〜日本に強制転移させられた異世界神と愉快な日本の神々〜
「まったく、あの異世界の神ときたら! われらの民を勝手に引き抜きおって、何の断りもなしに!」
高天原。
八百万の神々が集う神聖な場所で、一柱の神が怒りの声を上げていた。日本の最高神の一柱である天照大御神である。
傍らには、穏やかな表情の月読命と、何やらスマホをいじっている須佐之男命が控えている。
「しかし姉上、向こうの世界も切羽詰まっていたのでしょう。それに、聖女として召喚された者は、イケメンの第二王子から熱心なアプローチを受けているようですし」と月読命が口を挟むが、天照大御神の怒りは収まらない。
「問題はそこではない! 我らが庇護する民を、こちらの許可なく勝手に連れて行くなど、神としてあるまじき行為! 何度言っても理解しようとせぬ愚か者よ!」
「はいはい、わかってますって。でもよ、天照。別に聖女召喚なんて、異世界転生モノのラノベじゃあ定番じゃん? いちいち怒ってると、白髪が増えるぜ?」
須佐之男命がスマホの画面から目を離さずに言うと、天照大御神の頭から湯気が出た。
「そ、それは今、関係ないだろう須佐之男命! いらぬお世話だ!」
天照大御神がそう言い放った瞬間、高天原の空に一筋の稲妻が走った。そして、その稲妻はピンポイントで、須佐之男命のスマホに直撃した。
バリバリッ!
「ぐわーっ! 俺のスマホがーっ!」
須佐之男命は絶叫し、焦げ付いたスマホの残骸を呆然と見つめた。
「ちょっと待ってくれよ天照! これ、まだ分割払いが終わってねえんだぞ! 月々2,980円が……あと18回も残ってるんだ!」
天照大御神は、ふん、と鼻を鳴らす。
「自業自得だ! 人の怒りを煽るからだ!それに、貴様はそんなものをいじくっているから、いつまで経っても仕事ができないのだ!」
「酷い! 今日の夕飯のメニューを選ぶのが、俺の今日の仕事だったのに! 天ぷら蕎麦ととろろ蕎麦、どっちにするか迷ってたんだよ!?」
月読命が、少し困った顔で尋ねる。「天ぷら蕎麦ととろろ蕎麦は、仕事と関係ないのでは?」
「いや、これも大事な神の仕事だ!」
須佐之男命の言い訳に、天照大御神はさらに怒りを募らせた。
須佐之男命がスマホを壊されたことで落ち込んでいる姿を見て、天照大御神の頭に、ある考えがひらめいた。
「異世界に連れて行かれた人間がどれだけ困惑するかを、身をもって体験させれば、あの愚かな神も反省するはず…」
そう結論付けた天照大御神は、静かに笑みを浮かべた。
「ならば、身をもって知らしめるしかないわね。突然、異なる世界に放り込まれる理不尽さを!」
「はぁ? それってただの『お仕置き』じゃん。もしかして、エリュシオンをただの人の子にして遊ぶ気満々なんじゃねーの? ほら、その顔。なんか悪いこと企んでる顔してるぞ、天照www」
須佐之男命の言葉に、天照大御神の顔がピクピクと引きつった。
「黙れ、須佐之男命! 余計なことを言うな!」
「事実じゃんか、そう青筋立てるなよ。ま、どうせなら俺も一緒に遊んでやりたいけどなー。異世界の神様をいじくり回すなんて、最高に面白そうだぜ?」
「馬鹿者! 貴様は反省という言葉を知らんのか! そんなふざけたことは考えておらん!」
天照大御神が指を鳴らすと、今度は須佐之男命が大事にしていた最新の携帯ゲーム機が、彼の目の前で煙を上げて溶け出した。
「うわあああぁぁぁ! 俺のゲーム機がぁぁぁ! これ、限定版だったのにぃぃぃぃ!」
天照大御神は、ふん、と鼻を鳴らした。
「自業自得だ。貴様のその腐った根性を叩き直してやる!」
天照大御神の目が、鋭く光った。
※
数日後、異世界のとある神殿では、神官たちが混乱の坩堝にいた。彼らが崇める神々の一人、エリュシオンが突如として姿を消したのだ。
神殿の中心に鎮座していた巨大なエリュシオン像は、いつの間にかポムポムプリンの巨大なぬいぐるみに変わっていた。絵画からもエリュシオンの姿が抜け落ち、清書や聖典からも記述が消えた。
その頃、日本の片田舎の古びた神社の境内で、見慣れない光が弾けた。光の中から現れたのは、豪華な装飾を身につけた、いかにも神々しい存在。しかし、その顔は困惑と恐怖に歪んでいた。
「な、なんだこれは……? ここはどこじゃ……? 私の神力が……私の身体が、小さな人間に……!?」
エリュシオンは、自身が異世界の日本人聖女を召喚する際に用いる「聖女召喚の儀」によって、日本の地へと呼び出されていた。しかもその体は、日本のどこにでもいる、ごく一般的な女子中学生の姿だった。
慌てふためくエリュシオンの前に現れたのは、日本の神々だった。天照大御神は腕組みをして、ふんぞり返る。
「やあ、エリュシオン。まさか、このような場所で会うとはね」
「あ、天照大御神!? なぜ私がこのような場所に!? これは一体、どういうことだ!?」
エリュシオンは混乱しながらも、自らの置かれた状況を把握しようと必死だった。神力が大幅に制限され、この人間の身体では、いつものように魔法を使うこともできない。
天照大御神はにこやかに言った。「どうもこうも、あなたが行ってきたことを、あなた自身に体験してもらうだけのことよ。突然、見知らぬ世界に連れてこられ、元の世界に戻る術もなく、得体の知れない存在として祭り上げられる。どう? なかなかの理不尽でしょう?」
月読命が静かに付け加える。「あなたの世界では、聖女を召喚するのは世界の理ことわりでしたね。こちらも、日本の神として、勝手に民を連れ去られた怒りを示すのは、世界の理ことわりです」
須佐之男命がスマホの画面を見せながら言った。「見てみて、これ。今SNSで『ポムポムプリンの像、何これバズってるwww』って投稿したら、めっちゃいいねが来たんだけど」
天照大御神が「貴様のスマホは壊れたはずだろう!」と怒鳴ると、須佐之男命はしょんぼりとした顔で、手元の黒焦げになったスマホの画面を天照大御神に向けた。
「いや、焦げ付いたけど、なんか動いてるんだわ。神だけに、日ごろの行いが良かったに違いないww」
「うるさいわ!」
こうして、異世界の神エリュシオンは、日本の女子中学生「田中美咲」として、身一つで異世界に放り込まれる理不尽さを身をもって体験することになった。
※
田中美咲は、天照大御神の命により、天照大御神が鎮座する神社の近くにある小さな町で生活することになった。
初めて日本の交通量の多い道路を見た時、田中美咲は思わず声に出た。車という「鉄の塊」が猛スピードで走り去っていく。自分の世界では、神官たちが馬車をゆっくりと走らせ、人々も時間を気にせず歩いていた。
この「速さ」についていけない。信号機という、何やら複雑な色の変化を読み取って行動するシステムにも戸惑った。
そんな彼女に、声をかけてきたのは、同じ中学校に通うクラスメイトたちだった。
「ねえ、君、転校してきた田中さんだよね? 迷ってるみたいだけど、大丈夫?」
元気で明るいアオイと、クールで大人びた雰囲気のサキ。そして、アニメやゲームが大好きなオタク系女子、ハルカ。三人は、戸惑う田中美咲を放っておけなかったようだ。
「う、うん……。この、色の変わる板が、どういう意味なのか分からなくて……」
田中美咲が信号機を指差すと、アオイとサキとハルカは、顔を見合わせてニヤニヤと笑い始めた。
「「「まさか……!?」」」
三人から同時に発せられた言葉に、田中美咲は目を丸くする。
「まさか、転校初日から、そんな壮大なギャグをかましてくるとは……! 美咲ちゃん、面白い!」とアオイが腹を抱えて笑った。
「転生者ネタか、信号機が分からない異世界人ネタか。やるな、田中」とサキもクールに笑う。
「ふ、深い! 信号機は、現代社会における『進め』と『止まれ』という、抗えない運命を象徴している……! それを理解できないと嘆く美咲ちゃんのセリフは、まさに現代文明に疲弊した人間の心の叫び……!」とハルカは、一人で深く考察して感動していた。
田中美咲は、三人の反応に完全に困惑していた。
「え……あの、私、真剣に……」
「はいはい、わかってるって! そういう設定でしょ?」
アオイが笑顔で田中美咲の肩をポンと叩いた。
「この先は、美咲ちゃんのギャグに乗ってあげるね! 赤は『進め』、青は『止まれ』。黄色は『爆走』だ!」
「いや、違うわww」とサキがツッコミを入れた。
「信号機は、現代社会のルールを記した魔法書。赤は『封印の呪文』、青は『解放の呪文』、黄色は『緊急脱出の呪文』……。美咲ちゃんは、まだこの世界の魔法を読み解くことができない、ってことだよね!」
「いや、だから、そういうんじゃないってば!」
田中美咲は、三人のボケとツッコミに、もはやどう反応していいのか分からず、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
こうして、田中美咲は、アオイ、サキ、ハルカという、タイプの全く異なる三人の友人を手に入れた。彼女たちは、エリュシオンにとって、この異世界での生活を理解するための、心強い「ガイド」となった。
次に田中美咲を待ち受けていた試練は、年に一度の夏祭りだった。地域の氏子総代が田中美咲を見つけると、目を輝かせた。
「おお、美咲ちゃん! 君こそ、我が町に降り立った偶像だ! 今年のお祭りでは、君に偶像として、山車の先頭で『お祭り偶像美咲ちゃん』として踊ってもらおう!」
「ア、偶像……!?」
エリュシオンは愕然とした。自分の世界では、人々が神である自分を崇めるのは当然だった。しかし、それは畏敬の念からくるものであり、このように、訳も分からず大勢の衆目に晒され、あまつさえ偶像扱いされるなど、想像だにしなかった事態だ。
祭りの当日、田中美咲は、豪華な飾り付けをされた山車の先頭で、半ば強制的に笑顔を貼り付けながら歩いた。
沿道からは「美咲ちゃん、かわいー!」「推し活頑張ります!」といった声援が飛ぶ。田中美咲の脳裏には、自分が召喚した異世界の日本人聖女が、同じような眼差しで、異世界の民衆に囲まれていた光景が脳裏に浮かんだ。
(まさか、この私が、このような屈辱を……! でも、あの聖女も、こんな気持ちだったのか……?)
祭りを通して、田中美咲は、神である自分が「偶像」として崇められることの、もう一つの側面を体験した。それは、人々の期待と重圧、そして、個人の自由が制限されるという現実だった。
その様子を、高天原から見ていた須佐之男命が、面白そうに呟いた。
「へぇ、あいつ、なかなか偶像として板についてきたじゃねーか。ま、あいつのプライドが地に落ちてると思うと、飯が美味いけどな」
天照大御神が「貴様のその腐った根性は治らんのか!」と怒鳴ると、須佐之男命は肩をすくめた。
「まあまあ、そう怒るなよ。これも一種の修行じゃん? 異世界神が日本の文化に触れて、少しでも人間らしくなる。ってか、あいつ、まさか本当にノリノリで踊ってねーよな? バリ、ウケるwww」
月読命が静かに付け加える。「須佐之男命様、田中美咲様の踊りは、非常に優雅でしたよ」
須佐之男命は「まじかよ!」と声を上げた。
祭りのクライマックス、夜空には色とりどりの花火が打ち上げられ、多くの人々がその光景に歓声を上げていた。田中美咲は、友人のアオイ、サキ、ハルカたちと一緒に、その光景を眺めていた。
その時、神社の境内で、見慣れない光が弾けた。光の中から飛び出たのは、須佐之男命だった。彼は、いつものようにラフな格好で、手にはなぜか、光る棒を2本持っていた。
「おい、田中美咲! のってるか! 祭りってのは、もっとこう、魂を震わせるもんだろ?」
須佐之男命は、田中美咲の目の前で、彼女を仰ぐように光る棒を振り回し始めた。それはまるで、悪魔を呼び出す儀式のようだ。田中美咲には理解が難しかった。
「な、なんだ、その奇妙な踊りは……!?」
須佐之男命は、田中美咲の問いに、満面の笑みで答えた。
「これ『オタ芸』って言うんだぜ! 偶像を応援するための、最高の儀式だ!」
須佐之男命は、さらに激しく光る棒を振り回しながら叫んだ。
「せーの! イエッッ! タイガー! サイバー! ジャージャー!!」
その掛け声に合わせて、須佐之男命の周りにいた一部の若者たちが、同じように光る棒を振り回し始めた。彼らは、須佐之男命の動きを完璧に真似し、一体となって激しい踊りを披露している。
「え、えっと……?」
田中美咲は、混乱した。自分の世界では、神への崇拝は厳粛な儀式で行われていた。しかし、この光景は、まるで悪魔の宴だ。
「どうだ、エリュシオン? お前の世界じゃ、こんなに熱狂的な儀式、ないだろ? 神様への信仰もいいけどよ、人間の魂を揺さぶるってのは、こういうことだろ?」
「う、うるさい! こんなものは、信仰でも何でもない! ただの……! ただの……!」
田中美咲は、言葉に詰まった。しかし、その時、隣にいたハルカが、目を輝かせて須佐之男命のオタ芸を見ていた。
「す、すごい! まさに、魂の叫び! 信仰の形は様々だなんて、私が言ったばかりなのに、それを体現してくれるなんて……!」
ハルカは、須佐之男命のオタ芸を見て、感動のあまり涙を流していた。
「な、なぜ……?」
田中美咲は、さらに混乱する。その様子を見た須佐之男命は、田中美咲に近づき、耳元で囁いた。
「お前も、こっちの世界に来て、色々知っただろ? 人間の感情ってのは、神様が思ってるよりも、ずっと複雑で、ずっと面白いんだぜ? ほら、お前も一緒にやってみろよ。きっと、新しい扉が開くぜ?」
須佐之男命は、ニヤリと笑った。田中美咲は、その言葉に反発しようと唇を噛みしめるが、なぜか、心の中がざわついた。
その様子を、高天原から見ていた天照大御神が、ため息をついた。
「まったく、あの須佐之男命ときたら……。しかし、田中美咲、少しは楽しんでいるようね」
月読命が静かに付け加える。「そうですね。神としての役割を離れ、一人の人間として、この世界の文化に触れている。それもまた、良い経験なのでは?」
二柱の神は、複雑な表情で、祭りの夜を楽しむ須佐之男命と、困惑しながらも、どこか楽しそうな田中美咲を見守っていた。
※
ある日、田中美咲が通うことになった中学校で、同級生の女子生徒が彼女に声をかけてきた。
「美咲ちゃん、お願い! 私、好きな人がいるんだけど、どうしたら振り向いてもらえるかな? 美咲ちゃん、お祭りで偶像やったでしょ? なんか、いいお告げとか、ないの!?」
エリュシオンは困惑した。自分の世界では、人々の願いは「世界の平和」や「疫病の退散」といった、もっとスケールの大きいものだった。
まさか、恋愛相談を受ける羽目になるとは。
「えっと……その、もっと、こう、努力するとか……?」
しどろもどろな田中美咲の答えに、女子生徒は残念そうな顔をした。
その様子を影から見ていた須佐之男命が、面白そうにニヤニヤしながら田中美咲に囁いた。
「おいおい、田中美咲。神たるもの、民の願いは聞き届けてやらねばならんだろう? 恋愛成就の秘策とやらを授けてやれよ。『神の導き』として、あいつの背中を物理的にドンと押して、好きな奴の前に転ばせるとかさ。お前なら、神の力を使えば簡単だろうに、なあ?」
もちろん、今の田中美咲にはそんな力はない。もどかしさに歯噛みしながらも、彼女は一人の人間として、その女子生徒の相談に乗ることしかできなかった。
昼になった。田中美咲はアオイたちと人気のファストフード店に入った。券売機の前まで来ると、彼女は立ち尽くすしかなかった。
「いらっしゃいませー! ご注文、お決まりですか?」
店員の声に、田中美咲は慌てた。自分の世界では、食事は神殿の供物か、聖職者が用意した簡素なものだった。ここでは数多くの選択肢がある上に、注文も「券売機」という機械を通して行う。
「え、ええと……これは、どうやって……?」
困惑する田中美咲の様子に、アオイたちは笑いながら操作を教えてくれた。なんとか注文を終え、出てきたハンバーガーにかぶりついた時、田中美咲は衝撃を受けた。
「な、なんだこれは……! こんな美味なものが、こんなに手軽に食べられるのか!?」
その様子を、高天原から見ていた天照大御神と月読命が、くすくすと笑い合った。
「あのエリュシオンが、あんな顔をするとはね。日本の食文化は、なかなかのものでしょう?」と天照大御神。
「ええ。聖女も、あちらの世界でもハンバーガーを作らせて、食べているくらいですしね」と月読命。
「……ん? でも、須佐之男命は、どこに行ったんだ?」
天照大御神が須佐之男命の気配を探ると、なんと彼は、ファストフード店のレジに並ぶ長蛇の列の最後尾に、いつの間にか加わっていた。
須佐之男命は、券売機を真剣な顔で眺め、慣れた様子で指を動かしている。
「ポテトとハンバーガーと……えっと、クーポン券は、これか」
天照大御神は、額に手を当てて深くため息をついた。
「まったく……貴様という男は……」
月読命が困ったように苦笑いをする。「須佐之男命様は、新しい美味しいものを見つけると、どうしても我慢できないようですから」
こうして、異世界の神エリュシオンは、日本の食文化の豊かさと、日本の神々の予想外の行動に触れ、自分の世界とは全く異なるものであることを理解し始めた。同時に、自分が召喚した聖女が、慣れない異世界で、どれほど戸惑い、どれほど苦労したかを、より深く実感することになった。
異世界の神エリュシオンは、日本の女子中学生・田中美咲として、戸惑いと学びの日々を送っていた。神としての傲慢さは少しずつ削がれ、少しずつ人間としての感情や感覚が研ぎ澄まされていった。
※
ある日の放課後、アオイたちが田中美咲を誘った。
「美咲ちゃん、お菓子買いに行こ! 新しいグミ出たんだって!」
連れてこられたのは「コンビニエンスストア」という名の、小さな建物だった。田中美咲の目には、その店内がまるで宝物庫のように映った。色とりどりのパッケージに包まれた菓子、飲み物、弁当、雑誌、そして日用品までが、所狭しと並べられている。
「な、なんだこの場所は……!? あらゆる品々が、こんなにも整然と、しかも深夜まで手に入るというのか!?」
「おいおい、エリュシオン。神様なのに、庶民的なお菓子ごときで、そんなに興奮するなよ。品格が地に落ちるぞ?」
キョロキョロと周りを見回す田中美咲。「今の声は気のせいかな……?」と首を傾げる彼女を、須佐之男命は高天原からニヤニヤしながら眺めていた。
自分の世界では、物資の流通は限られており、手に入るものも質素なものばかりだった。目の前の光景は、エリュシオンの常識を遥かに超えていた。
アオイが慣れた手つきでレジに商品を持っていくと、店員がバーコードリーダーでピッ、ピッ、と音を鳴らし、瞬時に合計金額を告げる。
「合計で325円です」
「なんて計算が速い……! しかも、この小さな機械で、自動的に金額が算出されるだと……!?」
さらに驚いたのは、アオイが財布から出したのは、コインと紙幣だったことだ。自分の世界では、物々交換か、ごく一部の特権階級だけが貨幣を使っていた。サキがSuicaという電子マネーで決済するのを見た時には、もはや理解の範疇を超えて、ただただ呆然とするしかなかった。
その夜、田中美咲は高天原の日本の神々に愚痴をこぼした。
「天照大御神様! この世界はあまりにも便利すぎます! 人々は堕落してしまうのではないかと、心配でなりません!」
天照大御神は、ふん、と鼻を鳴らした。
「心配ご無用。それが日本の民の知恵と努力の結晶よ。もう少しは、この世界の利便性を体験しなさい」
次の日、アオイたちにショッピングモールに誘われた。田中美咲は、目的地の店舗の前で建物を見上げた。
「ユニクロ……? いったい、何のお店なんだ?」
店内に入ると、さらに衝撃を受けた。大量の衣料品が山積みされ、しかも驚くほど安い。自分の世界では、衣類は貴重品であり、手縫いで作られるのが一般的だった。こんなにも安価で、多様なデザインの服が手に入るなど、考えられないことだった。
アオイが、次々と試着室に服を持ち込む。
「美咲ちゃんも何か試着してみなよ! これとか、絶対似合うって!」
半ば強引に押し付けられたTシャツとジーンズを試着した田中美咲は、鏡の中の自分を見て、一瞬言葉を失った。これまで身につけていた神殿のローブや、日本の学生服とは全く異なる、軽くて動きやすいその服装に、新鮮な感動を覚えたのだ。
「この布は……魔法がかかっているのか? こんなにも薄くて、柔らかいのに、丈夫だ……!」
エリュシオンは、日本の技術力と生産力に改めて驚嘆した。そして、異世界の聖女が、ボロボロになった自分のローブを繕うために苦労していた姿を思い出し、胸が締め付けられた。
またある日、放課後にハルカたちに連れて行かれたのは「カラオケ」という場所だった。薄暗い部屋に、光る機械とマイクが複数置かれている。
「さあ、美咲ちゃんも歌おうよ!」
アオイが歌い始めた歌声は、スピーカーから大音量で流れ出し、画面には歌詞が表示される。自分の世界では、歌は神への奉納や、物語を語り継ぐためのものだった。こんなにも私的な空間で、感情を爆発させるように歌い上げる文化に、田中美咲は戸惑いを隠せない。
「これは……歌を競う儀式なのか? それとも、魔を祓うための呪歌なのか?」
ハルカたちは楽しそうにマイクを奪い合い、時に奇妙な振り付けをしながら熱唱している。ついにマイクを渡された田中美咲は、恐る恐るマイクを握りしめた。しかし、何を歌えば良いのか分からない。日本の歌はほとんど知らないのだ。
その様子を見ていた須佐之男命が、高天原からニヤリと笑った。
「さあ、エリュシオン。あなたも日頃の鬱憤を、この場で晴らしてみるがいい。歌は、魂の叫びなのだからな」
最終的に田中美咲は、面白がったハルカたちに選曲された『マジンガーZ』のテーマソングを熱唱した。ハルカたちは、両腕を交差させて前に突き出す「Zポーズ」を何度もさせ、田中美咲は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にした。
「ゼー-------ッ!」
アオイたちに促され、叫ぶように声を張り上げたとき、不思議と、神としてのプライドが心の奥底から解放されるような感覚を覚えた。
そのたどたどしい歌声は、ハルカたちに笑いと拍手をもたらし、田中美咲は、これまで味わったことのない「恥ずかしさ」と「喜び」が入り混じった感情を覚えた。
高天原では、須佐之男命が「マジで歌いやがったwww しかもあのポーズwww 最高に面白いじゃねーかwww」と腹を抱えて大笑いし、天照大御神から「うるさい! 黙って見ておれ!」と叱責されていた。
※
また別の日、田中美咲はハルカたちと一緒に、テレビで魔法少女アニメを見ていた。
「うわぁ、可愛い! 私の推しの子、今回も絶好調だね!」とアオイが目を輝かせる。
「この世界では、こんなに可愛い女の子が、強力な魔力で悪を打ち倒すんですね……」と田中美咲は感動していた。
その様子を、高天原から見ていた天照大御神と月読命が、微笑ましく見守っていた。
「エリュシオンも、少しは日本の文化に馴染んできたようね」と天照大御神。
「ええ。最初は戸惑っていましたが、今ではすっかり楽しんでいるようです」と月読命。
その時、月読命が、須佐之男命の様子がおかしいことに気が付いた。須佐之男命は、二人の様子を伺いながら、こっそりと懐から何やら冊子を取り出し、どこかに隠そうとしていた。
「姉上、須佐之男命様が、また何かやらかしているようです」
月読命の声に、天照大御神は怪訝な顔をして、須佐之男命の様子を覗き込んだ。
須佐之男命が手にしていたのは、魔法少女アニメのキャラクターが描かれた、表紙の絵柄が何やら怪しい雰囲気の冊子。いわゆる薄い本だった。
「な、何を隠し持っておるのだ、須佐之男命!」
天照大御神の声に、須佐之男命は飛び上がって慌てた。
「な、なんだよ! 別に何も持ってねえし! これはただの……! そう! 魔法少女の強さを考察した論文だ! 論文!」
「ふむ、論文、か……。なら、姉上。見せて差し上げてはいかがでしょう? 須佐之男命様が、いかに真面目に魔法少女について考察しているのか、わかっていただけますよ」
月読命が、にこやかに須佐之男命に追い打ちをかける。須佐之男命は、焦ってその薄い本を懐に隠そうとした。
「ば、馬鹿! 論文は、まだ完成してねえんだよ! あと、天照に見せたら、俺の研究成果が、また雷で燃やされちまう!」
天照大御神は、額に手を当てて深くため息をついた。
「まったく……貴様のその、どうしようもない俗世の趣味は、どうやったら治るのだ!」
月読命が、くすくすと笑った。
「須佐之男命様は、新しい美味しいものだけでなく、新しい面白いものを見つけると、どうしても我慢できないようですから」
こうして、日本の神々は、エリュシオンが日本の文化に触れて成長していく様子と同時に、須佐之男命の新たな俗世の趣味を垣間見て、呆れる日々を送るのだった。
田中美咲として日本の日常を送るエリュシオンは、これまでの神としての常識が次々と覆される体験を通して、人々の生活の多様性と奥深さを学び続けていた。
※
ある日の午後、田中美咲が下校途中、アオイたちと流行りのタピオカドリンクを片手に笑い合っていた時だった。
突然、彼女の足元に光が灯り、日本の神々が現れた。
「エリュシオンよ」
天照大御神が、いつものように威厳に満ちた声で語りかけた。
「どうやら、あなたも十分に理解したようね。我らが民を勝手に召喚することの理不尽さを。我々の目的は達成された。これより、あなたを元の世界へお返しする準備が整った。もちろん、日本の聖女も元の世界へ帰還させる」
月読命も、穏やかながらも厳かな表情で続けた。
「これにより、二つの世界の神々による不毛な争いは終わりを告げ、新たな関係が築かれることでしょう」
須佐之男命は、いつものように茶化すように言った。「これで、お前もようやく肩の荷が下りるってわけだ。聖女ごっこも、もう終わりだ。良かったな、エリュシオン」
しかし、日本の神々の言葉を聞いた田中美咲の顔に、喜びや安堵の表情は浮かばなかった。むしろ、その瞳には、深い戸惑いと、強い決意が宿っていた。
田中美咲は、首をゆっくりと横に振った。
「わ、私は……元の世界には、帰りたくありません」
日本の神々は、一瞬、凍りついた。天照大御神の眉間に深い皺が刻まれる。
「な、何を申すか、エリュシオン。我々の思惑通り、あなたは、神の都合で異なる世界で暮らすことになった理不尽さを体験したはず。なぜ、帰還を拒むのだ?」
エリュシオンは、顔を上げ、日本の神々を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もはや傲慢さはなく、ただ純粋な感情が揺らめいていた。
「確かに、私はこの世界で、多くの不自由を経験しました。最初はなんて理不尽なんだと思いました。ですが、それ以上に……この世界で、私はコンビニスイーツを知り、アニメを知り、カラオケを知りました」
彼女は、アオイから差し出されたタピオカドリンクをグイッと一口飲んだ。
「私の世界では、私は『神』として、世界の秩序を保つことだけを考えていました。全ては定められ、選択の余地などなかった。しかし、この世界では……私は、自分で選ぶことができたのです。どんなグミを買うか、どんなアニメを見るか、どんなアイドルを推すか……そして、誰とカラオケに行くか!」
田中美咲は、日本の神々に訴えかける。
「私はもう、『神』には戻りたくないのです! この世界で、人間として生きていきたい!」
日本の神々は、思わぬ返答に言葉を失っていた。神々の思惑は、エリュシオンに不自由さを味合わせ、反省させて元の世界に戻すことだった。まさか、日本の俗世の文化にどっぷりハマって、帰還を拒否するとは、予想外だった。
須佐之男命が、困ったように頭を掻いた。
「おいおい、まじかよエリュシオン。お前、本当に帰らねぇのか? じゃあ、お前が帰らねぇと、向こうの世界も困るだろうし、聖女もこっちには帰ってこられねぇぞ」
その時、異世界から、聖女が必死に叫ぶ声が響いてきた。
光の中から、異世界に召喚された日本人聖女が飛び出してきた。彼女の顔は、怒りと焦りに満ちている。
「ちょっと! なんで私をこんなところに! なんで勝手に元の世界に戻そうとしてるんですか!?」
驚く田中美咲と日本の神々に、聖女は憤慨しながら訴えかける。
「せっかくイケメンに囲まれて逆ハーレムを楽しんでたのに! 毎日チヤホヤされて、好きなだけ贅沢できて、王族や騎士に崇められて…! なんでこんな、面白くもない場所に、何の断りもなく戻そうとするんですか! 私は向こうにいたいです! 向こうで、イケメンに囲まれて幸せに暮らしたいんです!」
聖女の言葉に、日本の神々は呆然とした。エリュシオンは、呆然とした表情で、ただ「聖女……」と呟くことしかできない。
「聖女じゃなくて性女じゃんw」
須佐之男命が手をたたいて爆笑し、
「なんでよ……」
月読命が、二人…いや、二柱の俗世にまみれた「聖女」に、心の底からツッコミを入れる。
天照大御神は大きくため息をついた。
「もう……勝手にしろ!」
こうして、聖女召喚を巡る神々の争いは、予想外の形で幕を閉じた。一人の異世界の神が日本に留まり、もう一人の日本人聖女もまた異世界に留まるという、前代未聞の事態。
その日の夜、異世界の宮殿では、聖女がイケメンの王子や騎士に囲まれ、豪華な食事を楽しみながら「今日もサイコー!」と叫んでいた。高天原から見守る日本の神々は、呆れ顔でその様子を見つめていた。
「どうするんだ、これ……」
天照大御神の問いに、須佐之男命は懐から取り出した黒焦げのスマホの残骸を弄りながら答える。
「さあ? でも、俺はもう分割払いが終わるまで、働きたくねえな……」
天照大御神は、またもや湯気を出しながら、須佐之男命に怒りの鉄槌を下した。
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