将来の夢
亜由美の家の近くまで来ると、街灯がぽつぽつ点き始めていた。
昼の熱はまだ残っているのに、風だけは少しだけ秋の匂いを混ぜてくる。
自転車を止めて、二人は並んで息を整えた。
亜由美はさっきの冷たいお茶を飲みきって、ペットボトルを軽く振る。
「空っぽ。…ちゃんと返すわ」
「姉ちゃんに返しとく」
「うん。…今日、ありがと。ミスドも、お茶も」
正則は照れたように、視線を外しながら言う。
「別に。お前、練習も頑張っとったし」
亜由美はその言い方が嬉しくて、ちょっと笑った。
でも笑いながら、ふと真面目な顔になる。
「正則さ、最近思うねん。
野球の時間も、こうやって帰り道にしゃべる時間も、なんか…めっちゃ大事やなって」
正則は頷く。
言葉にするのが得意じゃないから、短く。
「…分かる」
亜由美は前輪を指でくるっと回しながら続けた。
「正則、絶対もっと上行くやろ。
中学でも、高校でも。たぶん…プロも」
“プロ”という言葉が出た瞬間、正則は一瞬だけ息を止めた。
胸の奥が、熱くなる。怖いくらいの、現実味。
「……行きたい」
正則がぽつりと言うと、亜由美はすぐ返した。
「うん。行ったらええ。
私、ちゃんと横におるし」
正則が亜由美を見る。
嘘じゃない目をしている。
「……お前も野球、続けるんやろ」
「続ける。絶対。
女子でもできるって言うん、私が証明したい」
亜由美は笑って、でも言葉は強かった。
「ソフトでもええ。硬式でもええ。
私は“勝負する場所”に行きたい」
正則は、その言葉が好きだった。
自分と同じ匂いがするから。
その夜のことは、まだ誰も知らない。
でも未来は、確かにそこから伸びていく。
小学生の頃のこの帰り道。
汗と土と、甘いドーナツの匂い。
一香が出してくれた冷たいお茶。
有村のミットの音。
亜由美の「やった〜」という声。
正則にとって、それは“ただの日常”だった。
でも、のちにそれが分かる。
日常こそが、いちばんかけがえのないものだと。
正則は中学でも高校でも、投げ続ける。
速さだけじゃない。
球数を管理し、感情を整え、勝負所で崩れない投球――
それが評価され、やがてプロへ進む。
そして、次の夢が現実になる。
メジャー。
遠い世界の言葉だった場所へ、正則は自分の足でたどり着く。
その頃、亜由美もまた、自分の道を登っている。
女子のソフトボールで国内強豪の社会人チームに入り、
勝負の厳しさと、結果の重さを知る。
そこで磨かれたのは技術だけじゃない。
“続ける力”だった。
そしてある日、二人の人生は同じ場所へ向かう。
アメリカ。
正則が海を渡るとき、亜由美も渡る。
観客としてじゃない。
“自分の戦う場所”を持って。
遠征でもなく、旅行でもなく、生活として。
玄関前で、亜由美が小さく言う。
「…正則。明日も練習やろ?」
「当たり前や」
「じゃあ、明日も頑張ろ」
「おう」
亜由美は一歩だけ近づいて、声を落とす。
「……好きやで」
正則は一瞬固まって、耳まで赤くなりそうになって、
でも逃げずに言った。
「……俺も」
亜由美は満足そうに笑って、玄関へ向かった。
「ほな、また明日!」
「おう。気ぃつけて入れよ」
亜由美が振り返って手を振る。
正則も片手を上げる。
その背中を見送りながら、正則は思う。
(この日々を守るために、強くなる)
強さは、勝つためだけじゃない。
大事なものを失わないためにも、必要なんだと。
① 翌日の練習 ― 智雄、球数管理ノートを始める
翌日。
タイタンズのグラウンドは、昨日のコールド勝ちの余韻がまだ残っていた。
でも川原監督は、雰囲気に酔わせない。
「勝った次の日が一番大事や。
“何が良かったか”を残せ。今日も練習する」
智雄は、いつもより少し早く来ていた。
手にはノート。新品で、表紙がまだ硬い。
真央がそれに気づいて声をかける。
「……それ、何?」
智雄は少し照れて、でも隠さずに言った。
「球数とか…自分のこと書く。
昨日、言われたし…」
真央は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐ戻る。
「いいね。じゃあ、書くなら“今日の目的”も最初に書いて。
球数管理って、数字だけやないから」
智雄はペンを握り直して、ノートに書いた。
今日の目的:初球ストライクを増やす
感情を先に出さない(イラついたら深呼吸)
捕手のサインに首を振らない理由を言語化する
その文字が、智雄の中で“覚悟”になっていく。
ブルペン。
智雄は投げる。
速い。だけど今日は“速さ”じゃなく、“形”を意識する。
有村がミットを叩く。
「初球、ストライク取れるかどうかで、全部変わるで」
智雄は頷く。
そして――初球を、低めへ決める。
パンッ。
「今のええやん」
いつもの智雄なら、そこで気分が上がって力んでしまう。
でも今日は違う。
(次も同じや。浮かせん)
二球目も、外角へ。
少し外れた。
智雄が眉をひそめかけた、その瞬間。
(深呼吸)
自分で息を整えて、目線を落として、もう一回ミットを見る。
有村が小さく笑った。
「それや。今の“間”や」
智雄の球はまだ安定しきらない。
でも、“崩れ方”が昨日までと違っていた。
感情で崩れていない。修正しようとしている。
監督が遠くから見て、短く言う。
「智雄、今の良かった。
“投げる前”に自分を整えられたな」
その一言に、智雄の胸の奥が、少しだけ軽くなる。
② 一香視点 ― 亜由美への優しい助言
練習終わり。
昨日と同じように、亜由美が正則を迎えに来る。
正則は相変わらず、野球の話になると寡黙だ。
必要なことだけ言って、あとは黙ってボールを片付ける。
でも亜由美は、そんな正則の横にいるのが当たり前みたいに立っている。
その様子を、少し離れた場所から一香は見ていた。
弟のことは、姉が一番よく分かる。
(あいつ、野球のことになると壁みたいになる)
(けど…壁の向こうで、ちゃんと嬉しがってる)
家に戻ると、正則は口数が少ないくせに、
どこか機嫌が良い顔をしている。
それが一香には分かっていた。
だから、一香は亜由美に声をかける。
「亜由美ちゃん、ちょっと」
亜由美が振り向く。
「はい?」
一香は、笑いながらも、ちょっとだけ真面目な声で言った。
「正則、野球になったらめっちゃ寡黙やろ?」
亜由美が苦笑する。
「はい…めっちゃです。喋らんです」
「せやろ。
でもな、亜由美ちゃんがセカンドから見守ってくれてるの、
結構嬉しいみたいやねん」
亜由美は目を丸くする。
「え…でも正則、そんなそぶり全然…」
一香は頷く。
「せやと思う。亜由美ちゃんには見せん。
あいつ、カッコつけやから」
亜由美が吹き出す。
「カッコつけ…」
「でもな、帰ったらめっちゃ嬉しそうな顔してる。
“今日の亜由美、守備よかった”とか、
ボソッと言うて、口元だけちょっと緩むねん」
亜由美は、急に胸が熱くなって、言葉が出なくなる。
一香は、そんな亜由美を見て、声を柔らかくした。
「だからね。
正則が黙ってても、“あ、今考えてるんやな”って思ってあげて。
それで、必要な時だけ背中押してあげたらいい」
亜由美は小さく頷く。
「…はい」
一香は最後に、少しだけいたずらっぽく言った。
「あと、たまに褒めたって。
あいつ、褒められたら顔に出んけど、
フォームは良くなる」
「え、ほんまですか」
「ほんま。姉の経験値を信じて」
亜由美は笑って、胸のあたりを軽く押さえた。
「…ありがとうございます、一香さん」
「うん。ほな、気ぃつけて帰りや」
③ 未来への伏線 ― 中学での再戦、亜由美の“本物”
数週間後。
川原監督が、練習の締めに言った。
「お前ら、中学入ったら世界変わるぞ。
このチームで“勝てた経験”持って上がれ」
その言葉の意味を、正則は静かに噛みしめる。
(中学…)
(もっとすごい投手も、打者もおる)
(智雄も…たぶん変わる)
そして、その中学のグラウンドで、
正則の前に立ちはだかる投手が出てくる――
“大阪でも有名な左腕”。
今はまだ名前だけが噂になっている。
「城東の中学に、えげつない左おるらしいで」
「回転数が違うって」
正則は、何も言わない。
でも目だけが、少しだけ鋭くなる。
(なら、打つ準備するだけや)
一方、亜由美は亜由美で、別の“本物”の世界に入っていく。
女子のソフトの強豪クラブの練習に呼ばれ、
見学じゃなく、普通に混ぜられる。
速い送球。
深い位置からの一塁への矢のような球。
二遊間の連携。
亜由美は、その中で――怯まない。
セカンドで、打球に一歩目が出る。
逆シングルで捕って、そのままスナップで投げる。
「……あの子、ほんまに中学生?」
周りがざわつく。
“伊達にソフトでならしたわけじゃない”
ではなく、まだならしてもいないのに、
すでに“勝負の手触り”を知っている。
正則は、その姿を見て思う。
(俺だけが上に行くんじゃない)
(亜由美も、自分の場所で上に行く)
この二人は、同じ方向を向いている。
それが恋人としての強さでもあり、
競技者としての強さでもあった。
そしていつか――
正則がプロへ進み、さらに海を渡る時。
亜由美もまた、国内強豪の社会人ソフトで結果を残し、
“自分の戦い”を携えて、同じ空の下へ行く。
その始まりは、
セカンドからの視線と、帰り道の何気ない会話だった。




