十一、『エゴノキ』3
僕はその女性と二人で、いつもと別の出口から駅を出た。
自宅のある方とは違って街に起伏がある。病院が多い。
坂を登り、崖の上にその店は在った。オレンジの屋根のかわいい店には、広い駐車場があり、その先に見覚えのある白い花の咲いた木がある。
(あの木だ)
ーー死んで詫びろ
覚えている。あの木の下から崖に突き落とされたことがある。
「入りましょう」
思わず立ち止まっていた僕は彼女に促され、二人で店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた店内の奥にカウンターがあって、背が高くて胸板の厚い髭の店主がそこでコーヒーを入れていた。
「美しいですね」
僕が試しに合言葉を言うと、店主は苦笑いを落とした。
「女性を口説くときのセリフみたいですね」
頼んでもいないコーヒーをカウンターに置く。
「どうぞお座りください」
店主に言われるままコーヒーの置かれた席に座った。香ばしい香りが漂っている。
「もしかして。何度目かの5月1日ですか?」
僕が切り出す前に店主は微笑みながら言った。驚いた僕は何も言えずに店主を見つめ返した。
(なんでこの店主がそれを知っているんだ?)
うろたえる僕を満足そうに眺め、店主はゆっくりと話を始める。
「うちの店の裏手に、特別な場所があるらしくてね。エゴノキの花が咲いているとき。願い事が叶うらしい」
(願い事だって?)
そんなおとぎ話にでも出てきそうな話をすぐに信じることなどできない。
「信じていないね」
見透かした店主は小さく頷く。
「信じなくてもいいけれど、本当なんだよ。でも、ある条件が揃わないと、叶わないらしい」
「条件?」
「それは俺も知らないんだ。でも、願いが叶うまで同じを日を繰り返すらしい」
「そんなことが本当にあるんですか?」
「さあね。それはお客様のほうが知っているのでは?」
「僕は願い事なんて、誰にも頼んでいません」
「それなら、誰かの願い事に巻き込まれたかな」
穏やかな顔のまま僕を窺ってる。店主の話はわかったようなわからないようなーーとても信じられないような話だった。でも、実際に5月1日を繰り返しているから、信じざるを得ない。本心ではそんな有り得ないことなんて、馬鹿馬鹿しくて信じたくもないのだけれど。
「このあと、その木のところへ行ってみましょうか」
女性に言われ、僕は頷く。
「行ってみます」
願いを叶えるならこっちのも叶えてみせろってんだ。僕はコーヒーを口に含んだ。酷く苦かった。
そいつを飲み終えると、僕らは喫茶カフェを出る。何故か店主も白い花の咲いた木の下へと歩いていく。
女性も店主も何やら話していたけれど、僕には聞き取れなかった。突然、頭が痛くなってきたのだ。
(だめかもしれない)
そう思うより先に猛烈な吐き気がしてきた。めまいに襲われ、フラフラとその場に倒れた。
「……待って」
驚いた二人が振り返る。
「……気分が、悪くて」
絞り出した声は掠れていた。
「息が、でき、ない」
慌てて駆け寄る二人の影を感じながら、僕は瞼を閉じた。
「大丈夫ですか?!」
「救急車!」
そんな叫び声を聞いた気がする。
ーー死んで詫びろ
いや。聞こえたのはそっちかもしれない。僕の意識はそこで途切れてしまった。
★
目が覚めると僕は自宅のベッドの上にいた。
(またか)
スマホを見ると5月1日だ。ゴールデンウィーク真っ只中の平日。火曜日。
(ということは、4月30日も月曜。平日)
のろのろと洗面所へ行き、顔を洗おうと頭を下げたその時、髪から何かがぽとりと落ちた。それは白い花だった。
ーー死んで詫びろ。
誰かの言葉が蘇り、声にならない悲鳴が喉から漏れ出る。
それを摘み上げた手の甲には、油性ペンであのメモが書かれていた。
ーー喫茶カフェ。合言葉は「美しいですね」
僕は震える手を握りしめ、ぎこちなく深呼吸をする。死の恐怖が蘇り、激しい動悸とともに吐き気がこみ上げる。
(落ち着いて。思い出すんだ)
喫茶カフェから白い花の木の下まで行って、それから僕は倒れた。
(違う)
もっと大切なことを忘れている。
(僕は鈴木大輔。二十七歳の男。会社員)
仕事へ向かうために玄関で靴を履いた。このままではまた殺されるだけかもしれない。でも、習慣のまま出勤の準備を済ませていた。
(2階建ての家に住んでいる。駐車場には自家用車)
何かが足りていない。何度5月1日を繰り返しても、意識の何処かに、忘れてはいけない何かが姿を隠したままこびりついている。
(自家用車?)
ふと、違和感が襲ってきた。
駐車場に停まっている車はワンボックス。
(この車は一人で乗るには大きすぎる。この家は一人で住むには広すぎる)
しかも、車には真新しいチャイルドシートまでついていたはずだ。
(そうだ。僕には家族がいたはずだ)
玄関から外へ出て、自転車に乗るとタイヤの空気が少ない。前回の5月1日と同じだ。
僕は自転車から降りると、家に戻った。
(家族がいるはずなんだ)
それなら、どうして姿を見せない。
2階へ行き、自分の寝室の隣の部屋の扉を開いた。
部屋はもぬけの殻だった。ベビーベッドの脇には、妻の布団が畳んである。
「どうしたの?」
後ろからの声がした。ぎょっとして振り返ると、娘を抱きかかえた妻が立っていた。
「仕事は?」
僕は両手を握りしめる。
「ーー休み」
嘘を答えるのがやっとだった。
(どういうことだ?)
妻の顔は駅のホームで僕を助けてくれた女性だった。
(甘い匂いがする)
足りなかったのは、この匂いだ。赤ちゃんがいる家特有の甘い匂いだ。
「朝ごはんの食べる?」
「うん」
答えると、妻はスリッパを滑らせないよう慎重に階段を降りていく。
僕もそれを追いかけた。
(どうして妻の顔も娘の存在も忘れてしまっていたのだろう)
見慣れた台所へ妻が入っていく。壁のカレンダーはまだ4月のままだ。ふと、4月30日に書かれたメモを読んだ。
退院。10時に迎え。
血の気が失せていく。こんな大切なことを忘れていた。この日、僕は友人とキャンプに行っている。SNSに写真も上がっている。
僕は、どこかで妻に全て任せておけば良いと思っていた。口では気にしているようなこと言っていた気がする。口先だけだ。娘が入院しているのに友人と遊んでいた。そして、退院の日に迎えに行くのを忘れた。
(最低だ)
妻が振り返った。
無言で振り返った。
妻の目は虚ろだが、その奥に光るものがあることに気づいた。
(そうか)
ずっと感じていた殺意は妻の目の奥に潜んでいたのだ。
「この後出かけよう」
僕は言った。
行き先は駅の向こう側にある喫茶カフェだ。




