6 エドガーの苦悩
「今日はここまで!! 」
お城の訓練場に騎士団団長の力強い声が鳴り響いた。
訓練を終えた騎士達が次々に帰り支度を始めるなか、エドガーは一人黙々と剣を磨いていた。
「エドガー、今夜は雪が降りそうだから早く屋敷に戻った方がいいぞ」
そう声を掛けてきたのはエドガーと仲の良い騎士団仲間のアーノルド・ニールセンだった。
浅黒い肌に赤い髪のアーノルドは、堅物だらけの騎士団の中でも取り分け陽気な性格で、騎士団のムードメーカー的な存在であり、結婚後の重苦しい雰囲気を漂わせるエドガーに対して、結婚前と変わらず気軽に話し掛けてくることの出来る唯一の男であった。
「……帰りたくない」
剣を磨く手を止めずにボソリとエドガーが呟いた。
「……お前ね、一応まだ新婚だろ? いつもいつも誰よりも遅く帰ってるみたいだけどさ、奥さん一人でずっと待ってて可哀想じゃね? 」
「あんな女など知らん。待っててくれなんて頼んでいない。眠くなったら勝手に寝てればいいんだ」
「おいおい、騎士の妻がそんな訳にもいかんだろうに」
「俺はあいつを妻などと認めていない」
「『欲深いオフィーリア』だから、か」
「そうだ」
頑として帰ろうとしないエドガーに、アーノルドはやれやれと困ったように肩を竦めた。
「俺には彼女、そんな女性に見えなかったけどな~」
ボソリとアーノルドはわざとエドガーに聞こえるように呟くと、チラリと彼の表情を伺った。
アーノルドの言葉にエドガーは端正な顔を歪め、あからさまに不機嫌な様子で剣を磨く手に力を籠めた。
アーノルドはエドガーとジュディスの婚約披露パーティーの時も、オフィーリアとの結婚式の日もその場にいたが、そのどちらのオフィーリアの姿を見ても彼女が『欲深い』女には到底見えなかった。
婚約披露パーティーでのオフィーリアは主役の二人から離れ、ずっと端の方で人目を避けるように隠れていたし、自分の結婚式でもまるでこの世の終わりのような終始暗く沈んだ顔で俯いていた。
果たして姉から婚約者を奪うような女がそんな消極的で陰鬱な態度を取るだろうか。
奪い取ったというのなら、人々の前でもっと堂々と勝ち誇るような態度になるのではないか。
もしも本当のオフィーリアが噂とは違う女性だったとしたら、エドガーの彼女に対する気持ちや態度はあまりにも残酷だ、とアーノルドは思った。
――だとしても自分にはどうすることも出来ない。
「……まぁ、所詮人妻だ。俺がどうこう言える立場ではないよな……」
アーノルドはエドガーを眺めならオフィーリアに同情しつつ、独り言のように呟いた。
* * *
日が沈み、窓の外が暗くなるとオフィーリアは部屋の窓からチラチラと降ってきた雪をぼんやりと眺めていた。
エドガーはまだ屋敷に戻って来ていない。
鍛練の日は大抵帰りは遅く、オフィーリアが待っているこの屋敷に余程帰ってきたくはないのだろう、とオフィーリアは予想していた。
夫が仕事から帰るまで先に夕食を食べるわけにもいかず、オフィーリアはひたすらお腹を空かせて彼の帰りを待っていた。
時計の針がもうすぐ22時を回る頃、オフィーリアは階下に降りると、玄関先で主の帰りを待っている執事長に声を掛けた。
「もう遅いから執事長は休んで下さい。あとは私がエドガー様を待ちますから」
寝間着に厚手のショールを肩に羽織ったオフィーリアに執事長は首を振ってその申し出を断った。
「いいえ。今夜は雪も降り寒い夜ですので暖炉の火の番も必要です。奥様はどうかもう夕食を食べて部屋でお休みになって下さい。こんなに遅くまで待っていたのですからもう充分です。旦那様に何か言われても私が無理矢理休むように言ったのだとお伝え致します」
「執事長……」
「……ハーメルとお呼び下さい。今迄旦那様の理不尽な仕打ちから奥様を守れず、申し訳ございませんでした」
そう言うと執事長――ハーメルは皺だらけの顔に優しい笑顔を浮かべてオフィーリアを見つめた。
ハーメルの笑顔に、オフィーリアは切なさに胸がギュッと締め付けられた。
「そんな、私はそんな優しくされるような人間では……」
バタン――!!
オフィーリアがハーメルに何かを言い掛けた時、突然、玄関の扉が乱暴に開けられた。
二人が同時に扉に視線を移すと、そこには頭に雪を乗せ、酒を飲んで赤い顔をしたエドガーが立っていた。エドガーはエントランスの二人をじろりと睨むと、覚束ない足取りで屋敷の中へと入ってきた。
「旦那様っ……! お帰りなさいませ。今直ぐに湯浴みの準備を致しますので……」
「いや、いい。それよりも部屋に酒を用意してくれ」
「お食事は……」
「済ませてきた。……酒を」
「……承知致しました。……では、奥様も食堂に夕食を準備致しますので……」
「……いえ、私は……」
「軽めのものを用意します。どうぞ、何かお口に入れてからお休み下さい」
「……何も食べていないのか」
執事長とのやり取りにエドガーがぴくりと反応する。
「……奥様は旦那様と一緒に召し上がろうずっと待たれていたのです」
エドガーの罵倒を予想し、ハーメルがオフィーリアを庇うように背中に隠して答えた。
「また献身的な妻を演じているのか。……とことん嫌味な女だな」
「旦那様、 奥様は決してそのような――」
「ハーメル、エドガー様にお酒と湯浴みの準備をお願いします」
オフィーリアを庇うように立ってたハーメルを押し退けるように、オフィーリアはエドガーへ出た。
そして徐に肩に掛けていたショールを手に取ると、エドガーの雪で濡れた髪の毛をショールでそっと優しく拭き取った。
「――止めろっ!! 」
バシッ――!!
「あっ! 」
突然ショール越しでオフィーリアに触れられたエドガーは、咄嗟に彼女の手を叩きつけるように振り払った。その衝撃に、オフィーリアの手から濡れたショールが床にはらりと落ちた。
「奥様っ!? 」
執事長が慌ててオフィーリアに駆け寄る。
オフィーリアは振りほどかれてジンジンする手を押さえてエドガーを仰ぎ見た。
憎悪に満ちた表情でエドガーはオフィーリアを睨んでいた。
「卑しい女の分際で気安く俺に触れるな!! 」
「旦那様! 何てことを……っ」
エドガーの怒鳴り声に、ハーメルが堪らずに抗議の声を上げる。
しかし、オフィーリアは冷静にハーメルを制すると、床に落ちたショールを静かに拾い上げ、深々とエドガーに向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
叩かれた左手が熱を帯びたようにジンジンと痛んでいたが、オフィーリアは顔色を変えずいつものように夫に向かって謝罪の言葉を述べた。
エドガーは赤く腫れ上がったオフィーリアの手を視界に捉えた。
「くっ……! 」
咄嗟とはいえ、女性に手を上げてしまった気まずさから、エドガーは逃げるようにエントランスから姿を消した。
「奥様、手が……」
オフィーリアを気遣うようにハーメルが声を掛けた。
しかし、ハーメルの言葉が聞こえていないのか、オフィーリアは何時までもその場で頭を下げていた。