第13話
しばらくの間、エレナは立ったまま、ヴィクトワールは床に跪いて頭を床につけたまま、互いに微動だにしなかった。突然その空気を切り裂くかのように、柱時計がチーン! と小気味よい音を立てて四回鳴った。その音にエレナははっと我に返って、改めて目の前に這いつくばる黒づくめの大男をまじまじと眺めた。そしておもむろに溜息を一つつくと、静かな声で言った。
「ああ、もう四時になっちゃった。……ヴィクトワール、とりあえず座りましょうか」
「だが……」
「いいから。ほら早く立って」
エレナの声は落ち着いていたが、有無を言わせない響きを含んでいた。ヴィクトワールは観念したかのようにごそごそと立ち上がると、エレナと目を合わせないようにしながら椅子に腰かけて、膝の上で両手を組んだ。
「さてと、ちょっと意味が分からないんだけど、説明してもらえるかしら、ヴィクトワール・レジェ将軍?」
「……」
「しょ・う・ぐ・ん?」
「……ヴィクトワールと呼んでくれよ、いつもみたいに」
ヴィクトワールはエレナに将軍なんていう他人行儀な呼び方をされたのが、よほど堪えたらしい。その柄にもなく上目遣いで懇願する姿がまるで子犬のようで、何とも言えず愛おしくて、エレナはあやうく絆されそうになってしまった。
(ずるいわ、ヴィクトワール。そんな目で見られたら、何もかも放り出して今すぐあなたの胸に飛び込んでしまいたくなるじゃないの)
「じゃあヴィクトワール、改めて訊きますけど、つまり、あなたの言う『病弱で王都に来られないご令嬢』は、初めから存在しなかったのね?」
「ああ」
「そう。……まあね、確かにおかしいと思ったのよ。いくら私と背格好が似てるからと言って、きちんとした採寸もなしにドレスを、それも宮廷舞踏会のボールガウンを仕立てるなんて、普通じゃあり得ないもの」
「……ごめん」
そう、少し冷静に考えてみれば分かることだったのに、と、エレナはヴィクトワールの嘘に腹を立てるよりも、むしろ自分に呆れてしまった。何となく感じていたいくつもの違和感……髪と目の色が同じとか、背格好が似ているとか、好きなデザインで作ってくれていいとか、そういった諸々も、そもそもヴィクトワールはエレナにドレスを贈ろうとしていたのだから、ということであれば全て合点がいった。
それに、今のエレナにとっては、そのことでヴィクトワールを責めるよりも大事なことがあった。ヴィクトワールは自分がやっていることがどういう意味を持つのか、本当に理解しているのだろうか? つまり、彼からドレスを贈られるということは、プロポーズされるのと同じことなのだけれど、これは期待していいということなのだろうか。
(どうしよう、私はこの数か月で、自分がヴィクトワールを愛していることにようやく気付いたのだけれど、まさかヴィクトワールはもっと前から私のことを想ってくれていたというの? でもそれなら、どうしてわざわざ実在しない令嬢に贈るなんて面倒な話をでっちあげてドレスを注文したのかしら。最初からはっきりそう言ってくれれば、お互いこんなに拗らせなくてもすんだのに……ヴィクトワールの真意が、いくら考えても分からないわ)
眉間に皺を寄せて考え込んでしまったエレナの様子が、もしかしたら怒っているように見えたのかもしれない。ヴィクトワールが焦って弁解するような調子で話しかけた。
「エレナ、その……本当にすまない。でもその時は、いい方法だと思ったんだ。でも今は後悔してる。最初から正直に、君にドレスを贈りたいと言えば良かった」
「本当に、私にドレスを贈りたいと思ってくれていたの?」
「あ、当たり前じゃないか! 冗談でこんなこと、言えるものか」
後悔しているというヴィクトワールの言葉に嘘はないだろう。なぜなら彼は嘘が吐けない人だから。それはエレナ自身が一番わかっていた。エレナはヴィクトワールを安心させるように少し笑った。
「心配しないで、責めてる訳じゃないの。でも、どうして本当のことを言ってくれなかったの? 怒らないから、理由を聞かせて?」
「それは……」
ヴィクトワールは少しの間、目線を宙に泳がせた。それから言葉を選びながらゆっくりと言った。
「君にドレスを贈りたいと言っても、受け取ってくれないと思ったからだ。君はその……いつも他人の幸せばかり思いやって、自分のことは後回しだろう? だから、誰かのためにドレスを作ることにすれば、すんなり引き受けてくれるんじゃないかと思ったんだ。君の作るドレスは、着る人を幸せにする不思議な力がある。でも俺は、エレナ自身に幸せになってほしかったから……そう、できることなら、俺と一緒に」
「ヴィクトワール……それって……」
エレナの青い瞳と、ヴィクトワールの紫がかった紅い瞳が交差した。ヴィクトワールはエレナの前に立つと、片膝をついて腰を落とし、右手を差し出した。
「エレナ、俺にドレスを贈らせてくれ。そして、パートナーとして宮廷舞踏会に出席してほしい。ダメだろうか?」
「ダメだなんて、そんな……でも」
「でも?」
「私なんかでいいの? 私は貴族じゃないし、それに……自分がどこで何をしてきたのかも、名前すらも覚えていないのよ? そんな私が、あなたの隣に立っていいの?」
ヴィクトワールは力強く頷いて、きっぱりと言った。
「君がいい、エレナ。いや、君じゃなきゃダメなんだ。頼む、エレナ、答えを聞かせてくれ。この手を取って、俺に君をエスコートさせてくれ」
「ヴィクトワール……!」
エレナはヴィクトワールの言葉が終わる前に、その大きな胸に飛び込んだ。ヴィクトワールは一瞬、バランスを崩してのけぞったが、すぐに体勢を立て直してエレナをしっかりと抱き締めた。
「答えはイエスよ、ヴィクトワール。あなたが好き。もうずっと前から」
「じゃあ、俺と舞踏会に行ってくれるな?」
「ええ。喜んで」
そして二人はお互いに顔を見合わせ、照れながら笑い合った。傾きかけた午後の日差しが窓から差し込んで、エレナの金色の髪をきらきらと輝かせた。ヴィクトワールの逞しい腕に抱かれながら、エレナはしみじみと幸せを噛みしめていた。




