第20話「隠しメッセージ」
宿の一室に、朝が来た。
全員が早起きしていた。いや——正確には、あまり眠れていなかった。ガルドは窓際の椅子で仮眠を取り、アリアはテーブルに地図を広げながらうとうとし、俺は壁にもたれて何度か意識を落とした。
メモリだけが、一晩中動き続けていた。
「解析完了しました」
メモリの声が部屋に響いた瞬間、三人全員が目を覚ました。
「どれくらいかかった?」俺が聞く。
「四時間二十三分です」
「何が書いてあった」
メモリは少し間を置いた。
その間が——妙に長かった。
「内容は——」
```
TEST_CASE_ID: #0047
STATUS: COMPLETED
TRANSITION: NEXT_PHASE
```
「テストケース番号0047、完了。次のフェーズへ移行——」
沈黙が落ちた。
「テスト?」
アリアが眉をひそめた。声が、低かった。
「ヴァイラスは……世界を、テストしている?」
誰も返事をしなかった。俺は天井を見た。
俺の頭の中で、仮説が組み上がっていく。バラバラだったピースが——正確には、まだいくつか足りないが——ある形を作り始めていた。
「ただバグを仕込むだけじゃない」俺は話し始めた。「バグを仕込んで、誰かが直すか直さないかを観察している。0047番——これが47回目の『テストケース』だとしたら、この前にも同じことを繰り返していたはずだ」
「俺たちが動く前にも、何か起きていたということか」ガルドが唸った。
「対処できなかった事例が、46個以上ある。俺たちが関わったのは最近だ。それ以前に何があったかは——まだわからない」
「つまり俺たちが修正したことも、全部ヴァイラスに把握されてる、ってことか?」
「可能性が高い」
「……気持ち悪いな」
「同意する」
アリアが立ち上がり、窓の外を見た。ポート・ハブの朝が始まっている。昨日の歓声が嘘のように、街は静かに動き始めていた。
「では私たちが動くたびに、ヴァイラスはデータを収集している? 私たちは——テストに参加させられている?」
アリアの顔が、青ざめていた。
「そう焦るな」俺は言った。「テストに参加しているとしても、こちらがその事実を知っているのとそうでないのとでは意味が違う。知らずに動くのと、知って動くのでは——選択の質が変わる」
「でも——」
「ヴァイラスが何を測っているかはまだわからない。でも測られていると知った上で動ける。それは情報だ」
アリアは少し間を置いた。「……そうね」
「そう簡単に言うなよ」ガルドが腕を組んだ。「俺たちが何かするたびに、あいつが見てるんだろ? 気持ちの悪い話だ。丸見えってことだろ」
「完全に丸見えかどうかはわからない。俺たちにヴァイラスの動向が見えないのと同じく、ヴァイラスにも見えていない部分があるかもしれない」
「楽観的だな」
「根拠はある。テストケース0047でヴァイラスが設定したバグは、俺たちが修正した。もし完全に制御できているなら——修正されては困る。でも止めなかった」
「止められなかった、の間違いじゃないか?」
「それも可能性としてある」俺は認めた。「だから断言はしない。ただ情報として持っておく」
ガルドが「難しいな」と言い、蜂蜜をたっぷりかけたパンを口に押し込んだ。朝食は宿が持ってきてくれていた。俺もパンを手に取り、ほとんど機械的に食べた。
そこへ、メモリが「……あの」と珍しく言い淀んだ。
俺は手を止めた。
メモリが「あの」と言い淀むのは、珍しい。いつも必要なことを必要な順番で言う。前置きが長くなる時は——言いにくいことがある時だ。
「どうした」
「解析の過程で……私の封印されていた記憶の一部が、また開きました」
全員の視線がメモリに集まった。
メモリは少し間を置いた。光の具合が、いつもと違う。瞳の回路模様の明滅が、細かい。
「まだ世界が若かった頃の——光景が見えました。膨大な光のコードが流れる、広大な空間。今の世界の源コードよりも整然としていた。全てが、意図を持って設計されていた」
「誰かが作った世界の、最初の状態、か」
「はい。そしてその空間の中心に——気配がありました。源コードの全てを、書いた者の気配。巨大な——名前があったはずですが、私の記憶では欠けています。ただ——」
メモリが目を細めた。
「ルート、という言葉が残っています。管理者、という意味の。この世界そのものを構築した者がいました。でも、その気配は……ずっと昔に、消えています」
「ルート・アドミン」
俺はつぶやいた。
root権限を持つ管理者。Unixの用語を使えばそうなる。全ての操作権限を持つ、最上位の存在。システムに対してあらゆる変更を加えられる——この世界で言えば、源コードに対して何でもできる。
「この世界には——神様がいたんですか?」
アリアが息をのんだ。
「いた、だな」俺は言った。「過去形で」
アリアが静かに目を閉じた。
「……消えた神様が残していったシステムを、誰もメンテナンスしないまま動かし続けている——だからバグが増えていくのか」
「システムは管理者がいなくなっても動き続ける。ただ、劣化しながら」
「神様が引退した後の世界を俺たちが管理してる——」ガルドがゆっくり言った。「なんか変な感じだな」
「変でもなんでもない」俺は答えた。「よくある話だ。前任者が辞めた後、引き継ぎなしでシステムを動かし続けることになった後任のエンジニア——それが俺たちの立場と似ている」
「あんたらエンジニア連中の話、さっぱりわからんが」
「つまり——大変、ということだ」
「それはわかる」ガルドが笑った。
しかし俺の頭の中では、別の問いが渦巻いていた。
ヴァイラスはルート・アドミンの存在を知っているか。初期化プログラムの存在を知っているか。テストケースを繰り返しているのは——世界を崩壊させるためなのか、それとも別の目的があるのか。
ピースが足りない。まだ足りない。
「メモリ、記憶が開いた感覚は——どうだった」
俺は静かに聞いた。
メモリは少し考えた。
「嬉しいとも、怖いとも言えない感覚です。思い出すことで——知ってしまうことへの、なんというか……」
言葉が続かなかった。
アリアが、静かに言った。
「それ、人間も同じですよ」
メモリが顔を上げた。
「大事な記憶は——怖いものですから」アリアは続けた。「知ることで、変わってしまうことがある。だから怖い。でも知らないままでいると、別の怖さがある。どちらにしても怖い」
「……どちらを、選びますか」
「私はいつも、知る方を選びます。怖くても」
メモリは、その言葉をしばらく処理していた。
「……そうですか」
「あなたも——いつか選べるようになると思います」
俺は口を挟まなかった。アリアの言葉が、俺が言えることより正確に、メモリに届いている気がした。
---
宿を出る準備を始めた頃、一人の人物が扉をノックした。
メモリが「反応あり」と言う前に、アリアが「どうぞ」と言った。
扉が開いた。
現れたのは、女性だった。二十代後半から三十代前半、俺と同じくらいか少し上に見える。整然とした身のこなし。黒い長衣に、胸元に小さな紋章——データベルグ公国の紋章だ。冷静な目が、部屋の四人を順番に見た。
「ロジカ王国の桐島蓮様ですね」
「そうだが」
「私はシェル・クエリ」女性は名乗った。「データベルグ公国からの使者です——そして、あなたと同じく世界の異常を追っている者です」
整然とした佇まい。冷静な目。感情を見せない、計算された話し方。
俺は少し考えた。
ガルドが「どこで俺たちのことを」と聞くと、シェルはためらいなく答えた。「転送ゲートの修正報告が、昨夜連合の文書に記録されました。そこから追いました」
「追跡が速い」
「急いでいたので」
「——どんな情報を持っている?」
シェルが少し目を細めた。「それは——お互いに確認すべきことでしょう。私が何を知っているかより、何を知り合えるかが重要です」
俺はシェルを見た。
敵ではない、と判断した。敵なら、こういう話し方はしない。しかし完全に信頼できるかは——まだわからない。
「座りなさい」アリアが言った。「話を聞きます」
次回、第21話「クエリを走らせろ」——データベルグからの使者、シェル・クエリ。彼女が持つ情報と、その目的とは。そして五人目の知識が、ヴァイラスの全貌を変える。




