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十三、『エゴノキ』5 

 妻と娘を車に残し、僕は店へと急いだ。

 店に入ると薄暗く、客は一人もいなかった。


「開店前ですよ」


 静まり返った店の奥から、男の声が響く。カウンターから店主が顔をのぞかせた。


「崖の上の木、何ていうんですか」


 ここ数日で僕は見慣れたその男に向かって問いかける。


「ああ、エゴノキですよ」


「美しいですね」


 僕の返事に店主は静かに微笑む。


「嬉しいね。5月1日をようやく終えられる」


 すべてを知っている人間の、余裕の笑みだった。


「手の甲に書いたの、店主さんですか?」


「そうだよ、君に新しい願い事をしてもらうための合言葉」


「新しい願い事を僕がするんですか?」


 店主は大きく頷いた。


「君の妻が願い事を叶えるのに失敗するからね。自分を忘れてしまう夫を殺したいと願ったのに、君は崖から落としても、包丁で刺殺しても、毒殺しても、救急車を呼んで助けてしまう」


 妻の顔を思い浮かべる。  

 娘を抱いた妻の冷たい瞳と心配そうに駆け寄る姿が同時に思い出され、その矛盾と葛藤に胸にかき乱される。


「妻が僕の殺害を失敗するたび5月1日を繰り返していたんですか?」


「ええ。だからあなたに新しく願い事をしてもらわないと、ループから抜け出せないんだ」


「何故ですか? あなたの願い事ではダメなんですか?」


「殺されるはずのあなたがこのループから抜けることが必要なんです。世界を壊すためにね」


 薄暗いカウンターの中で店主はじっと僕を見つめる。もう、すべて理解しただろう? と、問いかけている。妻の願いが叶わないせいで店主も5月1日に閉じ込められていたのか。


 だから、新しい願い事で現状を打破する必要がある。新しいループで、このループを壊すということだろう。


「わかりました」


 僕がすべきことはわかった。


「願い事は決まっていますーー僕を、あの日に戻して欲しい」


 店主はゆっくりと微笑んだ。




そして、何故かそこで僕の記憶がプツリと消えてしまった。



 目が覚めたらベッドの上だった。

 病院ではない。

 自分の家の、自分の部屋の、自分のベッドの上だ。


(何もかも夢か)


 安堵して起き上がるとTシャツは汗でビッショリ濡れていた。

 僕はスマホを見ると4月30日。平日だ。


(でも休みを取っている)


 ふとスマホが鳴って、友人からキャンプに行けるかどうかの確認の連絡が来た。僕は当然、お断りする。


(今日は、キャンプのための休みじゃない)


 キッチンのカレンダーを見る。今日は娘の退院の日だ。


(今夜はお祝いよう)


 退院祝い。それから、付き添いをした妻を労うんだ。ケーキを買おう。娘は僕が風呂に入れよう。妻には一人でゆっくり湯船に浸かってもらおう。

 これで全てうまくいく。

 妻の怒りもきっと消える。

 

(何もかも、思い通りだ)


 意気揚々と玄関を出て、自転車に跨ると空気が入っていなかった。

 出鼻をくじかれて、心のなかで舌打ちをした。


(せっかくいい気分だったのに)


 その時、ふと手のひらに何か書かれているのを見つけた。


ーー死んで詫びろ


 僕はそこで立ちすくむことになる。




 向けられた殺意を忘れられるだろうか。

 抱いた殺意を忘れられるだろうか。



「どうでした?」


 幽霊が屈み込んで僕の顔を覗き込んだ。


 ベッドに腰掛けA4の紙をめくり終えた僕に「どう? どうなの?」と訊く目はキラキラ輝いていた。


「ねぇねぇ、どうでした?」


 なかなか答えない僕にしびれを切らして、幽霊は畳み掛けるように訊ねる。


「早く感想聞かせてくださいよ」


「ずっと思っていたけどさ」


 読むたびに僕は考えていた。


「改稿じゃないよね」


 幽霊の持ってくる物語は、改稿と呼べるのだろうか。考えていた。


「どうしてですか?」


「別の話になってる。これは幽霊のオリジナルだよ」


「石川くんの話に肉付けしただけですよ」


 嘘つけ。骨格から何から改造した別物だ。

 そう言いそうになってやめる。もしかしたら、幽霊は本気でそう言っていたら申し訳ないから。


「それで。どうしでした?」


 再び僕の顔を下から窺う。逃さないつもりらしい。感想を言わないと先に進めそうにない。


「ちょっと面白かった」


 答えた僕に、幽霊は大きのため息を落とした。


「嘘ですね」


 見抜かれていた。ふわりと宙に浮いて、僕を見下ろした。その声の鋭さに、僕は一瞬声を失う。正直に話すしかないようだ。


「ーーごめんなさい。ちょっと、わからなかった」


 そう言って、幽霊を見上げた。

 僕にはまだ早い、大人の物語に思えた。


「でも、いいじゃないか。面白かったのも嘘じゃない。だから頼みを言えよ。そろそろ教えろよ」


「でも、面白くなかったのも本当ですよね」


「そんなに僕を信用出来ないの?」


 幽霊が目を見張った。初めて見る表情だった。それから柔らかな笑顔を見せる。今までの幽霊の中で、一番優しくて、少し悲しそうな笑顔だった。


「明日の7月26日。喫茶カフェに行ってほしいんです」


 幽霊は穏やかに言う。


「この街の、高台にあります。君の使っている駅の北口から遠くないところにある。大きな病院のそば」


「でも、それは小説の中のカフェじゃ……」


 ふと、幽霊はトートバッグに手を突っ込むと、A4のクリアファイルを取り出して僕に渡した。

 表紙には題名が記されている。


 『行ってはいけない喫茶店』


 幽霊が天井へと浮き上がっていく。


「ガタイのいい店主になにか言われたら、恵太を知らないかって聞いてみて」


「恵太?」


 幽霊の目の奥が静かに光る。息を飲んでその姿を見つめる僕に気づくと、もう一度優しく微笑んだ。


「石川くん」


 天井に背中を張り付けて、幽霊が僕をじっと見下ろす姿はホラー映画や漫画に出てきたとおかしくない構図に思えた。でも、全く怖くない。あまりに眼差しが温かい。


「小説をかいてみてくださいね」


 幽霊は穏やかな声でいう。


「いや、でも、下手だし」


「そんなもんですよ。私も下手です」


「あなたが下手なら僕はどうしたらいい」


「大して変わりません。私はただ、本が好きで、物語が好きで、書いていたんです。石川くんは?」


「僕はーー」


 僕は違う。そんな純粋な思いじゃない。


「好きなアニメがあって、それがライトノベル原作なんだ。好きなのはそれだけ。でも、それを読んで……」


「書いてみたくなった?」


「そうだよ。小説が好きでたくさん読んでいる人に比べたら、僕なんか書く価値がない」


「いいえ」


 間髪入れずに幽霊が僕の言葉を否定した。


「何かを書きたい。そのまんまでいいんですよ。最初は下手くそでも良いから、どんどん書かないとうまくならないと私は想いますよーーせっかく生きているんだから、思いきり書こう。私もそう思って石川くんの物語を改稿しました」 


 せっかく生きているんだから?

 だから僕の九行を大改造して、面影が全くない物語を書いたのか?

 幽霊なのに、せっかく生きているんだから?


「変なこと聞いて良い?」


 僕はA4の紙を握りしめる。


 あなたは誰?

 目的は?

 何故僕の前に現れたの?

 たくさんの疑問がめぐったけれど、一番聞きたいことが口から零れた。


「本当は生きているの?」


 幽霊は目を見開いたように見えた。そして、少し苦しそうに、誤魔化すように笑う。


「秘密です」


 笑ってそのまま天井に幽霊の体は吸い込まれていく。


「また会える?」


 慌てて訊ねる。

 僕の頭に「もう会えないかもしれない」という言葉が浮かんだのだ。


「もちろん」


 答える幽霊の笑顔に胸が痛い。何故だろう。胸が締め付けられる。わけもわからず、苦しい。


「さよなら、石川くん」


 幽霊は消えてしまった。


(二度と会えないかもしれない)


 僕はにじんでいた涙を拭い、深く深くため息をついてから、クリアファイルから紙を取り出す。


 『行ってはいけない喫茶店』


 最後の物語のページをめくった。

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