事魔多し、それとも、禍福は糾える縄の如し、とでも言うべきか……?
昨日、エレナは大きな山場を一つ乗り越えた。カルデローニ伯爵令嬢ベアトリーチェ様からご依頼の、一生に一度しかないデビュタントのドレスを無事に完成させ、伯爵邸にお届けしたのだ。それはエレナがデザインした通りの、淡いブルーの艶やかなサテン地に、銀糸を織り込んだ白いレースを重ねた繊細で華やかなドレスで、デコルテの開きも淑女の仲間入りを果たした年若い令嬢に相応しく控え目な、それでいて舞踏会の場に居並ぶ貴公子達の目線を釘付けにできる、ほどほどに良い加減のものだった。カルデローニ家の応接間で衣装箱を開けてドレスを目にした瞬間、感極まってベアトリーチェ嬢は目に涙を浮かべ、次の瞬間、エレナの首にかじりついて感謝と賞賛の言葉を浴びせた。
「エレナ、エレナ、ああなんて素晴らしいの! やっぱりあなたは天才だわ! ありがとう、ありがとう……。ねえご覧になって、お母様? わたくし、本当にこのドレスを着て社交界にデビューするのよね? ああもう信じられない、こんな素敵なドレスがこの世に存在したなんて……」
「そうよ、ベアトリーチェ、本当に美しいわ。これはあなたのドレスよ。だからいいこと、舞踏会の場では、このドレスに相応しい振舞いをなさい。ドレスを作ってくれたエレナに恥をかかせないよう、今までみたいに大きな声で叫んだり笑ったり、スカートの裾を捲り上げて走ったりしてはなりませんよ。いいですね?」
「嫌だわお母様ったら! わたくし、もう子供ではありませんわ。そんなこと、絶対にしません! 安心してエレナ、わたくし、この国一番の淑女になってみせますから」
こういうやり取りを間近で聴くたびに、この仕事をしていて良かったとつくづく思う。伯爵夫人もいたく満足して下さって、エレナはほっと胸を撫で下ろした。まだこの後にはファビオラお嬢様の婚約式のドレスが控えているが、それは今年の社交シーズンの最終週まで時間があるから、腰を据えて取り掛かっても問題ない。もう一件の子爵夫人のイヴニングドレスも順調で、子爵夫人は完成したドレスの出来が気に入ったら次は乗馬服を注文すると言って下さったから、やりがいは十分。そして、もう一件……。
もう舞踏会まで残り三週間あまりとなっていたが、エレナはヴィクトワールと顔を合わせていなかった。でも、ドレスは完成に近づいている。あの日から、エレナは考えるのを止めた。ヴィクトワールがいいと言ったんだから、それでいい。自分の作りたいように作ってやる。そう割り切って淡々と作業を進めてはいたが、時々ふと空しくなって針を持つ手が止まった。
エレナはドレスメイカーという仕事を自分の天職だと思っている。豪華なドレスに使われる生地は重くて扱うのが大変だし、いくら縫い付けてもいっこうに減らないビーズの山を見て、この作業は永久に終わらないんじゃないかと途方に暮れることもあるし、針が滑って指から出血することも日常茶飯事だ。だけどそんな一つ一つの作業を丁寧にこなしていく時間が、エレナにはとても愛おしく、楽しい。だから毎回、自分の腕を見込んでドレスを注文してくれたお客様への感謝と、幸せになってほしいという願いをこめながらいそいそと手を動かしている……はずだった。
だけど、今回ばかりは違った。ヴィクトワールが想い人に贈ると言うドレスに触れていると、なぜかどうしても気持ちが沈んでしまう。当初エレナは、ドレスの向こうにいる着る人の姿が全くイメージできないから気分が乗らないのだと思っていた。やりづらい仕事だわ……と。でもどうやら、原因はそれだけではないらしいということを、嫌でもそろそろ認めないといけない時が来てしまったようだ。仕方なくエレナは作業の手を止めて、このモヤモヤした気持ちは何なのか、一度きちんと自分と向き合ってみることにした。
(出来上がったドレスが気に入ってもらえなかったら悲しいから?)
それもある。
(ヴィクトワールの態度がまるで他人事みたいに、何を言ってもまともに対応してくれなくて、全部自分一人で決めないといけないから?)
それもごもっとも。
(……このドレスが出来上がったら、ヴィクトワールが婚約するから?)
「……嫌だ」
思わず言葉が口をついてこぼれた。
「嫌だ、そんなの。そんなの見たくない」
ああそうかと、エレナは突然全てが腑に落ちた。
あたしは、ヴィクトワールが結婚して、あたしの知らない誰かのものになってしまうのが嫌なんだ……。ヴィクトワールの幸せな未来に、おめでとうと言うのが嫌なんだわ。だって、その幸せの中に、あたしは入る隙間がないのだから。
え、あたし、そんなに心の狭い人間だったかしら? ヴィクトワールは大事な大事な友人なのに……。友人なのに? 友人?
エレナはふらふらと立ち上がって、窓辺に置かれた鉢植えの前のスツールに座った。
この前ヴィクトワールがお土産に持って来てくれた、黄色い小さな花の鉢植え。それを見ていると、この五年間のヴィクトワールとの思い出が色鮮やかに脳裏に蘇ってきた。不意にエレナは自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。
ダメ、いけない。これ以上はダメ。エレナは必死で自分の心に蓋をした。
「どうしよう、こんなことになるなんて。困ったわ」
気づかなければよかった。気づいてはいけなかった。少なくとも、このドレスが仕上がるまでは。あたしはプロのドレスメイカーなのに、どうしてよりにもよってこのタイミングで。ああもう、それもこれもみんなヴィクトワールのせいだわ。ヴィクトワール……あなたに会いたい。
それから数日、エレナは眠れない夜を過ごした。




