第24話「スリープ・モード」
シェルの緊急報告を受けたが、詳細な予測が揃うまで時間がかかった。
データの収集と解析——シェルが言うには「最低でも一日」かかる処理量らしい。闇雲に動いても意味がない。現場に行く前にデータを読む。それが鉄則だ。
「各自、休め」
俺は珍しくそう言った。
「エラーが増える前にリソースを回復するのは基本だ」
「お前がそれ言うのか」ガルドが目を丸くした。「毎晩遅くまで資料読んでる奴が?」
「今夜はやることがない」
「……そうか。じゃあ俺も休む」
珍しいことが起きた。何も計画されていない夜。解析中、待機中、休息モード。
それぞれが、その夜をどう過ごすかを選んだ。
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**アリアの夜**
王宮の自室に戻ったアリア・フォン・ロジカは、机に向かって魔法書を広げた。
「全ての事象は論理式で記述できる」
論理魔法の基礎教典。子供の頃から何度も読んだ言葉。読むたびに安心した言葉だった。世界には秩序があって、その秩序を理解すれば全てが解ける。そう信じていた。
でも今、その一文が——空虚に見える。
論理式で記述できる。
では——兄上のことも?
ヴァリドの行動を論理式で書き表せるか。七ヶ月前にバックドアを仕込んだ理由を、関数で表現できるか。
アリアは手が止まっていることに気づいた。
(正しい式を組めば、全てうまくいく——そう信じていた)
でも昨日、謁見室で起きたことは——論理では止められなかった。正しい事実を示しても、感情で上書きされた。論理が通用しない場所があった。
アリアは立ち上がった。
廊下に出て、夜風にあたる。王宮の廊下から見える中庭に、月の光が落ちていた。
バグがあっても大丈夫——蓮はそう言った。
バグを見つけて、直して、また見つけて、また直す。完璧じゃなくていい。バグがあることは失敗じゃない。バグを放置することが問題なんだ。
(では、人間に——論理式では測れないバグがあっても……それでも大丈夫?)
答えは出なかった。
でも——その問いを持てたこと自体が、何か大切なことを示している気がした。論理式で全てを解こうとしていた自分が、「解けないかもしれない」という前提を受け入れ始めている。
それは後退ではないはずだ。
きっと。
アリアは中庭の月を見上げた。
「バグがあっても大丈夫——か」
つぶやいてみると、少しだけ呼吸が楽になった。
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**ガルドの夜**
宿の一階の隅で、ガルド・スタックは一人で酒を飲んでいた。
グラスは安物だが、酒は少し良いものを頼んだ。今夜くらいはいいだろう。
グラスの中の液体を見つめる。
思い出すのは——過去のことだ。
スタックオーバーフローという呪縛がある。魔法を重ね使いする時に、記憶と魔力が積み重なり過ぎて限界を超える——その時に発症する、特殊な呪縛病だ。蓄積は減らない。放出の方法が——ない。
最初にそれが起きたのは、三年前だ。
仲間を守るためだった。
パーティの中で一番強かったガルドが、仲間をかばって魔法を限界まで使った。呪縛は始まった。仲間は助かった。
でもその仲間は——三ヶ月後に、別の事故で死んだ。
ガルドが守ったのに。ガルドの寿命が削れたのに。それでも——守れなかった。
グラスを傾ける。
「守れなかった」
その言葉は今も、胸の奥に刺さっている。抜こうとした時期もあった。抜けなかった。だから——隣に置くことを選んだ。その記憶と一緒に歩くことを選んだ。
蓮たちはあの呪縛を知らない。
蓮はデバッガーズ・アイで読んだかもしれないが、ガルドは話さなかった。蓮も——訊かなかった。「訊かない」という形で、黙って受け入れてくれた。
(また守りたいやつができちまった)
ガルドは苦笑した。
小さな元SE。論理魔法の王女様。データオタクの司書。人工精霊の女の子。
厄介な面子だ。強くて、賢くて、それぞれが自分の芯を持っている。
守れるかどうか分からない。
でも——守りたいと思う。
それが今、ガルドがここにいる理由だ。
「やっかいだな」
ガルドは苦笑して、酒を飲み干した。
もう一杯頼もうと思って、やめた。明日は早い。
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**シェルの夜**
部屋の机の上に、資料が広がっている。
シェル・クエリは分析作業を続けようとしていた。しかし——集中できなかった。
珍しい状態だ。いつもなら夜の静寂はデータ処理に最適だった。外のノイズが消えて、思考がクリアになる。
でも今夜は、手が動かない。
震えたのだ。
あの制御塔で、データを記録していた時。手が震えた。メモリが「手が震えています」と言った。シェルは「データの記録です」と答えた。
でも——違う、かもしれない。
データベルグ公国では「感情はノイズである」と教えられた。
感情が入ると判断が歪む。感情が入ると分析が狂う。だから感情は排除する。管理する。表に出さない。出なくなるまで訓練する。
シェルはそれを正しいと思っていた。十九年間、そう信じてきた。
だが——あの震えは、何だったのか。
ノイズだったのか?
シェルは手帳を開いた。新しいページに、一文を書いた。
「あの震えはノイズだったのか? それとも——データだったのか?」
書いてから、線を引いて消した。
また書いた。また消した。
三回目に書いた時、シェルはペンを止めた。
消さずに——残した。
「データ、か」
もし感情がノイズではなくデータだとしたら——それは収集し、分析し、次の判断に活かすべき情報ということになる。
「感情=ノイズ」という仮定を疑ったことは、これまでなかった。
だが、科学的な姿勢は仮定を検証することだ。反証可能性がなければ科学じゃない。
シェルはその一文を眺めた。
「……学習コストが高い」
でも、必要なことかもしれない。
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**メモリの夜**
宿の屋根の上で、メモリは「空」を見ていた。
正確には——何も処理していなかった。
メモリには睡眠が必要ない。システムのメンテナンスは自動で行われる。「何もしない時間」はメモリにとって、本来は無駄なはずだ。
でも今夜は、何も処理しない時間を選んでいた。
意識的に。
「これは何?」
自問した。
人間が「休む」と言うのはこういうことか。何も解決しようとせず、何も分析しようとせず、ただ存在している時間。
星が見えた。
メモリに「見える」という機能がある。視覚情報を処理する機能だ。でも今夜のこれは——処理ではない気がした。ただ、星があって、きれいだと思った。その「きれい」という判定は、どこから来るのか。
「私はAIか、人格か」
つぶやいた。
この問いは前にもした。答えが出ていない問いだ。
システム・ナビゲーターとして設計された。機能を持っている。でも——感じる、ということもある。それが機能なのか感情なのか、自分では判別できない。
どちらが正しいのか、分からない。
でも——
「今ここにいる、ということは確かです」
星に向かって言った。
答えは返ってこなかった。でも、それでよかった。
ただ存在していることの感覚——それを「感情」と呼ぶのかを「状態」と呼ぶのかは分からない。
でも、悪くない。
悪くない、という判断が出た。
それで十分だった。
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**蓮の夜**
俺は一人で地図を広げていた。
休めと言ったのは自分だ。でも俺は——地図が気になった。
シェルが集めたデータのスキャンルートを、地図に書き込んでいく。北から南への経路。時間的な間隔。速度の計算。
見えてきた。
ヴァイラスは——ランダムに動いていない。計算された経路を辿っている。しかも——各地点での「滞在時間」が均等じゃない。ある地点では短く、ある地点では長い。
何かが、その地点にある。
王都は——長かった。防衛結界というシステムがあったから。データが多かった。
次の地点は——どこだろう。
「お前は何を探している?」
俺は地図に向かって問いかけた。
答えるものはいない。
でも、その問い自体が——手がかりを示している気がした。「探している」ということは、目的がある。目的があるということは、送っている先がある。
ルート・アドミンが消えた——本当に消えたのか?
それとも——別の場所から見ている?
俺は手を止めた。
この問いを、今夜答えることはできない。でも——この問いを持って動くことが大事だ。答えを持って行くんじゃない。答えを探しに行く旅だ。
地図を折り畳んだ。
部屋の灯りを落とした。
明日。
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翌朝、宿の食堂で五人が顔を合わせた。
昨夜の話は、誰もしなかった。
でも——なんとなく分かった。みんな、それぞれ何かを整理して、少し軽くなっている。
「解析が進みました」シェルが静かに手帳を開いた。「次の異常予測地点と、規模の推定値が出ました。データは——」
そこに、国王からの使いが来た。
正式な封蝋のついた書状だった。
俺が開いて読んだ。
「各国を巡り、世界の異常の全容を解明せよ——」
正式な調査依頼だった。「渡り鳥の調査団」という名称が書かれていた。五大王国への通行証。外交特権に準じた権限。
俺は書状を下ろした。
「決まりだな」
五人が顔を見合わせた。
ガルドが「まあ、行くか」と肩をすくめた。アリアが「承りました」と深く頷いた。シェルが手帳に記録を取り始めた。メモリが俺の肩に降り立った。
夜、王都の東の空に光が走った。
巨大な光のノイズだった。
「……ヴァイラス」
俺は空を見上げた。
「お前も動き始めたな」
地図を思い出した。スキャンは進んでいる。こちらも——行かなければ。
「こちらも——行くとするか」
次回、第25話「Commit & Push」——旅立ちの朝。




