公式戦
大阪イックス戦 当日(小6・公式戦)
正則はベンチにいた。
固定された肩が、ユニフォームの下で重い。
それでもキャップを深くかぶり、視線だけはグラウンドから外さなかった。
(見てる。全部)
セカンドの加藤亜由美は、二塁ベースの横でグラブを握りしめている。
捕手の有村恒一郎はマスクをかぶり、ホームベース後方にしゃがみ込む。
そしてマウンドには――池永智雄。
歩き方からして“先発様”だった。
ベンチに向かって軽く顎を上げ、グラブを叩く。
「行くで」
誰に言うでもなく。
でも、言っている。
⸻
1回表(タイタンズ守備)
智雄:速さで押す。だが“置きにいく”球がない
先頭打者。
智雄は初球から力でいった。
ズバン、とミットが鳴る。
球場が「おぉ…」とざわめく。
(速い)
確かに速い。
でも正則の目には、別のものも見えていた。
(全部、同じテンポ)
二球目も速い。
三球目も速い。
打者は、最初は押される。
でも、プロじゃない。小学生でも“慣れ”は来る。
ファウル。
ファウル。
粘られる。
有村がタイムをかけずに立ち上がり、マウンドへ歩く。
口元だけ動かす。
「智雄、球速はええ。でもずっと同じやと合わされる」
智雄は不機嫌そうに眉を動かす。
「速かったら打てんやろ」
有村は一歩引かない。
「速くても、狙いが見えたら打てる。
“ここで何をしたいか”を決めよ」
智雄は、聞いているのかいないのか分からない顔で戻る。
結局、粘られて四球。
先頭を歩かせた。
ベンチが一瞬静かになる。
正則は、歯を食いしばった。
(正則なら、先頭は絶対に歩かせん)
⸻
1回裏(タイタンズ攻撃)
ベンチの空気は重い。
でも主将の梶原大輔が声を張る。
「守りで点やらん!取り返すぞ!」
正則は声を出せない代わりに、ベンチの柵を握りしめる。
亜由美が一瞬だけ、正則の方を見た。
“任せろ”と言う目だった。
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2回表(タイタンズ守備)
「速いだけ」の弱点が出始める
二回、智雄はさらに強く投げる。
球が上ずる。
ストライクが入らない。
四球。
四球。
有村がマスク越しに、少し声を強めた。
「智雄、腕だけで投げるな。力むほど浮く!」
智雄はムッとする。
「うるさい。俺が投げてんねん」
その言い方で、正則の胸がざわついた。
(“俺が投げてる”じゃなくて、“俺が勝たせる”やろ)
ランナーが溜まる。
次の打者が振った。
ライナーが二塁の横を抜けそうになる。
亜由美が動いた。
一歩目が速い。
体を滑り込ませて止める。
「ナイス!」
梶原の声。
正則も思わず立ち上がりかけて、肩の痛みで顔をしかめる。
亜由美は土だらけで立ち上がり、二塁へ送る。
併殺は取れない。
でも最悪は防ぐ。
有村はマウンドに一瞬だけ目をやる。
智雄は、味方の守備に救われたのに、感謝の素振りがない。
(“自分の力”しか見てない)
それが、有村には一番怖かった。
結局、この回は犠牲フライで1点先制される。
0-1。
ベンチが沈む。
智雄は戻ってくるなり言った。
「守備がちゃんと取ってたら点入ってへんやろ」
その瞬間、ベンチの空気が凍った。
正則は、口の中が苦くなった。
言い返したいのに、言えない。
主将の梶原が低い声で言う。
「池永、それは違う」
智雄は聞こえないふりをする。
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2回裏(タイタンズ攻撃)
タイタンズは粘って四球で出塁するが、あと一本が出ない。
正則はベンチで、相手投手の球筋を見ている。
(こいつ、緩急がうまい。打線がタイミング外されてる)
“速さだけ”じゃない投球が、ここにある。
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3回表(タイタンズ守備)
捕手が“配球”で修正しようとするが…
有村は、ここで思い切ってサインを変える。
速い球ばかりを要求しない。
コースを散らす。テンポを変える。
智雄は最初、首を振った。
何度も振った。
有村がミットを叩いて小さく言う。
「首振るなら、理由がいる。今のままやとまた歩かせるぞ」
智雄が苛立って投げる。
ストライク。
でも次が抜ける。
球が高い。
バットが出る。
カキン――。
センター前。
ランナーが出る。
有村がまたマウンドへ行く。今度は短く。
「智雄。球速は武器や。でも“武器一本”で勝てる相手ちゃう」
智雄の目がギラつく。
「俺がエースや。俺のやり方で行く」
有村は一瞬だけ言葉を失った。
捕手として、いちばん困る返事だった。
(エースって、そういう意味じゃない)
結果、連打でピンチが広がり、内野の間を抜けて追加点。
0-3。
正則はベンチで目を閉じた。
(見てられん)
でも見なきゃいけない。
これは“明日の自分”のための現実だ。
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3回裏(タイタンズ攻撃)
タイタンズは一点返す。
亜由美の内野安打がきっかけで、押し出しに近い形で1点。
1-3。
ベンチが少しだけ息を吹き返す。
亜由美はベンチに戻ると、正則の前で小さく拳を握った。
「まだ行ける」
正則は小さくうなずく。
3回終了後
3回裏が終わり、ベンチへ戻ってきた智雄は、グラブを乱暴に叩いた。
「まだいける。次、抑える」
言い方が、もう“宣言”だった。
川原監督(川原正志)は、智雄の顔を一瞬見てから、スコアボードではなく、球数係のメモの方へ視線を落とした。
その表情が、少しだけ硬くなる。
(もう、だいぶ投げてる)
小学生の試合は、ただでさえ球数管理がシビアだ。
しかも智雄は、四球が多い。粘られている。テンポが遅い。
一球一球が“長い”。
投手コーチの野村誠が、低い声で監督にだけ言った。
「肩、上がってきてます。フォームも力みで崩れかけ」
ヘッドコーチの吉岡恒一も頷く。
「このまま行かせたら、試合も肩も危ない」
川原監督は、智雄の方を向いた。
声は静かで、逆に逃げ場がない。
「池永。次の回――3人で抑えられんかったら交代や」
ベンチが一瞬止まる。
智雄の顔が、ぱっと赤くなる。
「……なんでや!? まだ俺、投げれる!」
川原監督は言い返さない。
ただ、淡々と現実を並べた。
「球数が嵩んでる。四球も多い。テンポも悪い。
このまま引っ張ったら、チームが終わる」
「でも、俺がエースやろ!」
智雄の声が上ずる。
その言葉に、捕手の有村恒一郎が、ついに一歩前に出た。
マスクを外して、はっきり言う。
「智雄。エースって、“最後まで投げる人”ちゃう。
チームが勝つ投球する人や」
智雄は睨み返した。
「お前、正則の味方やからそう言うんやろ」
有村の目が一瞬だけ揺れる。
でも、揺れたのは怒りだった。
「俺はタイタンズの捕手や。味方はチームや」
その言葉が、ベンチの空気を決めた。
正則はベンチの端で、それを黙って聞いていた。
肩の痛みより、胸の奥の痛みの方が強い。
(俺が投げられへんから、こうなってる)
悔しさが波みたいに押し寄せる。
でも同時に、監督の判断が正しいことも分かる。
“投げさせる”ことが、必ずしも“信じる”ことじゃない。
それを正則は、初めて真正面から見た。
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4回表(タイタンズ守備)
“最後の一回”の始まり
智雄がマウンドへ向かう背中は、さっきより大きく見えた。
大きく見えるのに、どこか危うい。
セカンドの亜由美が、二塁の位置で声を張る。
「よし!守ろう!」
内野が返事をする。
外野も構える。
でも、全員が分かっている。
ここは、ただの1回じゃない。
智雄にとっては“裁定”みたいな1回だ。
先頭打者。
智雄は力んで初球を投げる。
――ボール。高い。
二球目。
またボール。
(あかん、入らん)
有村がミットを構え直し、サインを短くする。
“考えさせない”。
“投げさせる”。
三球目。
ストライク。
球場が少しだけ息を吐く。
四球目。
ファウル。
五球目。
ボール。
六球目。
またボール。
フルカウント。
智雄はここで、見栄を張った。
力で押し込もうとする。
投げた球は――また高い。
四球。
先頭を歩かせた瞬間、ベンチの空気が沈む。
有村がタイムをかけてマウンドへ行く。
声は低いが、刺さる。
「智雄。落ち着け。腕だけで投げてる。
“抑えたい”が先に来てる」
智雄は歯を食いしばる。
「分かってる」
でも、その“分かってる”が、一番危ない。
次の打者。
初球、ストライク。
二球目、ストライク。
(よし、いける)
その瞬間、三球目が抜けて死球になりかける。
打者が避けて、球場がざわつく。
監督席の川原監督が、立ち上がりかける。
亜由美が二塁から叫ぶ。
「智雄!深呼吸!」
智雄は一瞬だけ、こちらを睨む。
そして投げた四球目――
打ち取ったはずの当たりが、三遊間を抜ける。
ヒット。
ノーアウト一、二塁。
ここで、川原監督がベンチの前に出る。
笛は鳴らさない。
ただ、両腕を交差させる。
「交代」
その合図を見た瞬間、智雄の表情が凍る。
「……なんでや!!まだ――」
川原監督はマウンドに向かいながら言う。
「約束や。3人で終わらせられんかった」
それだけだった。
言い訳を許さない、監督の声。




