決定的な違和感
亜由美が「決定的な違和感」を拾う
練習が終わり、片づけが始まった。
夕方の光が内野の土を赤く染めて、みんなの影が長く伸びる。
正則はボールケースを抱え、用具置き場へ向かった。
その後ろを、亜由美が何気ない顔でついてくる。
「なぁ正則」
「ん?」
「ボールケース、ちょっと見せて」
正則は一瞬だけ迷った。
でも、亜由美の目がふざけてないのが分かる。
「……ええよ」
亜由美はケースを開け、指先で中をなぞった。
ボール、タオル、ロジン袋――その隙間。
底の角。
カサッ。
亜由美の指が、透明っぽい薄いものに触れた。
「……これ」
つまみ上げると、昨日と同じようなフィルム片。
でも、今日はもう一つあった。
米粒みたいに小さい、白っぽい粒。
粉じゃない。砂でもない。
指で潰すと、ほんの少しだけ――ぬめっとする。
亜由美は鼻を近づけた。
「……これ、ハンドクリーム系の匂いする」
正則の顔から血の気が引く。
「は? そんなもん、俺持ってない」
「せやろな」
亜由美は落ち着いた声で続ける。
「“滑らせる”ために使うやつや。
ボールそのものじゃなくて、ケースの中に仕込んで、ボールに移るように……」
言い終えた亜由美は、視線を上げた。
用具置き場の少し先。
池永智雄が、仲間と笑っている。
笑っているのに、その目だけが――こちらを測っている。
亜由美は言った。
「正則。これ、監督に渡す。今すぐ」
「でも、誰がやったとか……」
「言わん。言わんけど、“物”が出たら話は変わる」
川原監督・野村コーチに提出
川原監督(川原正志)は、亜由美の差し出したフィルム片と粒を見て、眉を動かした。
投手コーチの野村誠が、手袋越しにそれを受け取り、紙に包む。
「……これ、偶然じゃないな」
川原監督は短く言う。
「明日、大阪イックス戦や。
今日のうちに**“管理のルール”**を確定する」
ヘッドコーチの吉岡恒一が頷く。
「ボールは監督管理。投手のケースには入れさせへん。
ロジンも新品を個別支給。練習球と試合球を完全分離」
川原監督は亜由美を見た。
「よく気づいたな」
亜由美は真っ直ぐに返す。
「セカンドやからです。後ろから見てました」
「…なるほど」
川原監督は一拍置いて、静かに言った。
「ただし、今は“犯人探し”をしない。
明日は試合や。チームを崩すのはまだ早い」
正則はその言葉に、少しだけ救われた。
でも同時に、怖い。
(まだ、終わってない)
大阪イックス戦 前夜:智雄の“再度の細工”と、亜由美の張り込み
その夜。
智雄は家で、机の引き出しを開けた。
小さな容器。
透明のジェル。
「滑り」を生むもの。
(今日、見つかった…?)
確証はない。
でも、監督が急に管理を変えた。
誰かが気づいたのは間違いない。
智雄は唇を歪めた。
(なら、次は“もっと”確実にやる)
試合当日、朝。
グラウンドの隅。用具置き場。
智雄は早く来た。
誰もいない時間を狙う。
――ところが。
そこに、亜由美がいた。
一見、ただの自主練前の準備。
でも、立ち位置が妙にいい。
用具置き場が見える角度。逃げ道も見える角度。
智雄は一瞬だけ足を止めた。
(なんで、こいつがここに…)
亜由美は気づかないふりをして、靴紐を結び直している。
その“ふり”が、逆に智雄を焦らせた。
智雄は、あえて普通に歩いた。
普通に、用具置き場の前を通った。
そして――手を伸ばした。
その瞬間。
「池永くん」
亜由美の声。
智雄の手が止まる。
「何?」
「そこ、触る必要ある?」
智雄の目が鋭くなる。
「なんやねん。俺、ボール取りに来ただけや」
亜由美は立ち上がり、にこりともしない顔で言った。
「ボールは監督管理。昨日、決まったやろ」
智雄の口元が引きつった。
「……知らんわ」
「知ってるはずや。監督、みんなの前で言うた」
その瞬間、智雄は悟った。
(こいつ、見張ってる)
亜由美の背後から、足音がした。
有村恒一郎。
そして川原監督。
川原監督の目が、智雄の手元を見ている。
「池永。何してた」
智雄は笑ってごまかそうとする。
「いや、ボール……」
「ボールは俺が管理してる。触るなと言ったはずや」
空気が硬くなる。
智雄の中で、何かがきしむ。
そして、ここで――智雄は“次の手”に出る。
智雄が亜由美を排除しようとする(口実は「女子」)
智雄は急に声を大きくした。
「そもそもや! 女子が内野とか、危ないやろ!」
周囲の選手が固まる。
誰もが分かる。
これは“心配”じゃない。排除だ。
「セカンドなんて、打球速いねん。怪我したらどうすんねん」
亜由美は一歩も引かない。
「危ないのは分かってる。だから練習してる。
それに――それ言い出したら、男子でも怪我するやろ」
「屁理屈言うな!」
智雄の声が荒れる。
抑えが利かない。
そのとき主将の梶原大輔が前に出た。
「池永。今のは違う」
松浦亮も、ぽつりと続ける。
「亜由美、守備うまいで。昨日見たやろ」
森下蓮が肩をすくめる。
「女子とか関係なくね?」
智雄の視線が泳いだ。
“味方がいるはず”と思って出したカードが、通じない。
川原監督が、低い声で言った。
「池永。俺は“野球”を見ると言った。
お前が今やってるのは、野球ちゃう」
智雄の喉が鳴る。
顔が赤い。
手が震える。
そして――正則が、静かに言った。
「……俺のボール、触ったんか?」
その一言で、空気が止まった。
智雄は笑おうとした。
でも笑えない。
「何のことやねん……」
ただ、その声は、誰にも届かなかった。
“疑い”が、形を持ち始めていた。
イックス戦・前日練習
夕方のグラウンドは、試合前特有の張り詰め方をしていた。
声は出ているのに、笑いが少ない。
誰もが「明日」を意識している。
紅白戦。
実戦形式。
球の速さ、打球の速さ、全部が試合に近い。
正則はマウンドにいた。
肩は軽い。フォームもいい。
有村恒一郎のミットに、いつも通りの音が返る。
(明日、勝つ)
そう思った瞬間だった。
打者が振った。
音が短い。
嫌な音――硬い音。
打球は一直線に、マウンドへ戻ってきた。
「正則!」
誰かの声が聞こえた気がした。
でも、次の瞬間にはもう遅い。
グラブを出す。
反射で体も少しひねる。
――間に合わない。
ドンッ。
衝撃が肩口から胸にかけて走って、息が抜けた。
視界が一瞬、白くなる。
正則は膝をついた。
土の匂いが近い。
音が遠い。
「正則!!」
キャッチャーの有村がマスクを投げて駆け上がってきた。
セカンドの亜由美もベースを離れて走ってくる。
正則は声を出そうとしたのに、出ない。
痛みが“点”じゃなく“面”で広がっていく。
川原監督(川原正志)の笛が鳴る。
「動かすな! 吉岡、車!」
ヘッドコーチの吉岡恒一が走り、投手コーチの野村誠が正則の肩に触れた。
「どこや。肩か、胸か」
「……肩、っす……」
声がようやく出た。
それだけで、息が痛い。
亜由美が唇を噛んで、正則の顔を覗き込む。
「正則、目、合う? しんどい?」
正則はうなずくだけしかできなかった。
病院
レントゲン。触診。
医師の口から出た言葉は、思っていたより重かった。
「骨に大きなズレはない可能性が高いけど、打撲が強い。
炎症が出てる。投球はしばらく無理。無理したら、クセが残る」
「しばらく、って……」
母の恵子が聞くと、医師は淡々と言った。
「数ヶ月かかることもあります。投げられるようになるまで、焦らないでください」
正則は、ベッドの白い天井を見た。
目の奥が熱くなったけど、涙は出なかった。
(明日、イックス戦なのに)
それだけが、頭の中でぐるぐる回った。
帰宅
家の玄関を開けると、姉の一香が走ってきた。
「正則! ……うわ、肩、どうなっとるん」
「ちょっと当たっただけや」
口ではそう言ったが、母の恵子は顔に出してしまうタイプだった。
心配が、目元に溜まっている。
少しして、父の修司が仕事から帰ってきた。
建築材を作る工場の作業着のまま、玄関で固まる。
「……正則」
父はそれ以上、言葉が出なかった。
余計な励ましを言えば、息子の悔しさを潰してしまうと分かっている。
父は黙って作業着を洗濯機に放り込み、手を洗って戻ってきた。
「痛むんか」
「……痛い」
それだけ言うと、正則の喉が詰まった。
父は頷くだけで、正則の隣に座った。
「医者が“投げるな”って言うなら、投げるな。
焦ったら、野球が終わる」
父の言葉は短い。
でも、変に甘くない分、正則の胸に刺さった。
夕飯は、食べられる分だけ。
母が作ったうどんは優しかったが、正則の喉を通るときだけ苦かった。
部屋に戻ると、グラブが置いてある。
それを見た瞬間、正則は目を逸らした。
(触ったら、投げたくなる)
でも投げられない。
その事実が、胸の奥をじわじわ痛める。
亜由美、見舞いに来る
夜。
インターホンが鳴った。
母が出ると、小さめの紙袋を抱えた亜由美が立っていた。
「こんばんは。……正則、大丈夫ですか」
母はほっとした顔をして、すぐ中へ入れた。
「ありがとうなぁ。今、部屋におるよ」
亜由美は玄関で靴を揃えると、いつもより静かに廊下を歩いた。
その静かさが、“本気で心配してる”って分かる。
正則の部屋の前。
「入るで」
返事を待たずに、亜由美は入った。
正則はベッドの端に座っていた。
肩が固定されていて、いつもの姿と違う。
亜由美は紙袋を差し出した。
「ゼリーと、冷えピタ。あと…スポドリ。食べれるもんだけ」
「……ありがと」
亜由美はベッドの横に座らず、床にあぐらをかいた。
目線を合わせるためだ。
「今日の打球、見た。……ほんまに怖かった」
正則は笑おうとして、やめた。
「俺、情けないよな。明日…」
「それ、言うたらあかん」
亜由美の声が少し強くなる。
「情けないんちゃう。
あれは当たったら痛い。怖い。普通や」
正則は黙る。
亜由美は続けた。
「正則、投げられへん時間ができたとしても、終わりちゃうから。
終わりにしたら、智雄みたいなやつの思うつぼや」
その名前で、正則の指先がわずかに動いた。
「……智雄、今日、変な顔してた」
「知ってる」
亜由美は即答した。
「笑ってへんのに笑ってる顔。
あいつ、今…“席が空いた”って思ってる」
正則は拳を握った。
痛みで強く握れないのが、また悔しい。
亜由美は、床に置いた自分の膝を軽く叩いた。
「だから、私が見る。
セカンドから、正則の背中も、智雄の動きも。
有村も、絶対味方や」
正則は、ようやく息を吐いた。
「……俺、また投げられるかな」
亜由美は一拍置いて言った。
「投げられる。
でもな、ただ戻るんやなくて、もっと強なって戻る。
そのために、今があるんや」
正則の目が少し潤む。
でも亜由美は、泣かせないように笑った。
「ほら、ゼリー食べ。
明日、イックス戦やけど…正則がベンチにおるだけで、みんな落ち着くから」
「……俺、役に立たん」
「役に立つ。
“投げられへんエース”がベンチで見とるってだけで、
ふざけたことするやつはやりにくい」
その言葉は、正則の胸の奥に小さな火を灯した。
投げられない。
でも、消えない。
正則は、まだ終わっていない。




