第16話
今までエレナは気にしたことがなかったのだが、実はヴィクトワールはなかなかの美丈夫だった。
背が高くて肩幅が広く、軍人なだけあって胸板が厚い。顔立ちは道行く人が振り返るほど眉目秀麗……ではないが、紫がかった紅い瞳と意志の強そうなしっかりした眉が印象的で、どこか謎めいた雰囲気を感じさせる。友人だった頃には全く気にしていなかったのに、こうして恋仲になってみると、彼が自分に向けるふとした眼差しや、骨ばった手の動き一つ一つがなんとも言えずなまめかしくて、エレナは胸の奥がきゅうっと疼くのを抑えきれないことが度々あった。今、エレナはそのヴィクトワールにエスコートされながら王宮の廊下をゆっくりと進んでいる。信じられないけれど、これは全て現実に起きていることなのだ。
舞踏会が開かれる大広間は控室の反対側にあって、既に入口のあたりはかなり混雑していた。ヴィクトワールがふと足を止めたので、エレナは気になって問いかけた。
「どうかしたの、ヴィクトワール?」
「いや、エレナ、その……大丈夫か?」
人混みが苦手な自分のことを気遣ってくれているのだと、エレナはすぐに気づいて、胸がほんのりと温かくなった。ヴィクトワールの左腕に絡めた右手にきゅっと力を込めると、エレナはにっこり笑ってヴィクトワールを見上げながら答えた。
「ありがとう。大丈夫よ。それにしても不思議ね、あなたが横にいてくれると、人混みや大声もちっとも気にならないの。きっと安心するんでしょうね」
「そうか。ならいいが、気分が悪くなったら無理しないで早めに言ってくれよ」
「分かってるわ。でも、あんまり心配しないで。今日は思いっきり楽しみたいから」
そのまま奥へ進み、開け放たれた大きな重い樫の木の扉を抜け……ようとした時、エレナの視界の端に、とんでもないものが入って来た。
「ちょ、ちょっと、ヴィクトワール、もしかしてあれがあなたが言っていたケーキ!?」
「あっ、エレナ!」
次の瞬間、エレナはヴィクトワールから離れ、小走りで広間の隣に位置する部屋へ向かっていった。開いていた扉から中を覗きこんだエレナは、目の前に広がる光景におもわずほうっと溜息をついた。
「わぁ……」
その部屋は百人ぐらいは入れそうな広さで、壁際にぐるっといくつかのテーブルと椅子がセットされていた。そして部屋の中央にしつらえられた長テーブルの上には、色とりどりの様々な軽食とお菓子が整然と並べられていた。薄いパリっとしたクラッカーに肉やチーズをのせたカナッペに、サーモンや海老を使ったシーフードカクテル、色鮮やかな人参やハーブのゼリー寄せ……。そしてその奥はケーキ! ふわふわのスポンジケーキは真っ白なクリームをまとい、しっとりと焼き上げられたバターケーキからはレモンの風味をつけた薄黄色の砂糖衣がとろりと流れ落ちている。他にもアンズやキイチゴのジャムを乗せたクッキーに、チョコレートのテリーヌに、ドラジェやボンボンといった小さな砂糖菓子から、グラスに入ったアイスクリームまで。その一つ一つがシャンデリアの光を反射して宝石のようにきらきらと光るさまは、まさに圧巻の一言だった。
「凄いだろ?」
追い付いたヴィクトワールに背後から声をかけられて、エレナは我に返った。
「ええ。どれも美味しそうだわ。それにとても綺麗ね」
「そうだな。二曲目のダンスが終わった頃に軽くつまむのが慣例になっているから、後でまた来よう」
「あら、それだとアイスクリームが溶けちゃわない?」
少し不満そうに口を尖らせるエレナに、ヴィクトワールは安心させるように笑って言った。
「ちゃんと氷魔法のかかった部屋にしまっておいてくれるから心配ないよ」
「なら良かった」
そして二人は再び腕を組み、大広間の入り口に到着した。人混みを抜けて視界が明るくなると、そこにはまばゆいばかりの光と色彩があふれていた。何人もの貴族や軍人らしい人がヴィクトワールに声をかけては、横にいるエレナにチラチラと視線を向けて来る。少しばかり居心地の悪さを感じるが、ヴィクトワールが上手く根回しをしてくれていたのか、エレナがヴィクトワールの婚約者だということはもう周知されているようで、好意的に受け入れてもらえているようだ。それにしても、ヴィクトワールがこんなに顔が広いとは思わなかった。さすがは常勝将軍と呼ばれるだけのことはある。
しばらくして壁際に置かれた見上げるほど大きな柱時計が荘厳な音をたてて、開会時刻になったことを告げた。それを機に人々は談笑を止め、広間の上層に張り出したバルコニーのほうを向いた。するとバルコニーのカーテンがスルスルと開き、威厳に満ちた一組の夫婦が姿を現した。国王ご夫妻のお出ましだ。皆が一斉に頭を下げて出迎える。エレナもスカートを摘まんで腰を折り、膝を屈めた。宮廷儀礼のさわりは事前にカルデローニ伯爵夫人から教わっていた。だが、なぜかエレナの身のこなしは初めてとは思えないほど滑らかでソツがなく、夫人を驚かせた。
紺色のお仕着せをまとった給仕が人々の間を行き交い、よく冷えた白葡萄酒のグラスが手渡される。国王陛下がよく通るお声で宮廷舞踏会の開会を宣言された。続いて乾杯の音頭を取られるのに合わせて、グラスを合わせる澄んだ音が広間に響き渡った。オーケストラがゆったりとした曲を奏で始めたので、もう少ししたらダンスが始まるだろう。エレナは少し心配になった。ヴィクトワールと踊りたいとは思うけれど、広間の真ん中で皆に見られながらはできれば遠慮したい。それに、そもそもヴィクトワールはダンスは踊れるのだろうか。訊いてみようと口を開きかけた時に、先にヴィクトワールがエレナに声をかけた。
「エレナ、ちょっといいか」
「何かしら?」
「国王ご夫妻が皆にお言葉をかけられるから、このまま少し待とう」
「……ええっ!? わ、私が国王ご夫妻に? ちょ、ちょっと待ってヴィクトワール」
エレナは耳を疑った。だがヴィクトワールはエレナが何に焦っているのか、今一つ分からないようだった。
「ああ。お二人とも気さくな方だから、緊張しなくていい」
「そうじゃないのよ……もう、急すぎるでしょ……」
「あれ? そう言えば言ってなかったか? ごめんごめん」
……ヴィクトワール、そういうとこだぞ。




