十五『行ってはいけない喫茶店』2
幸運なのかなんなのか。僕は崖から落ちたけれど、大きな怪我はしていないようだ。落ちた先に茂みがあったせいだろう。
しかし、その茂みの向こうにシルバーの背の高いフェンスが立ちはだかっている。その向こうには白い花をつけた背の高い木がどこまでも続いて、夕闇の影に沈んでいた。フェンスは崖をしっかり塞いでいる。つまり、後ろと左右は崖。前はフェンス。
助けを呼ぼうとスマホを取り出したけれど圏外だった。
「すみませーん!」
叫んでみる。
「助けてくださーい!」
しかし、声は虚しく響くだけだ。
日は暮れていく。汗が滲む。人の気配は全く無く、遠くで花火の音がし始める。
こんなところに取り残され、ずっと一人なのだろうか。絶望に飲みこまれようとしたその時、とんとんと、肩をたたかれた。
「呼びました?」
驚いて振り返ると若い男が立っている。
「助けを呼びましたよね?」
男は白い着物に身を包んでいた。
「可哀想に。落とされましたね?」
「助けてくださいっ!」
僕がその男の腕をつかもうとしたとき、男はふわりと宙に浮いた。
「無理だなぁ」
男の声が僕を頭上から落ちて来る。
「私は幽霊ですからね。助けられませんよ」
そんな馬鹿なことを言わないでください。そう言い返す気にもならない。眼の前で男がプカプカと浮いているのだ。
「私も同じくここに突き落とされましてね」
「同じく?」
幽霊を公言する男は僕の隣にゆっくりと降りたった。
「あのカフェには行っちゃだめなんですよ。行ったら死ぬんです」
責めるでもなく、諭すでもない。優しい声で僕に問いかける。
「ただの都市伝説だと」
「一応聞くけど、男子高校生がどうしてこんな時間にこんなところへ?」
「それは」
僕は言い淀んでしまった。正直に話すのが恥ずかしくて。しかし、幽霊はズバリと訊ねた。
「やり直したいことがあるからって、時間が巻き戻せるほうの伝説を信じました?」
そのとおりだった。お見通しの幽霊を睨みつけるしかできなかった。
「どうして来たら死ぬ方は信じず、時間を巻き戻せる方は何で信じたかなぁ」
幽霊はゆっくりと地面に腰掛けた。
「どうせ助けも来ないし。私に話してみなさいな。幽霊に巡り合うなんて、そうそうないですよ?」
幽霊は自分の隣の地面を指差す。どうやら、そこに座れと言っているらしい。だいぶ癪に障るけれど、僕は幽霊の隣に渋々座る。どうにも身動きがとれない今、観念して話してしまうことにした。
「友だちと喧嘩する前に戻りたいんです」
「喧嘩かぁ」
幽霊はうっとりと僕を眺める。
「青春だねぇ」
「馬鹿にしてます?」
「半分」
「性格のわるい幽霊だなあ」
「だってさ。それなら時間を巻き戻すより先にすることあるでしょ?」
「先に?」
「会って謝りなさい。何で喧嘩したかは知りませんけど」
僕は嫌な顔を隠すことができない。それをみた幽霊がさも面白そうに笑った。
「会うのが怖いんでしょ? スマホで済ませたいんでしょ?」
ニタニタする幽霊を僕は睨んだ。不愉快な言い方をするから。でも、幽霊は気にもとめない。
「スマホで済ませられずに諦めるような友情なら、壊しておけばいいんですよ。あなたにとってその友人は使い捨てだったんですよ」
「簡単に言うな」
「でも、違いますか? 死んでないあなたはやり直せるでしょ?」
僕は黙り込む。幽霊にそれを言われたら何も言えない。
「まあ、今そんなこと言っても仕方ないですね」
幽霊は少し申し訳無さそうな顔で僕に微笑みかけた。
「まずはここから脱出しないとね」
どうやって?
僕はどんどん暗くなる辺りを見回した。大した策は浮かばない。今、眼の前に銀のフェンスがあるだけだ。
「このフェンスを登って向こうに行けばいいんじゃない?」
僕がいうと、
「そっちには行かない方がいいです」
幽霊は間髪入れずに答えた。
「何故?」
「あっちの世界なんです」
幽霊が至って真面目な顔で言う。
「行方不明になった男性たちは、みんなあっちにいって戻らない」
「あっちって?」
「罠なんですよ」
銀色のフェンスの向こうは白い花をつけた木々が沈む薄暗闇。あっちという言葉が妙な説得力をもって存在する。
「じゃあどうすれば」
「崖を登るんです」
僕は振り返り、崖を見上げた。高く続く崖を上がっていくことを何故か最初に選択肢から除外していた。それは無駄な足掻きで、スマートじゃなくて、いい方法が他にあるとでも思っていたのだろうか。
「やってみる」
やる前に諦めていた。
あいつの夢を聞いたときも、僕はカッとなって
「凡人に叶うはずない」
と、笑ってしまった。
(違うんだ)
同じだったんだ。
俺も同じ夢をみていた。
だから、自分が怖くて誰にも言えなかったことを、僕だけに話してくれた。友人が羨ましくて、腹が立って、ひどいことを言ってしまった。
(謝りたい)
謝りたいんだ。
やる前に諦めるのをやめよう。
この崖を登ってみよう。
僕は手を伸ばし、崖の表面をぐっと掴む。爪に土が入り込む。手も足も滑りそうだ。
(だめかもしれない)
その言葉が頭をかすめたとき、僕の体はズルズルと元の場所に戻ってしまった。
インドアな上に受験勉強ばかりで運動ひとつしていない僕に、崖登りなんて無謀も無謀。馬鹿も馬鹿だ。
「無理だぁ!」
自暴自棄になって叫んだ時、突然体が浮き上がった。幽霊が後ろから僕を掴み上げ、押し上げたのだ。
「ほんとに登るなんて思わなかった」
「連れていきますよ」
「助けてくれるの?」
「最初からそのつもりです」
(それなら崖を登れなんて言うなよ)
僕はムッとしつつ、崖を浮上し始めた。
「あなたの名前を教えてください」
僕を押し上げる幽霊に訊ねる。
「幽霊に名前なんてないです」
「生前のが在るでしょ?」
「そうですね」
少しだまってから、幽霊は答える。
「恵太です」
崖を登りきったら、僕は幽霊の恵太にお礼を言おう。絶対に言う。そう決めた。あとは無我夢中で手と足を動かすだけだった。




