第19話
やがて、広間の隅に陣取ったオーケストラが、心浮きたつような華やかな前奏曲を奏で始めた。それを合図に、人波が自然に壁際に移動して、広間の真ん中に空間ができる。最初のダンスが始まろうとしていた。ファビオラが婚約者のウンベルト侯爵令息にエスコートされながらダンスフロアに向かう姿がエレナの目に入った。ベアトリーチェの周りには数人の貴公子が集まっていた。ファーストダンスを踊って欲しいと誘われているのだろう。横にいるカルデローニ伯爵夫人はにこやかな笑みを浮かべながらも、初めての社交界に舞い上がって我を忘れそうになる愛娘の手綱を巧みに握っていた。
(ファビオラ様もベアトリーチェ様も楽しそう。ドレスもとてもお似合いで良かったわ)
そんなことをぼんやりと考えていたエレナは、突然、見知らぬ男性に声をかけられて思わず飛び上がった。
「失礼ですがエレナ嬢、私と踊っていただけませんか?」
「へっ!? ええ!?」
エレナが目を上げると、仕立ての良い黒いテールコートをまとったすらりとした若い男性が目の前に立って、右手を差し出していた。エレナが驚きのあまり固まってしまっていると、その男性は人の良さそうな笑みを浮かべながらこう言った。
「ああ、突然お声をかけてしまって申し訳ありません。私はサルヴァトーレ・デムーロ男爵と申します。先ほどからあなたのお姿に目を奪われておりました。ぜひ、最初のダンスを踊る栄誉を私にお与え下さいませんか」
「え、いえ、あの、つ、連れがおりますので……」
上ずった声で断りながら、エレナはヴィクトワールが早く戻って来てくれないかとあたりを見回した。飲み物を取って来ると言われたので一人で待っていたのだが、その隙を狙っていたらしい。エレナとヴィクトワールが婚約していることは話の流れで耳にしているはずなのに、こんな誘いを言い出すなんて、このデムーロ男爵という男、何を考えているのだろう。エレナの背中に虫唾が走った。だがそんなエレナの困惑など知らぬ存ぜぬといった顔で、男爵は今にもエレナの手を握らんばかりに、ずいっと距離を詰めてきた。
「もちろん存じておりますよ。ヴィクトワール・レジェ将軍ですね? でも彼がこういった席で女性と踊る姿は一度も見かけたことがない。きっとダンスはお嫌いなのですよ。あなたも退屈でしょう。ですから私が……」
「いえその、そんなことは、あの、私」
「おやおや、初心なところも実に可愛らしい。なかなかどうし……ヒッ!」
「!?」
薄い唇をいやらしく歪めてエレナの反応を楽しんでいたデムーロ男爵が、突然悲鳴を上げて後ろを振り向いた。そこには片方の眉をピクピクさせたヴィクトワールがぬっと立って、無言でデムーロ男爵の肩に手を置いていた。エレナの手が細かく震えていることに気づくと、ヴィクトワールはデムーロ男爵の顔を覗き込みながらドスの効いた声でゆっくりと言った。
「私の婚約者に何か御用ですかな、デムーロ男爵?」
「あ、いやその、ハハハ、じょ、冗談ですよ、レジェ将軍。……そう、ちょっとばかりふざけただけで。し、失礼」
あたふたと去って行くデムーロ男爵の姿が見えなくなると、ヴィクトワールはエレナに駆け寄った。
「大丈夫かエレナ? あいつに何をされた?」
「だ、大丈夫よ、ヴィクトワール。ただダンスに誘われただけ。ちゃんと断ったのだけど……」
「ダンスに誘われただけって、こんなに震えてるじゃないか。……畜生、あいつ、殺してやる」
「ダメよそんなの! お願い、ヴィクトワール、何もなかったんだから」
「しかしだな!」
「いいの、本当に大丈夫だから、落ち着いて。ね? ほ、ほら、もうダンスが始まるわ。見て、ヴィクトワール、なんて優雅なの」
エレナは必死でヴィクトワールを宥めた。それでも怒りは収まりそうになかったが、エレナが自分に心配させまいと明るく振舞っていることに気づくと、ヴィクトワールはやれやれといった様子で頭を振ってから、エレナの腰にそっと腕を回して抱き寄せた。
「そうか。何事もなくて良かった。やっぱり君を一人にしてはいけなかったな。すまん」
「謝らないで。それよりヴィクトワール……あの……」
「どうした?」
さっきデムーロ男爵に言われた、ヴィクトワールはダンスが嫌いなのだろうという言葉がエレナの胸にひっかかっていた。本音を言うと、エレナはヴィクトワールと踊りたかった。だって、王宮の舞踏会に出席できるチャンスなど、この先いつ訪れるか分からないのだから。もちろんヴィクトワールと結婚すれば来年もその次も夫婦でここに来る可能性はあるけれど、婚約者と初めて出る舞踏会というのは、文字通り一生に一回しかない。それにせっかくカルデローニ伯爵夫人に簡単なステップをいくつか教えてもらったし、このまま一曲も踊らずに帰るのはなんとももったいなかった。エレナは思い切ってヴィクトワールに訊いてみた。
「ヴィクトワールは、ダンスは好きじゃない……のよ、ね?」
そうだな、の一言で終わるだろうと思っていたので、エレナは期待していなかった。だがヴィクトワールから返ってきた答えは意外なものだった。




