大阪タイタンズ
大阪に、野球が大好きな少年がいた。
名前は河内 正則。ポジションはピッチャー。
ボールを握ると、不思議なほど心が落ち着いた。
マウンドに立ち、サインを受け、深く息を吸って投げ込む。
その一球一球が、正則にとっては「生きている実感」そのものだった。
同じ学年に、池永 智雄という投手がいた。
球速も制球もほぼ互角。練習試合では何度も投げ合い、周囲からは「二人で大阪タイタンズを引っ張る存在」と期待されていた。
だが――
その評価は、智雄にとっては誇りではなく、苛立ちの種だった。
名門・大阪タイタンズ。
エースナンバーは「1」。
ベンチ裏の「確認」
マウンドから戻った正則は、ベンチで水を飲んだ。
喉は渇いているのに、飲み込むたび胸の奥がざらつく。
(やっぱり、おかしい…)
川原監督は無言でボールを手に取り、指先で縫い目をなぞった。
投手コーチの野村が、ロジン袋を取り上げて匂いを嗅ぐ。
「…これ、固まり方が変やな」
吉岡ヘッドコーチが言う。
いつもの粉っぽさじゃない。微妙に“膜”みたいな湿りがある。
野村が眉を寄せた。
「正則、お前のボールケース…持ってきて」
正則は黙って、自分のボールケースを差し出した。
その瞬間、胸が冷える。
(ここに何かあったら…でも、俺は何もしてない)
蓋が開く。
野村の指が中を探る。
ボール、タオル、ロジン袋――その隙間。
カサッ。
何か薄いものが、指に引っかかった。
「……ん?」
野村がつまみ上げたのは、透明に近い薄いフィルム片だった。
テープの切れ端にも見えるし、包装材の破片にも見える。
ただ、妙に――指にまとわりつく。
吉岡が小さく舌打ちする。
「何やこれ…」
川原監督は、声を落として言った。
「誰か、触ったな。これは」
その一言で、ベンチの空気が変わった。
有村恒一郎は正則の隣で、拳をぎゅっと握る。
(やっぱり、気のせいじゃない)
智雄の視線
そのとき、少し離れた場所で――池永智雄が、じっとこちらを見ていた。
表情は平然としている。
でも、有村には分かった。
あの目は「探ってる」。
監督たちが何を見つけたか、どこまで気づいたか。
有村が視線を返すと、智雄はふっと目を逸らした。
そして、何事もなかったみたいにグラブを抱えて立ち上がる。
(……逃げ道を作る気だ)
監督の判断
川原監督は、正則の肩に手を置いた。
「正則。今日はもう投げんでええ。肩じゃない。“原因”の方を先に潰す」
正則はうなずいたが、胸の奥が痛かった。
投げられるのに、投げさせてもらえない。
それがエースの扱いとして正しいと分かっても、悔しい。
野村コーチが続ける。
「次の大阪イックス戦、公式球の管理を変える。
ボールは用具係が一括管理。投手が勝手に触れる時間を減らす」
吉岡も頷く。
「ロジンも共有をやめる。投手ごとに新品を渡す」
それは、誰かを疑っている証拠でもあった。
川原監督は最後に、有村を見た。
「有村。よう言うてくれた。
……でもな、ここから先は慎重にやる。証拠がいる」
有村は、強くうなずいた。
「はい。僕、見ます」
智雄が近づく(次の一手)
練習の片づけが始まった頃。
有村がボールを数えていると、背後から声がした。
「なぁ、有村」
池永智雄だった。声は軽い。軽すぎる。
「最近、正則にベッタリやな。キャッチャーって大変やなぁ」
有村は手を止めずに言った。
「当たり前やろ。バッテリーやし」
智雄は笑った。
「ふーん。……まぁ、ええけど」
一拍置いて、声が低くなる。
「余計なこと、するなよ」
有村は顔を上げた。
智雄の目が、昨日ブルペン裏で正則に向けたのと同じ温度になっている。
「何が“余計”なん?」
有村の問いに、智雄は答えない。
ただ、にやっとして背を向けた。
去り際、ぽつり。
「大阪イックス戦、正則が投げるんやろ?
……途中で“崩れたら”おもろいのにな」
その言葉で、有村の背筋が凍った。
(こいつ、まだやる気や)
大阪タイタンズ・正式名簿(確定版)
投手(P)
河内 正則|背番号1
池永 智雄|背番号10
星野 恒一|背番号18
※ここだけ「恒一」ではなく、年長感のある名前として残す
捕手(C)
有村 恒一郎|背番号2
高木 直哉|背番号22
内野手(IF)
宮田 翔太|1B/背番号3
松浦 亮|2B/背番号4
江藤 恒一|3B/背番号5
梶原 大輔|SS/背番号6・主将
石川 健斗|UT-IF/背番号14
長谷川 恒一|UT-IF/背番号16
外野手(OF)
西岡 颯太|LF/背番号7
藤本 悠真|CF/背番号8
坂口 陸|RF/背番号9
大西 恒一|UT-OF/背番号11
久保田 海斗|UT-OF/背番号12
田辺 陽向|UT-OF/背番号15
森下 蓮|UT-OF/背番号17
走塁・守備要員(PR/DF)
中井 恒一|背番号19
相原 蒼|背番号20
首脳陣(確定)
監督:川原 正志
ヘッドコーチ:吉岡 恒一
投手コーチ:野村 誠
対戦相手:大阪イックス
公式戦の背番号発表の日、正則の背中には迷いなく「1」があった。
智雄は「10」。
その瞬間、智雄の中で何かが音を立てて崩れた。
「なんで、あいつやねん……」
監督もコーチも、説明はしなかった。
成績、安定感、試合での冷静さ――
総合的に見ての判断だったが、智雄はそれを受け入れなかった。
怒りの矛先は、正則に向かった。
最初は、誰にも気づかれない小さなことだった。
ロッカーに置いていたグローブが、いつの間にか別の場所に移されている。
スパイクの中に砂が詰め込まれている。
ブルペンでの順番が、いつも勝手に変えられている。
「気のせいやろ」
そう自分に言い聞かせて、正則は黙っていた。
チームの空気を壊したくなかった。
野球ができなくなることが、何より怖かった。
だが、ある日――
二人きりになったブルペンの裏で、智雄は低い声で言った。
「なぁ、河内」
正則が振り向いた瞬間、智雄の目には、いつものライバルとしての光はなかった。
「余計なこと、誰にも言うなよ」
「……何のことや」
智雄は一歩近づき、囁くように続けた。
「言うたらな、お前がこのチームにおれんようにしたるから」
その言葉は、脅しというより宣告だった。
正則の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
投げるときに感じるあの高揚感とは、正反対の重さ。
――野球が、怖くなった。
それでも翌日の練習で、正則はマウンドに立った。
震える指でボールを握り、いつもより少しだけ低い位置から投げ込む。
ストライク。
歓声が上がる中、正則は気づいていた。
マウンドの横で、腕を組み、無表情でこちらを見る智雄の視線に。
このチームで、何かが静かに壊れ始めていることを。
練習を終え、正則は家に帰った。
玄関のドアを開けると、すぐに声が飛んでくる。
「おかえり、正則!」
台所から出てきたのは母の 恵子。
その後ろから、姉の 一香 が顔を出して、にっと笑う。
「正則、頑張っとるやん。エースピッチャーって、すごいやん!」
その言葉に、正則は曖昧にうなずく。
「……まぁな」
夕方、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
仕事を終えて帰ってきた父の 河内 恒一 は、汗で色の変わった作業着を脱ぎ、そのまま洗濯機に放り込む。
「今日はほんま、めっちゃ暑かったわ……」
洗濯機の蓋を閉めながら、独り言みたいに言う。
「風呂入ってから、ビールでも飲もかな」
「先に汗流し。倒れたら元も子もないで」
母の恵子がそう言うと、父は「わかっとるわ」と笑った。
正則はそのやりとりを聞きながら、
この家の“普通”が、今の自分には少しだけ重たく、そして救いでもあることを感じていた。
「あぁ、次は……大阪イックスや」
夕飯の席で正則がそう答えると、母の恵子が箸を止めた。
「あんた先発するんやろ?」
「……たぶん」
「ほな、応援行くさかいな。ちゃんと顔見せて投げなさいよ」
姉の一香が、嬉しそうに笑う。
「うわ、家族総出やん。正則、ええなぁ。エースってこういうとこやで」
正則は笑ってうなずいたが、胸の奥は晴れなかった。
“先発する”という言葉が、最近は重い。
自宅・夕食後
夕飯を終えたあと、正則は庭先に出た。
薄暗い電灯の下、壁に向かってシャドーピッチングを繰り返す。
小学六年生。
それでも、正則の球はすでに130キロに届くようになっていた。
変化球はリトルリーグの規定で投げられない。
だからこそ、勝負はストレートと制球。
正則の持ち味は、崩れないこと。ストライクゾーンを外さないこと。
大炎上とは無縁のはずだった。
なのに。
手にしたのが「チームの公式球」になると、感覚が微妙に変わる。
――滑る。
指先が、ほんのわずかに抜けるような。
握りが、いつもの場所に落ち着かないような。
(気のせい……?)
そう思おうとするほど、指先の違和感が濃くなる。
正則は何度もボールを拭き、何度も握り直した。
でも、ぬぐえない。
(なんか、おかしい)
その夜、正則は眠りが浅かった。
翌日・チーム練習(試合形式/紅白戦)
翌日の練習は、最初から空気が違った。
監督の川原が腕を組み、投手コーチの野村がボール袋の数を確かめる。
「今日は紅白戦や。試合形式で行く。集中せぇよ」
チームは二つに分かれた。
そして――マウンドに上がったのは、やはりこの二人だった。
河内 正則。
そして、池永 智雄。
“二枚看板”と呼ばれるはずの二人。
けれど今は、同じチームの中にいるのに、空気が冷たく割れている。
正則は紅組の3番を任されていた。
序盤、守りを無難に抑えたあと、初回の攻撃。
2アウト・ランナーなしで、正則に打席が回る。
マウンドの智雄は、目が笑っていなかった。
一球目、外。
二球目、低め。
そして三球目。
――インハイ。
正則の体が反応した。
迷いがない、というより、迷っている暇がなかった。
乾いた打球音が、グラウンドに突き刺さる。
ボールは左中間を越え、そのままフェンスの向こうへ消えた。
「入った……!」
「ホームランや!」
先制の一発。
紅組のベンチが沸く。
けれど智雄の顔だけが、無音になった。
一瞬、智雄の肩が上下した。
呼吸が乱れたのが、遠目にも分かった。
次の打者に投げた球が外に抜ける。
さらにその次はワンバウンド。
キャッチャーミットが音を立てるより先に、智雄の苛立ちがグラウンドに散った。
四球。
ヒット。
エラー。
ランナーが溜まり、さらに2失点。
紅組はリードを広げる。
だが――
そのとき、正則の方も、消えない違和感を抱えていた。
正則のマウンド(違和感が確信に変わる)
次の回、正則がマウンドに上がる。
一球目。ストライク。
……けれど。
(やっぱり、滑る)
抜けるほどじゃない。
大暴投するほどでもない。
でも、“いつもの正則”からすると、微妙すぎるズレが致命的だった。
指先が頼りない。
ボールが「手の中で落ち着かない」。
ストライクは入る。
ただ、球の“伸び”が違う。
球が走らない。
キャッチャーの 有村 恒一郎 が、ミットの中の感触を確かめるように一度握り直した。
(球が軽い?……いや、違う。指が抜けてる)
有村は立ち上がり、タイムをかける。
そしてマウンドへ駆け寄った。
「正則、どうした?」
正則は帽子のつばを握りしめ、小さく言った。
「……なんか、指が滑る感じすんねん。公式球使うと、特に」
有村は正則の手元を見る。
ロジン袋の位置、ユニフォームの袖、汗の量――
「……ちょい待って」
有村はホームへ戻らず、ベンチへ向かった。
そして監督とコーチを呼ぶ。
監督・コーチへ「異変」報告
川原監督がマウンドへ来る。
ヘッドコーチの吉岡、投手コーチの野村も並ぶ。
有村は声を落として言った。
「監督、正則の球……なんか変です。大崩れはしてないけど、指が滑るって。
それと、公式球のときだけ、感覚が違うって言ってます」
正則も、うなずく。
「いつもみたいに握られへん……抜ける感じがする」
野村コーチが眉を寄せる。
「汗か? ロジンは?」
「使ってます。でも、いつもと違う気がして……」
川原監督は一度、正則の表情を見た。
“投げられない顔”ではない。
“おかしい”と言っている顔だ。
「分かった。球を一回、確認する」
川原はそう言って、ベンチへ戻る合図をした。
そして、有村はさらに小さく付け加えた。
「……もう一つ。正則のボールケース、昨日と位置が違ってました。
誰か触った可能性、あります」
その言葉で、監督の目が鋭くなる。
この段階では、まだ誰も知らない。
これが智雄の仕掛けだということを。
だが事実として、正則のボールケースには“何か”が仕込まれていた。
そしてその“何か”こそが、
正則の指先から、いつもの感覚を奪っていた。
大阪タイタンズの河内正則には、幼馴染がいた。
加藤亜由美。
小さい頃から、同じ公園でボールを追いかけてきた。
正則がピッチャーを始めた頃も、亜由美はいつも近くで見ていた。
「正則、今の球、ちょっと浮いたな。次、低めに集めたらええやん」
そんなふうに、言い方は軽いのに、当たってる。
正則は内心「なんで分かるんや」と思いながらも、悔しくて「うるさいわ」と返す。
そういう距離感が、二人の“いつもの”だった。
入団テストの日
タイタンズのグラウンドに、亜由美が立っていた。
キャップを目深にかぶり、ユニフォームじゃないのに、もう“チームの空気”をまとっている。
「ほんまに来たんか」
正則が言うと、亜由美は当然みたいに頷く。
「当たり前やん。私もタイタンズ入りたいねん。ずっと言うてたやろ」
リトルリーグでは女子も野球に参加できる。
だから亜由美がテストを受けること自体は、ルール上まったく問題ない。
問題は、名門タイタンズの空気の方だった。
「え、女子?」「マジで?」
小声が交じる。
けれど川原監督(川原正志)は、そういう空気を一度、目で切った。
「うちは“野球ができるかどうか”だけを見る。
余計なこと言うやつは、先にグラウンド出てもらう。ええな」
ピシッと空気が整う。
正則は、その瞬間だけ胸が少し軽くなった。
“ここは野球の場所や”と、思えるから。
テスト内容
テストはシンプルだった。
50m走
キャッチボール(送球の正確さ)
守備(ゴロ処理→一塁送球)
バッティング(フリーバッティング)
希望者のみ投球チェック
亜由美は一つずつ、淡々とこなした。
走りは速い。
肩も強い。
何より、送球が乱れない。
内野ゴロの処理では、腰が落ちている。
捕ってから投げるまでが早い。フォームが小さいのに強い球が行く。
投手コーチの野村誠が、少しだけ目を細めた。
「……誰に教わった?」
「特に。公園でずっとやってただけです」
それを聞いた野村が、ふっと笑う。
「いちばん怖いタイプやな、それ」
バッティング
フリーバッティング。
最初の二球は見送ってタイミングを測り、三球目を叩いた。
乾いた音。
強いライナーが三遊間を抜け、左翼方向へ伸びる。
フェンス直撃とまではいかないが、**“芯で捉えた打球”**だった。
「うわ、ええスイング……」
誰かが呟く。
主将の梶原大輔が、面白そうに腕を組んだ。
「やるやん」
外野の森下蓮が、「女子とか関係なくね?」って顔で頷く。
そういう“普通の反応”が、亜由美を自然にグラウンドへ馴染ませていく。
正則は内心、ちょっと誇らしかった。
(ほらな。亜由美、うまいやろ)
そして、正則の胸に刺さる視線
そのとき、ふと気配がした。
池永智雄が、少し離れた場所から見ていた。
表情は読めない。
でも、目が“計算”の色をしている。
(今、タイタンズの空気が変わりかけてる)
(正則の周りに、味方が増える)
そういうのを、智雄は嫌う。
有村恒一郎も、智雄の視線に気づいた。
けれど今は、あえて何も言わない。
今日は亜由美のテストの日だ。
壊したくない。
合格発表
テストが終わり、全員が整列した。
川原監督が淡々と告げる。
「加藤亜由美。合格。今日からタイタンズの一員や」
一瞬、静まり返って——
次の瞬間、拍手が起きた。まばらじゃない、ちゃんとした拍手。
亜由美は大きく息を吐いて、帽子のつばを持ち上げた。
「よろしくお願いします!」
声はまっすぐだった。
正則はその横で、ようやく自然に笑えた。
「お前、ほんまに入ったんやな」
「当たり前。これから同じチームやで、正則」
「……せやな」
そのやりとりの背後で、池永智雄が小さく舌を鳴らしたのを、
有村恒一郎だけが聞いた。
(これで終わらん)
“正則を揺らす”ための材料が、智雄の頭の中で増えた。
それが、有村にははっきり分かった。
入団初日。
川原監督(川原正志)が新しいユニフォームを渡し、全員を内野の土の上に集めた。
「加藤亜由美。希望ポジションは?」
亜由美は一歩前に出て、胸を張った。
「セカンド希望です」
ざわ、と小さなどよめき。
“女子だから外野”みたいな勝手な想像をしてた連中が、ほんの少し恥ずかしそうに目を逸らす。
川原監督はあえて表情を変えずに聞き返した。
「理由は?」
亜由美は迷いなく言った。
「セカンドやったら、ピッチャーの球を真後ろからずっと見られるんで。
……正則の投球、ちゃんと支えたいです」
その言葉が、グラウンドの空気を一瞬止めた。
正則は「は?」と声にならない声を出しかけて、慌てて咳払いした。
顔が熱い。恥ずかしい。
でも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
主将の梶原大輔が、口の端を上げた。
「ええやん。理由が野球や」
投手コーチの野村誠も頷いた。
「セカンドは楽な場所ちゃうぞ。打球の判断もカバーも要る。
それでもやるんやな?」
「やります」
亜由美の返事は短かった。
守備練習:セカンドの現実
すぐにノックが始まった。
二塁ベース周りは忙しい。
右から来るゴロの捕球→一塁送球
遊撃(梶原)との連携→併殺
一塁(宮田)への送球距離と握り替え
外野からの返球の中継
亜由美は一つずつ、丁寧にやった。
派手さはないが、ミスが少ない。
捕ってから投げるまでが速い。
「お、いけるやん」
二塁手の松浦亮が思わず漏らすと、亜由美は「まだまだ」とだけ返した。
それが逆に、“本気感”を増した。
亜由美が「違和感」に最初に気づく
投内連携の途中、正則が軽く投げた一球が、いつもより外へ抜けた。
(今の、抜けた…)
亜由美はベースの横から、正則の指先を見ていた。
投げ終わった瞬間の、ほんのわずかな“手の開き方”。
また一球。
ストライクは入る。
でも球の“走り”が違う。
亜由美は小さく眉を寄せる。
(正則、フォーム崩れてへん。
なのに球が違う…ってことは)
亜由美は、練習の合間に正則へ歩み寄った。
周りに聞こえないくらいの声で。
「正則。今日も……ボール滑ってる?」
正則は、一瞬だけ固まった。
「……なんで分かるん」
「分かるって。ずっと後ろから見てきたもん」
その言葉に正則は、口を閉じてしまう。
でも亜由美は、逃がさない。
「気のせいちゃうやろ。公式球のときだけ?」
正則は、わずかにうなずいた。
「……うん。なんか、変やねん」
亜由美は一度、正則のボールを受け取って、指で縫い目をなぞった。
そして、乾いた土で軽く擦る。
「……これ、変なベタつきある。
ロジンじゃない感じ」
正則の喉が鳴る。
「昨日、有村も同じこと言うてた。監督にも話して…」
亜由美の目が、すっと鋭くなる。
「ほな、誰かが触ってる可能性あるやん」
その瞬間。
少し離れたところで池永智雄が、こちらを見ていた。
亜由美は視線を外さず、逆にその目をまっすぐ見返した。
智雄は、ふっと口角を上げて目を逸らす。
(こいつ…)
亜由美の中で、何かが“確信”に近づく。
川原監督の判断(次へつながる)
練習終盤、川原監督が笛を鳴らした。
「ボール管理、今日から変える。
公式球は用具係が一括。投手のボールケースに入れっぱなしは禁止や」
ざわ、とチームが揺れる。
誰も口には出さないが、“何かが起きている”のは全員が察した。
池永智雄だけが、無表情だった。
亜由美は、正則の横で小さく言った。
「大丈夫。私、後ろから見てる。
変なことあったら、絶対に気づく」
正則は、言葉にならないまま、うなずいた。




