第14話「汚染されたコード」
「先行します。右の通路は壁の構造コードが劣化しています——崩落の危険あり」
メモリが俺たちの前に出て、迷いなく左の通路を指し示した。
起動から一時間も経っていない。それでも彼女のナビゲーションは正確だった。デバッガーズ・アイでは読み取るのに数秒かかる壁の構造情報を、メモリは歩きながら、会話しながら、同時に処理している。データ処理に特化した存在とは、そういうものらしい。
「左の通路です。この先三十メートルで広間に出ます」
「広間?」とガルドが聞く。
「はい。ダンジョンの最深部にあたる構造です。観測上、相当な規模の源コードが集中しています」
「モンスターは?」
「——いません」
「いないのか」ガルドが少し残念そうな顔をした。「ボスを一個仕留めたばかりだってのに」
「ボスが生成されていた場所の役割は、私が格納されていたストレージユニットの守護だったと推定されます。ユニットの起動が完了した時点で、その役割は終了したかと」
「……つまり俺たちは囮に使われた、ということですか」
アリアが硬い声で言った。
「結果的にそういう設計だったと思われます。誰かが、ストレージの守護を意図的に配置した」
「誰かが、か」
俺は呟いた。
メモリが言った「誰か」——第十一話で気づいたデッドロックの設計も含め、このダンジョン全体に人工的な意図の痕跡がある。試練のステージ。誰かが用意した、意図的な構造。その「誰か」が何者かを考える前に——まずここを見なければならない。
広間に出た。
広い。
天井まで十メートル以上ある。通路を歩いてきた俺でも、空間の広さに思わず足を止めた。円形の巨大なホールで、壁面全体が古代の魔法陣で覆われている——それが本来の姿であっただろう。
今は、その魔法陣のところどころが、黒く腐食したように変色していた。
光るべき文様が光らない。流れるべきコードが淀んでいる。健康的な細胞の中に壊死した部分が混在しているような、そういう気持ちの悪い見た目だった。
「……ひどい状態だ」とメモリが静かに言った。普段の感情の見えにくい声に、今は明確な何かが混じっていた。
俺はデバッガーズ・アイを全開にした。
視界が源コードの洪水に染まる。普段は背景に流れているものが前景に出てくる——世界を構成するコードの一行一行が、目の前に広がっていく。
そしてすぐに気づいた。
このホール全体の源コードに、異質なコードが「注入」されている。
```
// [INJECTED CODE - DETECTED]
(function malicious() {
const targets = WorldAPI.getLocalSourceNodes();
targets.forEach(node => {
node.overwrite(self.replicate());
node.spread_to_neighbors();
});
setTimeout(malicious, 3600); // 1時間ごとに再実行
})();
```
「——これは」
思わず声が出た。
「どうした?」とガルドが問う。
「ウイルスだ。ダンジョンの源コード全体に、外部から異質なコードが注入されている。そのコードが自己増殖して、周囲の正常なコードを書き換え続けている」
「ウイルス……」アリアが険しく眉を寄せた。「これが、ダンジョンを暴走させた原因なのか?」
「原因はこれです。Aランクパーティが全滅したのも——ダンジョンの難易度と挙動が随時書き換えられ続けていたなら、どんな実力者でも対応できない。ルールが変わり続けるゲームには勝てない」
メモリが俺の隣に来た。瞳の回路模様が高速で動いている。同じ領域をスキャンしているのだ。
「マスター、このコードの記述様式——私の記憶のパターンと一致する部分があります。人工物です。自然発生ではありません。誰かが意図的に設計し、このダンジョンに注入した」
「設計者の識別子は?」
「暗号化されています。読めません」
「感染範囲は?」
メモリの瞳が一段強く輝いた。空間に半透明の地図が展開される——ダンジョン全体の構造図だ。感染している箇所が赤く表示されている。
「全体の四十三パーセント」
「四割以上……」
「除去しますか、マスター」
「します。メモリ、感染範囲のリアルタイムマッピングを頼む。俺が除去作業をする間、広がらないように監視してくれ」
「——了解。展開します」
作業が始まった。
俺がウイルスコードの一塊に「隔離タグ」を付与し、無効化する。一つ処理すると、ウイルスが別のルートから増殖しようとする。まさにマルウェア除去そのものだった。穴を一つ塞ぐと別の穴から流れ込もうとする——システムに深く根を張った悪意あるコードの典型的な動きだ。
「北東の結節点、増殖速度が上がっています」
「対処中。次は?」
「南壁の基幹コードへの侵入を試みています。優先度が高いです」
「南に先に飛ぶ」
「東の二次侵入路は一時封鎖できます。私が処理します」
「頼む」
メモリが手を翳した。半透明のコードが彼女の指先から延びて、東の侵入路に「壁」を作る——ウイルスの増殖をブロックする一時的なパッチだ。Lv.2のデバッガーズ・アイとは違う処理方式だが、効果はある。
「——封鎖完了。マスター、南を急いでください」
「わかった」
俺とメモリの連携が、作業を進めるうちに息の合ったものになっていった。一方が叫び、もう一方が即座に動く。互いの処理範囲を直感的に補い合う。
初めて組むとは思えない動きだ——もっとも、彼女はシステム管理のために作られた存在だから、こういう連携が本来の設計思想なのかもしれない。
三十分後。
感染率がゼロになった。
魔法陣の黒い腐食が消え、ホール全体が本来の白い光を取り戻す。壁面の文様が流れるように輝き、ダンジョン全体の構造が安定していく感覚があった。
同時に、出口が現れた。
天井部分の一角が開き、外の光が差し込んでくる。ダンジョンの暴走状態が解除され、本来のシステムが復旧した証拠だ。
「出られるぞ!」とガルドが真っ先に動いた。
全員で脱出する。
外の空気が、ダンジョンの湿気とは全く違う新鮮さで肺に入ってくる。空が広い。陽光が眩しい。
ガルドが大きく伸びをしてから、振り返った。
「俺はずっと終わると思ってたぜ」
「……本当に?」
「本当に。お前と組んでから、なんか終わる気がしねえんだよな」
根拠のない信頼というのは、時に論理より強い。
俺はその言葉を聞いて、なぜか少し、気持ちが楽になった。
「メモリ、聞いていい?」
「はい、マスター」
「あのウイルスコード——誰が、何のために?」
メモリは少し間を置いた。
「わかりません。ただ、私の記憶には——類似のコードに関する断片的な記録があります。でも繋がらない」
「繋がらない、というのは?」
「記憶のデフラグメンテーションが不十分です」メモリが静かに答えた。「断片が複数あることはわかっています。でもそれが何を示すのか、今は接続できない。もう少し時間がかかります」
「急がなくていい」
「急いだ方がいいかもしれません、マスター」
メモリが俺を見た。回路模様の瞳が、いつもより深く動いている。
「ただ確かなことが一つあります」
「何?」
「このダンジョンで見つかった汚染は——局所的なものではありません」
メモリの声が、わずかに沈んだ。
「私のスキャン結果では、この世界の源コードの複数箇所に、同様のパターンが存在することが確認できます。ダンジョンの外にも。都市の中にも。自然環境の中にも」
「——この汚染は」
「世界全体に広がっています」
誰も、すぐには言葉が出なかった。
俺は空を見上げた。
青い空だ。何も変わらない、普通の青い空。でも、デバッガーズ・アイで見れば——その「青」を定義するコードの中に、異物が混じっているのかもしれない。
「まず調べなきゃならないことが増えた」
俺は呟いた。
「増えましたね」とメモリが無感動に同意した。
「楽しそうじゃないか」とガルドが豪快に笑った。
俺は笑えなかった。
次回、第15話「王宮の論理」——調査の成果を持って王宮へ。しかし王宮には、別の「論理」で動く人物が待っていた。




