リハビリ
試合の翌日。
朝の空気は冷たくて、昨日の熱だけが置き去りになっていた。
正則は目を覚ました瞬間、肩の重さで現実に戻った。
固定具のせいで寝返りがうまく打てない。
痛みは鈍い。ズキン、じゃなく、ジワジワ。
(俺、ほんとに投げられんのや)
枕元のグラブに視線がいきそうになって、すぐ逸らした。
見たら、握りたくなる。
握ったら、投げたくなる。
投げたくなったら、今の自分がいちばん惨めになる。
台所から母・恵子の音がする。
湯を沸かす音、食器の音。
いつも通りの朝が、逆に胸を刺す。
「正則、起きとる?」
姉の一香がドアの隙間から顔を出す。
「……起きてる」
「無理せんでええけんね。今日、病院やろ」
その言葉にうなずくしかない。
リハビリの始まり
病院のリハビリ室は、想像より静かだった。
派手な器具が並んでいるわけじゃない。
地味な動き。地味な反復。
でも、体の奥に効いてくる。
理学療法士が淡々と説明した。
「投げられるようになるには、“肩が治る”だけじゃ足りない。
痛みが引いても、動かし方が怖くなると固まる。
だから今は、焦らず“動かせる感覚”を戻します」
正則は、軽く腕を動かすだけで顔がしかめられる。
なのに、汗がにじむ。
(こんなんで、戻れるんか)
その不安を、言葉にできない。
帰り道、父・修司がハンドルを握りながら言った。
「投げられん時間は、投げられん時間で意味がある」
「……意味って、何」
父は少し考えてから言った。
「自分で探せ。見つけたら強い」
正則は窓の外を見た。
道路の線が流れていく。
(探す)
グラウンドに“投げずに”行く
数日後。
正則は練習に顔を出した。
ボールを持てない。
マウンドにも立てない。
それでも、ベンチに座るだけで、胸がざわつく。
智雄がマウンドで投げている。
相変わらず球は速い。
でも、有村のミットの動きが毎回大きい。
(収まってない)
正則は無意識に、相手打者の立ち位置や、タイミングの取り方を見る。
投手じゃなくても見えるものがある。
走塁練習で、外野から返ってくるボールが雑になる瞬間がある。
内野の声が途切れる瞬間がある。
(ここ、詰められる)
「……なぁ、梶原」
正則は主将の梶原大輔を呼んだ。
「外野の返球、もう一回だけ“ベースの前”意識させていい?
今、毎回ちょいズレる」
梶原が正則を見る。
「……言ってくれ」
正則は大声じゃなく、短く具体的に声を出した。
守備位置の確認。カバーの確認。
“投げないエース”の役目。
それだけで、練習の空気が少し締まった。
有村がベンチに戻ってきて、小さく言った。
「正則。今の声、助かった」
正則は、息を吐いた。
(俺にもできること、ある)
亜由美が付き合うリハビリ
夕方。
亜由美が自転車で正則の家まで来た。
「今日、リハビリ行った?」
「行った」
「じゃあ、軽く歩こう。医者が“動かせ”って言うなら動かす」
亜由美はそう言って、正則のペースに合わせて歩き出す。
歩幅を合わせるのが、うまい。
急がせない。置いていかない。
公園の横で、正則はぽつりと言った。
「……俺、投げられん間、何したらいいんやろ」
亜由美は即答しなかった。
その沈黙が、正則にとって優しかった。
「正則が投げる球、すごい。でもな」
亜由美は前を見たまま言う。
「投げる球だけが正則じゃない。
正則が“勝ちたい”って思って考える頭、それもチームの武器や」
正則は、喉の奥が熱くなる。
「俺、みんなが勝ってるのを見るのがつらい」
「つらいって言っていい」
亜由美は、やっと正則の方を見た。
「つらいけど、逃げんで練習来とる。
それがもう、エースのやり方やと思う」
正則は笑いそうになって、笑えなかった。
でも、目が少し潤んだ。
亜由美は話題を変えるように言う。
「で、今日の痛みは?昨日よりマシ?」
正則は肩をそっと動かしてみる。
「……ちょっと、マシ。
ズキンっていうより、鈍い感じ」
「よし。じゃあ、明日も同じだけ。
“増やさない”が勝ちやけんね」
亜由美は、いつも“勝ち”を違う形で言う。
痛みが取れ始めた頃
数週間が過ぎた。
カレンダーの紙がめくれるたびに、正則は焦りそうになる。
でも、亜由美が止める。
「急ぐな。急いだら戻るの遅くなる」
正則の肩の痛みは、ある日ふっと軽くなった。
ゼロじゃない。
でも、“怖いほど痛い”ではなくなった。
その夜、正則は久しぶりにグラブを手に取った。
握るだけ。
投げない。
投げられない。
でも、握れた。
(戻れる)
その小さな感覚が、胸の奥に灯った。
1ヶ月目:正則、ノートを持つ
練習に来た正則の手には、ボールじゃなく小さなノートがあった。
誰に言われたわけでもない。
自分で思いついた。
投げられないなら、見る。
見るなら、残す。
残すなら、役に立てる。
ベンチの端。
正則は相手チームの練習試合の映像をスマホで見たり、対戦したことのある打者の癖を思い出したりしながら、短く書く。
右打ちの○○:初球は見てくる、追い込むと外に逃げがち
左の△△:インコース苦手、でも高いと引っぱる
走者出ると□□:サイン盗みっぽく首が動く(※決めつけず注意喚起だけ)
書き方は雑でもいい。
大事なのは「チームが一つ助かる」こと。
有村恒一郎がそれに気づいたのは、練習試合の前だった。
「正則、それ…何」
正則は照れくさくて、少しぶっきらぼうに言う。
「相手の打者の癖。
俺、投げられんけん、せめて“守り方”くらいは…」
有村はノートを受け取って、数ページ眺めた。
「……これ、めっちゃ助かる」
その一言で、正則の胸の奥にあった黒い塊が、少しだけほどけた。
亜由美、セカンドで“正則の言葉”を形にする
亜由美は、正則のノートの内容を「守備」に落とし込むのが上手かった。
「次の打者、引っぱり強いなら、二遊間ちょい右寄り」
「バントしてくるなら、サード前め」
「一塁ランナー速いなら、牽制の時は二塁ベース寄りに構える」
それを、亜由美は“命令”じゃなく“提案”で言う。
「こうしたら守りやすくない?」
「みんな、ちょいだけ寄ってよか?」
口調が柔らかいから、反発が起きない。
しかも当たるから、誰も逆らわない。
正則はベンチでその光景を見て、ふっと思う。
(亜由美、すげぇな)
そして同時に気づく。
(俺の考えを、あいつがチームに届けてくれてる)
投げられない時間が、孤独じゃなくなっていく。
練習試合:智雄が先発、“速さ一本”で行く
週末の練習試合。
智雄が先発だ。
マウンドに上がる前から、声がでかい。
「今日は俺が全部抑える!」
拍手が起きる。
でもそれは、鼓舞というより“空気を明るくするため”の拍手だった。
試合が始まる。
智雄の球は速い。
序盤は押せる。
ただ――正則の目には、嫌な兆しが見えていた。
(同じ入り方、同じテンポ。
打者、二巡目で慣れるぞ)
案の定、2回の後半から、ファウルが増え始めた。
粘られる。球数が増える。肩が上がる。
有村がマウンドに行く。
「智雄、ここで一回間を置こう。
次、コース散らして――」
智雄は首を振る。
「速い球で押せばええやろ」
有村が押し返す。
「押せる相手ならな。
でも今、合われ始めてる」
智雄は不機嫌になる。
「お前、俺の球遅いって言いたいんか?」
有村が一瞬黙って、言葉を選んだ。
「遅いんじゃない。
“読みやすい”」
その言葉が智雄の神経を逆撫でした。
「……うるさい」
次の球を力任せに投げて、球が高く浮く。
打たれる。二塁打。
ベンチがざわつく。
正則の“提案”が初めて刺さる
タイタンズが守備についた回。
相手の左打者が打席に入った。
正則はノートを見て、亜由美に声をかける。
「その子、引っぱり強い。
セカンド、半歩右。ショートも右寄りで」
亜由美が即座に内野へ指示を飛ばす。
「みんな、ちょい右!いま右!」
次の球。
打者が引っぱる。二遊間へ鋭いゴロ。
亜由美が動く。
正面に入って捕って、一塁へ。
アウト。
ベンチが「おぉ…!」とざわつく。
梶原大輔がベンチに戻りながら、正則に言った。
「今の、正則の読みか?」
正則は小さくうなずく。
梶原が笑う。
「すげぇな。投げられんでも、エースやん」
その言葉が、正則の胸に真っ直ぐ刺さった。
“投げられるかどうか”だけじゃない。
“勝たせるかどうか”がエースなんだと、少しだけ分かった。
智雄の苛立ちが、正則に向く
練習試合が終わったあと。
ベンチ裏。
智雄が水を飲みながら、正則の方を見た。
「……最近さ。
正則が偉そうに言うせいで、みんな変な守備してね?」
空気が凍る。
亜由美が一歩前に出そうとして、梶原が手で止めた。
梶原が静かに言う。
「池永。守備の指示で助かってる。
それを“偉そう”は違う」
智雄は鼻で笑う。
「投げられへんくせに、口だけは出すんやな」
その瞬間、有村が前に出た。
「智雄。言葉、選べ。
正則は怪我してる。
でも、今チームが勝ててるのは、正則の読みもある」
智雄の顔が赤くなる。
「はぁ?じゃあ正則がエースってことやん」
有村は一拍置いて言った。
「……エースは背番号じゃない。
“勝たせる仕事をするやつ”や」
その言葉が、智雄の胸に刺さったのが分かった。
刺さったから、智雄は笑った。
笑って誤魔化した。
「はいはい、優等生」
でも、その笑いは薄かった。
夜:亜由美とリハビリ、痛みが引いていく
その日の帰り道。
亜由美は自転車を押しながら歩いた。
「今日さ、正則のノート、ほんと役に立った」
正則は肩を少し回してみる。
前より動く。痛みも少ない。
「……痛み、だいぶ取れてきた」
亜由美の顔がぱっと明るくなる。
「やろ?焦らんでも、ちゃんと戻るんよ」
正則は空を見上げた。
夜風が冷たい。
でも、胸の中には小さな熱がある。
「俺さ……投げられん間に、
“勝つ方法”を覚えたい」
亜由美が笑う。
「もう覚え始めとるやん。
次は投げられるようになった正則が、
その“勝つ方法”を球で見せる番」
正則はうなずいた。
(戻ったら、ただ速い球を投げるだけじゃない)
(俺は、勝つ投球をする)




