六、『覗き穴』前半
『覗き穴』
作、幽霊 原案、石川くん
彼女に会ったのは、例のカフェ。乗り換え駅から少し離れた、坂の上にある『喫茶カフェ』だ。
通勤途中に目にするだけの存在。ネットで調べたら、オレンジの屋根が目印で、筋肉と髭がトレードマークのガタイのいいマスターとエスプレッソが人気と噂の『喫茶カフェ』だとわかった。
喫茶店なのか、カフェなのか。どちらなんだよとツッコミを入れつつ、佇まいを横目に見つつ、日々通勤していたのだが、今月になって初めて入った。
就職して半年ちかく経って、もうすぐ9月という響きが妙に苦しくて、一人きりの家に帰るのが何だか途方もなく嫌になったのだ。
これは、人恋しい、という感情なのかもしれない。
そして逃げ込んだのが、その『喫茶カフェ』だった。
モダンでもレトロでも奇抜でもない、無個性な店内は非常に居心地が良かった。客はいかにも仕事終わりの男性客が多い。そのほとんどが僕より年上に見える。若者が集う街中のオシャレなカフェから逃れ、一人でコーヒーを飲むおじさんの背中が並び、店中を妙な哀愁が漂っていた。
だから、カウンターに座る女性はすぐ目がいった。
(きれいな女性も来るのか)
ふっくらとした唇をチラリと確認したところで、例のマスター、筋肉髭大男に彼女の席から二つ開けた席へと促された。
見ていたことがバレてはいないか、ドギマギしながら座ると、突然彼女が僕の隣に移動してきた。
そして、驚く僕の顔を覗き込む。
「こんにちは」
優しく声をかけられ、目を見開いてしまった。
「こ、こんにちは」
思わず声がうわずる。
「突然のお願いでご迷惑かもしれないんですが。このまま知り合いのフリをしていただきたいんです」
面食らった僕は、さらに目を見開いて彼女の顔を見つめた。彼女は真剣で、しかも羽詰まった顔をしている。
「人助けだと思って。お願いします」
僕は理由もわからず、棒立ちのまま身を寄せる彼女にされるがままでいた。
と、いうのも。気づいたのだ。スーツ姿の細身の男が窓の外から店内を窺っている。鋭い眼光で明らかに彼女をみていた。
「あの人は友人ですか」
僕の問いに彼女は首を振る。
「友人だ思っていたのにね」
彼女は僕の手に手を重ねた。指先がサラリとして冷たい。体は熱くなっているのに、僕は動揺していないふりをする。
「ストーカーですか」
「違うの。ただ……好きな人がいるから付き合えないと煙に巻いたんだけど、信じてもらえなくて」
「あの人、追いかけてきたんですか?」
「この店で彼といるから諦めてほしいって言って逃げてきたの」
彼女が僕を改めて見つめる。その彼を演じてほしいと目が語りかけていた。僕も吸い寄せられるように彼女の瞳を見た。視線は絡み合う。つながっているのは手だけなのに、わかり合うような溶け合うような間隔が沸き上がっていた。
それを引き裂くように店の扉が勢いよく開いて男が入ってきた。真っ直ぐこちらの席へと歩いてくると、僕と彼女を見比べる。その視線の冷たさに背中が凍りついて、僕は彼女のために虚勢を張ることもできそうになかった。
「ごめんなさい」
彼女は勢いよく立ち上がり、僕を守るように男の前に真向かい、言葉をこぼした。
「俺ではダメなのか」
僕は男を二度見してしまった。俺ではダメなのかなんて、ドラマみたいなセリフだ。
歳は一回りくらい上かもしれない。身なりのきちんとした、色白であっさりとした顔立ちの男だった。
彼女は無言で男から顔をそらす。彼女の後ろ姿は、もうこれ以上話すことはないと言っていた。
ふと男は僕の方をまじまじと見た。
「若いな」
薄ら笑いを浮かべている。動揺を悟られないよう強がっているように見えた。
「君は本気なのか」
緊迫した空気中、本当は無関係の僕に向けられた質問に生唾を飲み込む。初対面の女性に本気もなにもないけれど、僕は演じなければならない。
「はい、まあ」
ごまかすように曖昧に答えると、男は少し微笑んだ。その笑みはずいぶんくたびれていた。
「気の毒にな」
そう言うと、男はしばらく僕を見つめてから、ゆっくりと喫茶カフェから出ていった。
(気の毒、か)
ゾッとしたのは、最後の笑みは強がりではなく、僕のことを本当に哀れんでいるように見えたから。ただ背中に冷たい汗が流れた。
「ありがとう」
男が出ていって、女性は少しだけ体を離してから呟いた。それから、
「……花火は好きですか?」
異様になってしまったこの場の空気をごまかすように、少し恥ずかしそうに訊ねる。
「今週末だそうですよ」
僕が何事もなかったように答えると、女性はホッとしたような表情を浮かべた。
「私、花火って好きです。だって派手で夜空にあんなに大きく光っていて、丸くて。美しいから」
「確かに美しいですね」
「あなたもそう思う?」
「はい。美しいです」
「ありがとう。嬉しい」
そして、彼女は再びそっと僕の手に手を重ねた。
突然のことに動揺してしまい、僕は自分の手と重なり合った彼女の手を見つめるしかできなかった。白く細い指と、その先のネイルをしていない、短く整えられた爪。無下に払い除けることもできない。
すると、彼女のほうが手を引っ込めた。
「ごめんなさい、私、馴れ馴れしくて」
「いえ、大丈夫です」
できる限り平静を装おって答える。
「あの……一緒に見ません?」
彼女は僕の顔を覗き込む。
「えっ?」
「花火。この店で、一緒に」
「この店で?」
意味ありげに微笑む彼女の名前すら知らないことを、僕はすっかり忘れていた。まるでこうなることを前から予感していたように二人は見つめ合う。
「23時に来てここに来てください」
「その時間じゃ店も花火も終わってますよ」
「大丈夫。花火大会の日は特別なんです」
もしかしたら、花火大会の日は長めに営業するのだろうか。だいたい、この店から花火が見えるのだろうか。
「……お詫びとお礼がしたいから」
疑問をかき消すように、彼女はじっと僕を見つめた。僕はその目を見ることができず、赤い唇に向かって小さく頷いていた。




