ブルペン初日
ブルペン初日:肩の恐怖が、球に負ける
ブルペンの土の匂いは、久しぶりに胸に刺さった。
正則はマウンドの前に立って、深く息を吸う。
(怖い。けど、投げる)
有村恒一郎がしゃがむ。
ミットを構える。
その形が、正則を落ち着かせた。
「無理すんな。今日は“確認”」
有村の声は短い。
正則は頷いて、軽く腕を振った。
一球目――低めにスッと入る。
ミットが小さく鳴る。
パシッ。
二球目――外の角。
三球目――内の角。
どれも大きく外れない。
(……いける)
痛みはない。
あるのは、投げた直後に胸がざわっとする“あの怖さ”だけ。
でも、正則は投げ終わった瞬間、すぐ前に一歩出た。
投球後の守備の構え。
自分で決めたルーティン。
「今の一歩、いい」
有村が言う。
正則は頷く。
ルーティンが“恐怖”を小さくしていく。
球は走っている。
コースにも決まる。
ブランクの影が見えない。
有村は立ち上がって言った。
「監督に言う。
次、試合で行ける」
正則の喉が鳴った。
監督決断:先発・河内正則、2イニング限定(打者6人まで)
試合前のミーティング。
川原監督(川原正志)が全員の前で言った。
「先発は河内。
ただし制限付き――2イニング、または打者6人まで。
それ以上は投げさせない」
ベンチの空気が変わる。
正則は立ち上がって、短く頭を下げた。
「行きます」
亜由美がセカンドの位置で、小さく拳を握る。
有村がミットを叩いた。
一方で、智雄の目が一瞬だけ細くなる。
(俺の番は後)
その事実が、胸を焦がす。
公式戦:vs 大阪ロケッツ
1回表(タイタンズ守備)
正則:1球目から“勝ち方”を知っている投球
正則がマウンドに立つ。
久しぶりの公式戦。
でも、表情に迷いがない。
有村がサインを出す。
正則は首を振らない。
ただ、すっと頷く。
初球――低めのコーナーいっぱい。
ストライク。
ロケッツの1番打者が一瞬、目を見開いた。
想像より“細い”球だったからだ。
二球目。
同じ高さに見えるが、タイミングが微妙にズレる。
正則は眼球を使っている。
投げる前の視線。
セットの間の見方。
打者に「来る」と思わせて、来ない“間”。
打者が振る。
ファウル。
三球目――外の角に、もう一段細く。
空振り。
ワンアウト。
正則はマウンドで大げさに喜ばない。
淡々と次へ行く。
2番打者:タイミングを外す“間”
正則はセットに入って、ほんの少しだけ止めた。
止めたように見せた。
実際は止めてない。
打者はその“間”に、呼吸をずらされる。
正則の球が低めに刺さる。
打者が打ち損じる。
セカンドゴロ。
亜由美が正面で捕って、一塁へ。
ツーアウト。
亜由美は投げたあと、正則に向かって声を飛ばす。
「いいよ!そのまま!」
3番打者:付け入る隙を与えない
球は走ってる。
コントロールもいい。
しかも投げっぷりがいい。
打者が“待つ”時間をもらえない。
内角で詰まらせ、浅いセンターフライ。
スリーアウト。
三人で終わり。
ベンチの空気が一気に軽くなる。
有村が戻ってくると、正則に一言。
「ブランク、ゼロやな」
正則は息を吐いて、笑いそうになった。
(怖さより、球の方が前に出た)
2回表(タイタンズ守備)
正則:6人目まで、完璧に抑える
4番打者。
正則は強く投げない。
でも速い。
そして“狙った場所に行く”。
低めの角。
低めの角。
最後は内角で詰まらせて、ショートゴロ。
ワンアウト。
5番打者。
打者は早めに仕掛ける。
それを読んで、正則はわずかにタイミングを変える。
結果、セカンドフライ。
亜由美が捕る。ツーアウト。
6番打者。
ここで正則は“勝負”を見せた。
低めに集めて、最後は外のコーナーいっぱい。
見逃し三振。
スリーアウト。
打者6人、完全。
正則はマウンドから降りるとき、ほんの一瞬だけ胸に手を当てた。
肩じゃない。心臓の鼓動。
(戻った)
完全にじゃない。
でも、戻る道の真ん中には立った。
ベンチでは亜由美が、土のついた手で小さく拍手した。
有村はマスクを外して言った。
「約束通り、ここまで。ナイス先発」
正則は頷く。
「次、頼む」
その言葉が、エースの言い方だった。
3回表(タイタンズ守備)
二番手:池永智雄
智雄はマウンドに上がると、先発の余韻を“自分の力”で塗り替えようとした。
球が速いことを、最初から見せつける。
初球――速い。ストライク。
観客が「おぉ」となる。
でも、二球目も速い。
三球目も速い。
テンポも同じ。
コースの意図が見えない。
打者はすぐに慣れる。
ファウル。
ファウル。
智雄はイラつき始める。
(なんで当たるんや)
(俺の球、速いのに)
そして力む。
球が高い。
甘い。
カキン。
ライト前ヒット。
有村がマウンドへ行く。
「智雄。落ち着け。
今のは“抑えたい”が先に来てる。
打者見ろ。配球で勝て」
智雄は唇を歪める。
「速い球で押せばええ」
有村の目が鋭くなる。
「押すのはええ。
でも今のお前は“押してる”んじゃない。
“自分の気持ち”投げてるだけや」
智雄は黙って戻る。
戻るが、聞いてない。
次の打者。
初球、高め。ボール。
二球目、高め。ボール。
カウントを悪くして、ストライクを取りにいって――
痛打。
センター前。
ノーアウト一、二塁。
亜由美:セカンドから声をかける
亜由美が二塁の位置から叫ぶ。
「智雄!深呼吸!いけるよ!」
声は優しい。
でも“今のままじゃ崩れる”っていう危機感も混ざってる。
智雄は一瞬だけ頷く。
けれど次の球も力任せ。
バントの処理で内野がバタつき、ランナーが進む。
ワンアウト二、三塁。
ここで智雄はさらに“抑えたい欲”に飲まれる。
三振を取りたい。
だから高めに行く。
だから浮く。
犠牲フライで1点。
さらに四球。
タイムリーで追加点。
試合の流れが揺れる。
ベンチの正則は、手を握りしめた。
(今の智雄は…勝つ投球じゃない)
有村はマウンドへ行って、強く言った。
「智雄!!
お前、勝ちたいんやろ!
なら、捕手を見ろ!打者を見ろ!
“自分”ばっか見んな!」
智雄の目が泳ぐ。
焦りが焦りを呼ぶ。
結局この回、ロケッツに複数点を許し、タイタンズは試合を苦しくする。




