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第10話

「もう完売って、じゃあ何よ、あんたが買い占めたってこと?」

「買い占めたなんて、そんな、人聞きの悪い……それに元々もうこれだけしか残ってなかったから、ドレス一着分には足らな……」

「お黙り!」


 エレナの答えを遮って、テオドラはエレナの鼓膜が破れそうなほどの金切り声で叫んだ。だがその時、何かを思いついたらしく、いかにも意地悪そうな笑いを唇の端に浮かべるとこう言った。


「そう、もう完売なのね。わかったわ、エレナ、そのレース、あたしに譲りなさい」

「えっ?」

「え? じゃないわよ。このレースはあんたみたいな三流デザイナーが作る貧乏くっさいドレスより、あたしのドレスのほうが相応(ふさわ)しいわ。だからあたしに売りなさい。異存はないわね? いくらだったの? 仕方ないから、マーサの売値と同じ値段で買って()()()わ」

「い、嫌ですそんなの! 困ります! これは私が買ったレースです、誰にも売りません!」

「……ぁあ? あんた、誰に向かって物を言ってるか分かってるの? つべこべ言わずにさっさとそれを寄越(よこ)しなさい!」


 往来を行き交う人々が、何が起こったんだという顔で二人のやり取りを眺めていたが、テオドラは全く意に介さず、強引にエレナの手から包みを奪い取ろうとした。エレナは両手で包みを掴んで、必死に抵抗した。


「い、いやっ、止めて! 放して!」

「うるさい! 早く寄越せ! くっ、この強情っぱりめ!」


 今までのエレナだったら、早々に諦めてテオドラにレースを渡していたかもしれない。だが今日のエレナは違っていた。


(だめ、これは私のものよ。これがなかったらドレスができない、そうしたらヴィクトワールが困るわ。そうよ、私のためじゃない、ヴィクトワールのために、あのドレスはどうしても仕上げなければならないの……ヴィクトワールに、誰よりも大切なあの人に喜んでもらうために……!)


「あっ……!」


 だがその時運悪く、エレナは歩道の端に植えられている街路樹の根っこにつまづいてバランスを崩してしまった。その隙に包みをひったくろうとしたテオドラを振り払おうとして、エレナは身体を左右に大きく揺らした。するとその弾みで手から包みが投げ出され、ゆるい放物線を描いてぽーんと飛んでいったかと思うと、大通りの真ん中にポトリと落ちた。


「うそ……」


 歩道の端に座り込んで真っ青になったエレナを尻目に、テオドラが勝ち誇ったように笑った。


「あっらー、ごめんなさいねえ、ちょっと手元が狂っちゃった。ハァ……なんだか疲れたわ。ま、いっか、どっちにしてももうあのレースは使い物になりそうにないものね。ほらどうしたの、エレナ? 早く拾いに行かないと大事な大事なレースが馬車に踏みつぶされてしまうわよ? オホホ、じゃあ頑張ってね、ごきげんよう」

「ひどい……」


 エレナはフラフラと立ち上がって、大通りに向かって歩き出した。


(負けるもんか、こんな嫌がらせなんかに。絶対に、負けるもんか……! ヴィクトワール、私に力を貸して……!)


 何台もの馬車が行き交う大通りなど、普段のエレナには絶対に近寄れないだろう。だがこの時のエレナには、通りの真ん中に落ちている茶色い紙包み以外、何も目に入っておらず、テオドラの高笑いも全く耳に入ってこなかった。そのまま脇目もふらず通りの真ん中まで進むと、エレナは震える手で包みを拾い上げた。大丈夫、麻紐がほどけかかっているけど、中身は無傷だ。エレナの目に涙が滲んだ。


「良かった……」


 だがその時、市場のあちこちから悲鳴が聞こえてきて、エレナははっと現実に引き戻された。


「危ない!!」

「馬車が! 逃げろ!」


 顔を上げたエレナの目に、猛スピードでまっすぐこちらに向かって走って来る荷馬車が映った。その馬のヒヒーン! といういななきと、ガラガラと激しく回る車輪の音が耳に入った瞬間、エレナの頭の中は真っ白になった。


 全身が硬直して、そこから逃げることも、立ち上がることもできない。あの時と同じだった。断末魔の叫びがこだまし、硝煙と血の匂いが充満する、真っ暗な戦場の記憶。激痛に意識が朦朧とする中で感じていた、まるで底なし沼に引きずり込まれるような恐怖が鮮明に蘇った。エレナは両手でレースの包みを抱えたまま、その場にうずくまった。


「あ……あ……いや……」


(ああ、私、ここで死ぬのね……! ごめん、ヴィクトワール……!)


 エレナが固く両目を閉じて、死を覚悟した、次の瞬間。


「エレナ!!」


 どこかで聞いたことのある、力強く懐かしい声が聞こえたかと思うと、大きな黒い影が通りに飛び出し、エレナの肩をひっつかんで、そのまま通りの向こう側にある植え込みに飛び込んだ。間一髪で荷馬車が轟音を立てながら通りを駆け抜けていき、往来に集まった野次馬たちの口からは一斉に安堵の声が漏れた。


 エレナはその時、大きな黒豹が自分を助けてくれたのだと思った。だが、エレナを助けたのは黒豹でも精霊でもなかった。恐る恐る目を開けたエレナの前にいたのは、見慣れた黒い軍服……エレナが一番会いたいと思っている人……ヴィクトワールだった。


「エレナ! エレナ! 大丈夫か!? 全く、何て無茶を!」

「ヴィク、ト、ワール……? わた、し、生きて……る……?」


 ヴィクトワールはエレナの両肩を掴んでがしがしと揺すぶった。だがうつろな目で涙を流しながら震えているエレナの様子に気づくと、何も言わず静かにエレナを抱きしめ、安心させるように背中を撫でながら声をかけた。


「大丈夫、大丈夫だ、エレナ。とにかく落ち着いて」

「かえ、りたい……ヴィクトワール……いえに、いえに、かえり、たい……」

「うんうん、分かった、エレナ、帰ろう。……後は頼む」


 馬を連れてきた部下に声をかけると、ヴィクトワールはエレナをさっと抱き上げて鞍に乗せてから、手綱を受け取った。軽く首のあたりを叩かれた馬が分かっていますよとでも言うように、並足でゆっくり歩きだした。エレナはヴィクトワールの腕に抱かれながら、ひづめの音をどこか遠くの世界の出来事のようにぼんやりと聞いていた。


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