第4話
仕事が捗っていようが滞っていようが、時間は同じ速さで過ぎる。エレナは爪を嚙みながらカレンダーの前でうんうん唸っていた。机の周りには丸めた書き損じのデザイン画がいくつも転がっている。
社交シーズンの幕開けを告げる舞踏会は、毎年十二月一日に開かれる。国内の主要な貴族が一堂に会するその日こそが、できたてほやほやの真新しいボールガウンのお披露目の時だ。そして、今日は九月の終わり。つまり、ドレスの仕立てに使える時間はあと二か月しかない。デザイン起こしから仮縫い、本仕立てまで、一着のボールガウンを作り上げるにはとてつもない手間と時間と、高額な材料費がかかる。大きなメゾンであればお針子を何人も雇って分業したり、人によっては魔法を使って速く縫ったりすることもできるらしいけれど、エレナはすべての工程を一人で、しかも一針一針、手縫いで行っていた。だから舞踏会間近になると数日間、徹夜で作業にあたることも珍しくはないが、ドレスメイカーの誇りに賭けて絶対に納期を遅らせることはできないから、血反吐を吐いてでもやり遂げる。
カルデローニ伯爵家からの注文は順調に進んでいた。昨日、お見せしたデザイン画をベアトリーチェ様は大層気に入って下さった。思ったとおり、デコルテをもっと下げて、肩が露わになるように、と熱望されたが、伯爵夫人にそんなふしだらな衣装でデビュタントに出ると本気で言っているのなら、明日にでもあなたは修道院行きです、今すぐ家に帰って荷造りをなさいと一蹴されて、エレナのデザイン通りの控え目なものに落ち着いた。あと、去年から顧客になって下さった子爵夫人から新しいイヴニングドレスの注文も頂いているけど、こちらももう何度もお会いしている方だからさほど難しいものではないだろう。うん、いけるいける。
問題なのはもう一件の注文……ヴィクトワールが想い人に贈ろうとしている例のアレだ。あれから一週間、エレナはかなり頑張ってどうにかしていくつかデザインをまとめようとしたけれど、なぜかどれもしっくりこなかった。無理もない、そもそも情報が少なすぎる。ヴィクトワールはエレナのセンスに任せると言ってくれたけれど、会ったことも話したこともない令嬢の舞踏会のドレスなんて、そう簡単に作れるものじゃない。
一体全体、ヴィクトワールの想い人とは、どこのどなたなのだろうと、エレナは嫌でもあれこれ考えないわけにはいかなかった。彼は国防軍の将軍という高い地位にはいるけれど、爵位自体は騎士爵で、貴族社会の中では決して名門と呼ばれる家柄の出ではない。だから、大公家や公爵家などの高位貴族の家との縁組は無理だろう。となると伯爵家あたり……? で、彼はもう今年三十だから、お相手もそれほどお若い方ではないはず。でも伯爵家や子爵家に、それぐらいのお年頃で、しかも体が弱くてなかなか外に出られないご令嬢なんていらしたかしら。
あ、でもちょっと待って、とエレナの頭にまた別の可能性が芽生えた。貴族がいるのは王都に限った話じゃないわ。もっと田舎の、例えば辺境伯家とか、いっそもしかしたら隣国の方かもしれないじゃない? ヴィクトワールは隣国との紛争や条約の交渉で国境沿いの僻地に赴くことも珍しくないから、そこで知り合ったという可能性もある。そしたらおいそれと王都まで来られないという話も納得がいくわ。うんうん、なるほど、それもありかもしれない、けれど……。
「ああいけない! もうこんな時間!」
柱時計がチーンと鳴って、エレナは現実に引き戻された。ブンブンと頭を振って、目の前のスケッチブックに視線を戻す。なんとしても今日か明日中にはデザイン画を仕上げて、ヴィクトワールに見てもらわなければ。それから生地と装飾品を選んで、足りないものは発注をかけて……この時期はどこの生地商人のところも品薄で、質の良いレースやリボンは早い者勝ちの争奪戦なのだから、こんなところで油を売っている暇はない。
『彼女は君と同じ金色の髪に薄いブルーの瞳で、背格好もほとんど同じだから、まずは君をモデルにして進めてもらえないだろうか』
今のところ、頼りにできるのはヴィクトワールのこの言葉だけ。エレナはそっと目を閉じて、宮殿の大広間を思い浮かべた。君と同じ、金色の髪に薄いブルーの瞳。……そうね、私がヴィクトワールと舞踏会に出るとしたら、どんなドレスが着たいかしら。よく使われるのは象牙色のサテン、淡い薔薇色やブルーのシフォンに、柄を織り出したイエローゴールドのブロケードあたりね。ヴィクトワールの普段の軍装は黒一色だけど、王宮の正式な舞踏会だから白い正礼装かもしれない。黒だったら濃いマゼンタぐらい強い色でもいいし、白なら明るい紺色に白と金色でトリミングしてもいいかもしれないわ。スカートのラインはあまり膨らませずすっきりさせて、袖は短いパフスリーブで、左胸に薔薇のコサージュを飾って、そして、ヴィクトワールと腕を組んで広間に入るのよ……。
想像のおもむくまま、リズミカルに鉛筆を走らせていたエレナの手が、ふと止まった。
(ばかね、エレナ。ヴィクトワールにエスコートされて舞踏会に出るのは、あなたじゃないのよ。間違えちゃダメ)
分かり切っている事実なのに、なぜか胸の奥がモヤモヤする。いくら髪と瞳の色が同じでも、ヴィクトワールの想い人はエレナではない。そりゃそうよ、私とヴィクトワールはいいお友達なんだから。その大切な友達が人生の大事な大事な局面に、私に力を貸してくれと頼んで来てくれたのよ。こんなに幸せで友達冥利に尽きることなどないというのに、あれからずっと心が乱れて、手が動かないのはなぜなの。
そこまで考えて、エレナは理解した。たぶん自分は、ヴィクトワールが何も言ってくれなかったことに腹を立てているのだろう。五年前、まだらに記憶を失くして抜け殻のようになっていたエレナを王都に連れて来てくれて以来、二人の間には男女や身分の垣根を超えた友情が存在しているとエレナは思っていた。だからお互い、打算や隠し事はなしで、いつも正直に向き合えていると思っていたのに……。いつのまにかヴィクトワールはエレナの知らないところで知らない相手に想いを寄せて、新しい人生の扉を開けようとしている。その事実が、きっとエレナは寂しいのだろう。なぜ今まで一言も言ってくれなかったの、という、仲間外れにされたような、自分だけおいていかれたような感情が邪魔をして、ヴィクトワールを素直に応援してあげることができないのだ。そうに違いない。
自分の中にそんなよろしくない感情が存在していたことにエレナは驚いたが、同時にどこか安堵もしていた。よかった、私はヴィクトワールの未来を祝福したくないわけではないんだわ、ただ自分が子供なだけなのね、と。ならば、この気持ちは封印できる。ドレスメイカーとしての腕を最初に認めてくれたのはヴィクトワールなのだから、彼の期待を裏切らない仕事をしよう。彼に失望されるのが、今のエレナには一番辛い。だからできる、きっとできるわと、エレナは唇をきゅっと引き締めて、再びスケッチブックに目線を落とした。




