十、『エゴノキ』2
玄関前の駐輪場で自転車に跨った瞬間、思わず舌打ちをした。
いざ出発しようとしたら、自転車のタイヤに空気を入れていない。
(ああ、ダメだ)
横着して、空気が少ない状態で乗った結果、タイヤに穴が空いて帰りは押して帰る羽目になったことがある。雨も降ってきて、帰宅にかかった時間は40分。かなりシンドかった。
(あんなこと二度とごめんだ)
自宅の駐車場に停まっている自家用車をチラリと見た。
(車で行っちゃおうかな)
でも、駐車料金を取られるのも馬鹿らしい。
僕は急いて空気を入れ、少し汗ばんだ額を拭いて、ようやく家を出発した。
「おはようございます」
お隣さんがゴミ捨て場で挨拶をする。
「おはようございます」
僕も笑顔で挨拶を返す。
いつも通りの平日の朝だ。
自転車を走らせる道すがら、近所の小学生がチラホラ登校する姿が見えた。
こんなにも日常が繰り広げられているのに、何故か違和感がぬぐえない。
(何かが足りない)
ちらりと手の甲のメモを見る。
ーー喫茶カフェ。合言葉は「美しいですね」
多分、僕は大事なことを忘れている。
★
駅に着くと、電車を待ちながら喫茶カフェのことを考えていた。
まだ手の甲にはっきりと残っている。
(何かが引っかかる)
答えが出ない僕の頭上でアナウンスが流れ、これから乗るはず電車の先頭車両が駅へ入ってきた。それをぼんやり眺めていた、そのときだった。
(えっ?)
ふいに線路側によろけた。自分は何もしていない。
誰かに背中を押されたのだ。
電車は警笛を鳴らしながらホームへと滑り込んでくる。
線路の方向へ倒れかけたものの、咄嗟に足を一歩踏み出し、どうにかホームの内側に留まっていたので大事はなかった。
並んでいた列から突然飛び出した僕を、電車を待つ列の人々は白い目で見ていた。
でもそんな目は気にならない。そんなことより、背中を押されたことだった。
(大事はなかったけど)
背中にびっしょりと汗をかいている。僕は確実に線路側に押された。殺意を持った誰かに。
「大丈夫ですか」
ふと、後ろにいた女性が僕の顔を覗き込んできた。警戒していた僕は素早く振り返り、つい身構えてしまった。
しかし、その顔が明らかにこちらを心配している様子だったので、僕は肩を撫で下ろす。
「はい、大丈夫です」
答えながら、あたりを見回す。もしかしたらまだ自分を押した誰かがいるかもしれない。 けれど、それらしき人物はおらず、並んでいた客は一様にいつも通りの顔で到着した電車にのりこんでいった。
「医務室にいきますか?」
話しかけてくれた女性が僕の袖を掴む。
「いえ、大丈夫です」
「でも手が」
指摘されて気づいた。僕の手は震えていた。
何なら歯の根もカタカタと音を鳴らしていた。
なるほど、他人なのに心配しているのは僕が震えているからだった。
「ベンチに座りましょうか」
促されるままベンチに座り、乗るはずの電車を見送ることになった。
(ーーまた、殺されかけた)
僕は殺されようとしている。予感が駆け巡り、ほぼ確信に変わっている。
今回だけではない。
崖に突き落とされ、死んで詫びろという言葉を浴びせられた。包丁で刺された。
あまりに生々しい記憶として残っていて、それらは夢であって、夢ではない。誰かに殺意を向けられることが繰り返されたせいか、駅のホームで突き落とされそうになったこととつながっているとしか思えなかった。
(考えすぎだろうか)
思いあぐねて動けないままの僕に、女性が自販機で買ってきた水を僕に渡してくれた。
「落ち着きました?」
「ありがとうございます」
それでも手の震えは止まらない。
それは、きっと明らかな殺意を感じたから。崖から落とされた時に感じたものと同じ、身に覚えのある殺意。
「あの」
親切な女性を改めて見る。
僕と同い年くらいのだろうか。僕はもらった水を素直にいただいた。正直なところ、彼女はかわいいし妙な安心感というか、正体の分からない懐かしさがあって、僕はちょっと油断してしまった。
「喫茶カフェ」
彼女は手の甲をちらりと見た。
「あの店、私も好きですよ」
ごく自然に僕に笑顔を向けて、ごく自然に言ったけれど、僕は一瞬言葉を失った。
「知ってるんですか?」
覚えのないメモの、知らない店を、この人は知っているのか。
「はい」
彼女はにこやかに答える。
(これは好機だ)
こんな好都合がまた起きるとは思えない。起きる前に殺されるかもしれないのだから。僕を殺そうとしているやつを突き止めなくては。
「あの……喫茶カフェの場所、教えてください」
僕は思い切って彼女に頼んだ。彼女は「えっ?」と言ったあと、少し考え込んでから、
「今から一緒に行きましょうか?」
と、予想外の言葉が返してきた。
「今から?」
僕は何故かオドオドしてしまった。
「いや、仕事があるし」
「こんなに手が震えているのに?」
「いや、でも。あなたも」
「私は仕事が嫌いなのでサボれて嬉しいです。問題ないです」
そして、彼女は僕の目を強く見つめた。
「今日は休みましょ」
彼女から甘い匂いがした。柔らかで壊れてしまいそうななにかの匂い。懐かしくて胸が痛い。
気づくと、僕は言われるがまま休む旨を会社に電話していた。




