試合に出てない時の準備が、投手の差になる
智雄はベンチに戻ると、グラブを地面に置き、乱暴に水を飲んだ。
喉を潤すというより、胸の熱を押し流したいみたいに。
(なんでや)
(なんで俺だけや)
視界の端で、正則が静かにタオルで汗を拭いている。
顔に余計な表情がない。
それが、智雄の神経を逆撫でする。
「……あいつ、試合出てなかったやろ」
智雄が吐き捨てるように言う。
有村恒一郎は、マスクを外したまま、智雄の隣に腰を下ろした。
怒鳴らない。煽らない。
ただ、言葉を刺す。
「“出てなかった”んやない」
智雄が眉をひそめる。
「は?」
有村は続ける。
「出られんかった。怪我でな。
でもな、出られんかったからこそ、正則は——
出られる準備をしてた」
智雄は鼻で笑う。
「準備って、何やねん。投げてへんやろ」
その瞬間、有村の目が少しだけ鋭くなる。
「投げれんから、やることがある。
フォーム確認。下半身。体幹。視線。
キャッチボールできん日も、壁当てじゃなく、イメージで投げる。
打者の癖を見る。守備位置の確認。配球の整理。
“自分が投げたらどうなるか”をずっと考える」
智雄は黙る。
でも顔が「納得してない」と言っている。
有村はそこに一言足す。
「で、一番大事なんはな——
試合に出てない時間に、心を作ることや」
「心?」
智雄が返す。
その言い方が、まだ子どもだった。
有村は頷く。
「マウンドに上がったら何が起きるか分からん。
その時に崩れんように、
“崩れそうな自分”を想定して、先に手を打つ。
正則はそれをやってた」
智雄は唇を噛む。
「……でも俺は、練習してる」
その言葉が、さらにズレている。
監督の言葉:試合に出てない時の準備が、投手の差になる
そこへ川原監督(川原正志)が来た。
周りに人がいるのも気にせず、智雄の正面に立つ。
「池永」
智雄は反射的に姿勢を正す。
監督は低い声で言う。
「お前な。
試合に出てる時だけが勝負やと思うな」
智雄が口を開く。
「でも——」
監督が遮る。
「でも、ちゃう。
勝負は、出てない時に始まってる」
智雄は目を泳がせる。
監督は続ける。
「試合に出れん時、ベンチで何してた。
点の取られ方。相手の狙い。
味方の守備の癖。
自分が次投げるとしたら、どこを使うか」
智雄は返せない。
「正則は投げられんかった。
けど、あいつは試合を見てた。
“投げる自分”を作ってた」
監督はそこで言い切った。
「お前は今日、球数が増えた時点で崩れた。
それは球速の問題やない。
準備の問題や」
智雄の顔が強張る。
(準備してないみたいに言うな)
その反発が、表情に出る。
コーチの追い打ち:準備は“量”じゃなく“方向”
投手コーチの野村誠が、智雄の横にしゃがむ。
選手に合わせる目線。
「智雄。お前、努力はしてる。
でもな、努力ってのは——
量だけじゃ勝てない」
智雄が顔を上げる。
野村は続ける。
「お前の努力は、全部“投げる”に寄ってる。
でも試合は、投げる前に決まることが山ほどある」
智雄の唇がわずかに震える。
「……俺、速い球投げれるのに」
野村は否定しない。
「速い球は武器。
でも武器を持っただけで強いなら、誰でも勝てる。
武器を“使える形”にするのが準備や」
そして、最後にヘッドコーチの吉岡直人が静かに言う。
「試合に出てない時に、
“次の一球”のことを考えられる奴が、最後に伸びる」
でも智雄は、まだ分からない
智雄は、うつむいたまま小さく言う。
「……俺だって、考えてる」
けれど、その言葉は“自分を守るため”の言葉で、
“変わるため”の言葉じゃない。
有村は、ため息をつかない。
ただ、淡々と締める。
「智雄。
今のお前は、“抑える方法”じゃなくて、
“抑えられない言い訳”を考え始めてる」
智雄が顔を上げる。
「……っ」
有村が最後に言った。
「気づけ。
出られん時ほど、出る準備をする。
それができたら、お前の球速はほんまに武器になる」
智雄は返事をしない。
できない。
胸の奥で何かが動いているのに、言葉にできない。
理解できていない。
でも——否定しきれなくなっている。
グラウンドの隅。
試合後の片づけが一段落して、ベンチの周りが少し静かになった頃。
池永智雄は、一人でボール籠の横に座っていた。
グラブの紐をいじりながら、地面ばかり見ている。
(準備が足りない?)
(俺が?)
(そんなはず…)
そこへ、足音が近づいた。
「池永くん」
声は淡々としていて、感情が乗っていない。
森下真央だった。スコアブックを胸に抱えている。
智雄は顔を上げる。
「……何」
真央は返事の代わりに、スコアブックを開いた。
ページの角がきれいに揃っている。
書き込みも整っていて、迷いがない。
「これ、今日の投球内容。見ます?」
“責め”じゃない。
“確認”の口調。
智雄は一瞬、拒否したくなった。
でも——目を逸らせなかった。
「……見せて」
真央は膝をついて、智雄の目の前に広げた。
真央のスコア:数字が嘘をつかない
真央は指で、ある列を示した。
「まず、これ。投球数」
そこには、回ごとの球数が並んでいた。
4回:29球
5回途中:18球(交代)
合計は、2回も投げていないのに50球近い。
智雄は喉が鳴った。
「……ファウルが多かったからや」
真央は頷く。
「ファウルもあります。でもそれだけじゃない」
次の欄を指す。
「ボール先行が多いです」
ストライクとボールの比率。
ボールが先に増えている回は、決まって球数が跳ね上がっている。
「初球ストライク率、低いです。
相手が“待てる”状態になってます」
智雄は言い返そうとした。
「でも俺、速い球投げて——」
真央が遮らずに言う。
「速い球は、打たれてもファウルになります。
でも、ファウルが多いのは“悪い”じゃなくて、
相手が“合ってきた”可能性です」
智雄の眉が動く。
「合ってきた…?」
真央はページを少しめくった。
そこに、打者の結果が細かく残っている。
「同じ高さ、同じテンポの球が続くと、
相手はタイミングを作れます」
智雄の胸が、じわっと痛む。
(テンポ……)
有村が言っていた言葉が、ここで繋がった。
正則のページ:3回パーフェクトの“中身”
真央は次に、正則の欄を開いた。
同じ試合、同じ相手。
なのに数字が違う。
「河内くんの3回。これ」
智雄は無意識に身を乗り出した。
1回:11球
2回:10球
3回:12球
合計:33球
少ない。
そして——四球がない。
ファウルも少ない。
真央は淡々と言う。
「河内くんは、初球ストライク率が高いです。
だから相手は追い込まれます。
追い込まれると、“狙い球”が減る」
智雄の指が、ページの端をぎゅっと掴む。
真央は続ける。
「あと、これ」
配球のメモ。
高低、内外の散らし。
テンポの変化。
同じコースを“見せてからずらす”工夫。
「河内くんは、球速で勝ってません。
相手の“待つ場所”を消してます」
智雄の喉が、カラカラになった。
(俺は……)
(相手の待つ場所に投げてた……?)
真央はここで初めて、智雄の顔を見た。
責めない目。
「池永くん。
あなたの球は速いです。
でも速い球だけだと、相手は“いつか合います”」
智雄の指が震える。
「じゃあ……俺はどうしたらいい」
その言葉が、初めて“変わりたい”の方向を向いた。
真央は少しだけ間を置いて答える。
「試合に出てない時に、
“次の打者”を考える準備が必要です」
智雄は息を吐いた。
怒りじゃなく、悔しさの息。
真央は付け足す。
「あなた、ベンチでスコア見てませんでした。
見れば分かること、たくさんあります」
智雄はうつむいた。
その言葉は痛かった。
でも、痛いのは“当たってる”からだった。
智雄、ようやく考え始める
智雄はスコアブックを見つめたまま、呟く。
「……俺、
速い球があるから大丈夫って、思ってた」
真央は頷く。
「武器はあります。
でも武器は、準備がないと折れます」
智雄はゆっくり顔を上げた。
「……準備ってさ、
具体的に、何をすればええんや」
その質問は、今までの智雄なら出なかった。
出せなかった。
真央は、淡々とページを閉じて言う。
「まず、試合を見てください。
次に、自分の投球を“言葉にする”ことです。
“何をしたい投手か”を決めないと、配球が決まりません」
智雄は、スコアブックを受け取った。
紙の重さが、今までの自分の軽さを教えてくる。
「……ありがと」
声が小さい。
真央は頷いて立ち上がった。
「明日、これ、もう一回見ます。
一人で見ても、たぶん途中で嫌になります」
智雄は苦笑した。
図星だった。
「……うん」
真央が去り際に、振り向かずに言った。
「池永くん。
今日の負けは、球速の負けじゃないです。
準備の負けです」
智雄は返事をしなかった。
でもスコアブックを閉じずに、開いたまま見続けた。
ページの文字が、やけにまっすぐだった。
そして、智雄の中で初めて——
“悔しさ”が“考える力”に変わり始めた。




